享徳の乱~古河公方と堀越公方
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鎌倉公方
室町幕府六代将軍・足利義教の時代。
鎌倉に不穏な動きがありました。
鎌倉公方・足利持氏が、足利将軍家に対して反旗を翻したのです。
これを受けて足利幕府では討伐軍を鎌倉へ派遣。討伐軍は関東管領・上杉憲実と協力して、足利持氏を亡ぼしました。足利持氏は鎌倉の永安寺で自害しました。
足利持氏が死んだことにより、四代にわたって関東を統治してきた鎌倉公方は空席となり、いったん滅亡します。
そもそも鎌倉公方とは何か?
カンタンに言うと、初代将軍足利尊氏が、関東を統治するために鎌倉に設置した役所「鎌倉府」のトップを、鎌倉公方といいます。足利尊氏は京都に幕府を開き、鎌倉を嫡男の義詮に任せました。その後、義詮が上洛するに伴い、弟の足利基氏が鎌倉の統治を引き継ぎます。この基氏が初代鎌倉公方です。さらに鎌倉公方の補佐役として関東管領(はじめは「執事」といった)を置きました。
足利将軍家と鎌倉公方家
以後、基氏の直系の子孫が代々、「鎌倉公方家」として鎌倉府の長官をつとめます。そして関東管領は室町時代中期以降は、山内上杉家によって世襲されていきます。
そして四代目の鎌倉公方・足利持氏が、こうして永享の乱で、足利幕府に反旗を翻し、滅びたわけです。これにより、四代にわたり関東を統治してきた鎌倉公方は空席となり、以後、関東の実権は関東管領の山内上杉家が握ることとなりました。
鎌倉府の再興
その後、京都では将軍足利義教が暗殺され、跡を継いだ7代将軍義勝も10歳で亡くなり、8代将軍義政の時代に入っていました。
足利義政が将軍に就任してから4年後の文安4年(1447)3月、幕府重臣たちの間で、一つの話し合いが持たれます。
「永享の乱以来、鎌倉府が空席になっている。
いつまでも空席というわけにはいかぬ。
そこで新しい鎌倉公方として誰を任命するかだが…
将軍家の御兄弟に行ってもらうか、もしくは
死んだ足利持氏の息子を、新たな鎌倉公方に任じるか…」
「いずれにしても、上杉憲実に関東管領として
補佐させるのがよろしいでしょう」
「そうじゃ。上杉憲実であれば信用ができる。
あの男が関東管領になってくれれば、
誰が鎌倉公方になろうと、うまくいくだろう」
繰り返しますが、関東管領は鎌倉公方の補佐役のことです。
前関東管領・上杉憲実は京都の足利将軍家からこのように信頼を得ていました。それは10年前の永享の乱で鎌倉公方・足利持氏が京都に背いた時も、直前まで足利持氏をいさめ、戦を避けるべくさまざまに心を砕いて、工作していためでした。
しかし、上杉憲実は永享の乱で主君・足利持氏を自害に追い込んでしまったことに深く心を痛め、隠居したいとまで言っていました。その話は京都にまで届いていました。
「憲実は…隠居したがってますからなあ。
やってくますかどうか…」
「とにかく誠意を尽くして頼むしかあるまい」
こんな感じで、京都の将軍家重臣たちは上杉憲実にふたたび関東管領になってくれと書状を送ります。憲実の答えは、
「できません。私は政治の世界に戻るつもりはございません」
そうキッパリ断ってたので、やむを得ず、息子の上杉憲忠(のりただ)を関東管領に任じることにしました。しかし憲実は、息子憲忠が政治の世界に入ることを、とても嫌いました。
「憲忠、お前は関東管領になるのか?」
「はい父上、そのつもりです」
「そうか。ならば、もう父子の縁は無しじゃ」
「父上!…」
こうして憲実は、息子憲忠が関東管領に就任するにあたって、父子の縁を切ったとまで伝えられます。それほどまでに、上杉憲実にとって、主君・足利持氏を自害に追い込んだことは、深い心の傷となっていたようです。
この頃、上杉憲実が笠をかぶって、草鞋履きで、道を一人で歩いている姿が見られました。
「何をなさっているのですか!?」
「私は主君を死に追いやりました。その、せめてもの罪滅ぼしに行脚しているのです」
そんなことも、あったということです。
とにかく、文安4年(1447)3月頃、足利持氏の息子・足利成氏(しげうじ)が、第五代鎌倉公方に就任し、鎌倉府は10年ぶりに再興されました。
享徳の乱
しかし足利成氏が鎌倉公方に就任、といっても、鎌倉公方がいない間の10年間、関東は上杉氏が支配してきました。そこに、ノコノコと、10年ぶりに足利持氏の息子・足利成氏が入ってきた。上杉派としては、ああそうですかと簡単に受け入れられるわけは、ありませんでした。
「足利がなんぼのもんじゃい!この10年、関東が丸く収まってきたのは、上杉家のおかげじゃないか」
「足利なんていらねーよ」
こういう声がちまたに満ちていました。しだいに足利派と上杉派の間で、対立が深まっていきます。
宝徳2年(1450)4月には、江の島で、足利成氏と上杉憲忠軍との間で合戦が行われました(江の島合戦)。この戦はすぐに講和が結ばれて終わりましたが、上杉・足利、両者の対立は、その後も深まるばかりでした。
「おのれ上杉憲忠…憎たらしい奴」
