正長の土一揆

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正長元年(1428)この年は前年からの天候不順で穀物が取れませんでした。その上「三日病」とばれる原因不明の病気が流行しました。「人民多く死亡、骸諸国に充満す」と記されています。

また政治的にも不安定な年でした。正月早々、将軍義持が死に、義教に代替わりしました。五月には足利持氏の謀反計画が明らかになりました。こういう社会不安の中、史上初の農民一揆「正長の土一揆」は起こりました。

8月。近江の坂本・大津あたりの馬借がまず蜂起します。馬借とは馬で貨物を運ぶ運送業者のことです。しかし多くは生活が苦しく借金を抱えていました。

「こんな借金だらけじゃ、やってらんねえよ」

「それに今年は収穫も悪いよねえ」

「なのにお上は容赦なく取り立ててくる。いったい、俺たちに死ねってのか!!なあ、納得できるか?」

「できない!!」

こんな感じだったでしょうか。一揆はすぐに近江から山城に波及します。

「悪徳高利貸しを倒せーーーッ」

「俺たちの金で、いい暮らししやがってーーーっ」

ドカーーーン、ドカドカ、ドッカーーーン

一揆勢は酒屋(さかや)・土倉(どそう)とよばれる高利貸しの屋敷に乱入し、蔵を叩き壊し、略奪したり、借用証書を燃やしたりしました。

管領畠山満家は、侍所所司赤松満祐に出動を命じます。

どかかっ、どかかっ、どかかっ、どかかっ、

「そのほうら、乱暴はやめーーーい」

「やばい侍だ!」「なんの。侍がなんだ」

びゅん、ごちん。ごちん。

「うおっ、石を投げるのやめーーーい。えーい小癪な下司どもめ!!」

ぶうん。ぐはっ。びょう。ぐはーーーっ。

大混戦となり、幕府方、一揆方双方に死傷者が出ます。一揆はさらに波及していきました。近江から山科・醍醐に、9月下旬には京都市中でも騒ぎが起こりました。

「我々は徳政令を要求する!!」

「幕府は徳政令を出せーーっ!!」

それが、彼らの要求でした。

興福寺の大乗院尋尊が、その様子を記しています。

正長元年九月十八日、一天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋(さかや)、土倉(どそう)、寺院等を破却せしめ、雑物等恣(ほしいまま)に之(これ)を取り、借銭等悉く之を破る。管領(かんれい)、之を成敗す。凡そ亡国の基、之に過ぐべからず。日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。

一揆衆が標的としたのは酒屋・土倉といった高利貸しだけではありませんでした。大小の寺社も、法外な利息をつけて金を貸し出す高利貸しだったのです。なので一揆衆は寺々にも押し寄せて略奪し、借用証書を燃やします。

奈良にも飛び火します。

西大寺のあたりで一揆衆が騒ぎを起こしました。木津川沿いに奈良に侵入しようとした一揆勢数千は、般若寺あたりで、興福寺の僧兵に討ち取られます。

これだけの騒ぎを起こして、目的の徳政令は勝ち取れたのか?その記録はなく、不明ですが、徳政令が発布されなくても証書を燃やし尽くしたので結果として同じことになりました。ただ、大和(奈良)一国に限って徳政令が出された記録があります。大和の守護職を持つ興福寺が出したものです。

「やった!俺たちの戦いはムダじゃなかった!」
「勝利だ!!」

奈良の一揆衆は飛び上がって喜んだことでしょうね。

用語

一揆

地方武士や農民が一つの目的のために行動を共にすること。またその集団。一般に「一揆」というと農民の武装蜂起をイメージするが、農民に限らず、武士の一揆もあった。また必ずしも武装蜂起に至るわけではない。「一揆」はもともと「揆(はかりごと)を一にする」の意味だから、同じ目的のために集まった集団を指す。

馬借・車借

運送業者。馬借は馬で貨物を運ぶ。車借は車で。大津・坂本がもっとも有名で、白河・鳥羽も規模が大きかった。京都周辺の交通の要地で活躍した。社会の最下層で多くは借金に追われて火の車だった。馬数頭に人