足利成氏は個人的にも上杉憲忠を憎悪していました。なにしろ上杉憲忠は、父持氏を永享の乱で自殺に追い込んだ、上杉憲実の息子です。つまり、足利成氏にとって上杉憲忠は父のカタキです。
加えて、上杉憲忠を通して関東の情勢が、京都の足利将軍家に筒抜けになっていました。成氏は常に上杉憲忠によって見張られている状態でした。鎌倉公方としての自由が何もありませんでした。
「もう許せぬ!」
享徳3年(1454)12月末、足利成氏は鎌倉西御門の鎌倉公方邸に上杉憲忠を招き、殺害します。
これが、享徳の乱の始まりでした。
以後、足利方と上杉方で延々20年、戦いが続くこととなります。
翌享徳4年(1455)正月、相模国島河原(神奈川県平塚市)で合戦。
2月。武蔵国村岡(埼玉県熊谷市)で合戦。
3月。さらに上杉方の攻撃を受けた足利成氏は下総国古河(こが。茨城県古河市)に拠点を移します。以後、足利成氏は古河を拠点に幕府への抵抗を続けます。ために古河公方と呼ばれます。
その後、足利将軍家より遣わされた討伐軍が鎌倉に入ります。
「やはり反逆者の息子は反逆者か…公方邸を焼き払え!」
ゴオーーーーッ
足利成氏の公方邸も、その他の建物も、ことごとく燃やされます。しかし成氏はしぶとく、遠く常陸の古河の地で、幕府への抵抗を続けます。その間、幕府では改元あって何度か元号が変わりますが、成氏はずっと享徳を使い続けました。足利将軍家など認めぬという意思表示です。
幕府では、足利成氏を鎌倉公方とは認めんということで、長禄2年(1458)、新しい鎌倉公方を関東に下らせます。将軍足利義政の腹違いの兄が出家していたのを還俗させて、足利政知(まさとも)として、鎌倉へ下らせます。
「はあぁ…草深い関東へ赴任か。気が重いのう…」
などと言いながらも、東海道を一路東へ。鎌倉を目指す足利政知とその家来たち。ところが、関東では古河公方足利成氏の勢力が強く、行く先々で足利成氏方の軍勢に遮られてしまいます。
「これでは鎌倉に入るのは難しい。いったん駿河の今川家を頼ろう」
足利政知は鎌倉の手前の伊豆堀越(静岡県伊豆国市)の地で、今川氏より館を与えられ、ここを拠点としました。始めは一時的な拠点のつもりだったでしょう。いずれ様子を見て鎌倉に移るつもりだったでしょうけども、足利政知が鎌倉に入ることは生涯ありませんでした。
足利政知は生涯、伊豆・堀越の地を拠点とし、堀越公方(ほりごえくぼう)と呼ばれることとなります。
その間、足利成氏は常陸古河の地にあって、古河公方として幕府に抵抗していました。しかし…
「やはり強大な幕府を相手に戦など、無謀だ。和睦をしよう」
そういう考えに、次第に傾いていきました。
文明12年(1480)3月、足利成氏は越後の上杉房定に仲裁を頼み、幕府に和睦を申し入れます。
「わかったわかった。素直に謝ってくるなら、こちらも鬼ではないのだ」
幕府も足利成氏を厳しく処罰することはありませんでした。それどころか、成氏に古河の地に留まったままで関東九か国を統治することを許します。文明15年(1483)6月、足利成氏と幕府との最終的な講和が実現し、ここに、20年にわたった享徳の乱は終わりました。
対して足利政知は、堀越にあって伊豆一国を支配することを幕府から認められます。
こうして関東では、古河公方・足利成氏と、堀越公方・足利政知が、並び立つこととなりました。
その後の古河公方・堀越公方
その後の古河公方は…あまり振るいませんでした。
明応6年(1497)9月末。足利成氏が亡くなります。享年64。以後、子孫たち(政氏・高基・晴氏・義氏)によって順番に古河公方が世襲されていきますが、北条早雲の勢いに押され、また、関東の覇権を争う諸大名によって政治利用され、古河公方の実態は、心細いものになっていきます。
天正10年(1582)閏12月、最後の古河公方義氏が亡くなり、古河公方は滅亡しました。
一方の堀越公方・足利政知は、その後どうなったのか?
足利政知は生涯堀越の地にあって堀越公方と言われましたが、実際の権力は無く、あくまでも関東の政治は幕府が取り仕切っていました。政知には何の権限もありませんでした。政知没後に長男・茶々丸が跡を継ぎますが、北条早雲に滅ぼされ、堀越公方は消滅しました。
荒れ行く鎌倉
鎌倉は元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻め以後も、たびたび戦場になりました。1335年、北条氏の残党・北条時行が蜂起した中先代の乱、足利時代に入って、1416年の上杉禅秀の乱、そして1438年永享の乱とたびたび戦があったのですが…そのたびに鎌倉は、再建されてきました。
しかし、四代鎌倉公方・足利成氏が鎌倉を離れ、古河に拠点を移してからは、鎌倉を再建する者はなく、荒れ果てていきました。
京都相国寺の僧・万里集九(ばんりしゅうきゅう)が鎌倉を訪れた時、鶴岡八幡宮は健在だったものの、高徳院の大仏さまは手入れも行き届かず、胎内では、昼間っから博奕うちが博奕を打っていたといいます(『梅花無尽蔵』万里集九)。
次回「蓮如(一) 大谷本願寺」に続きます。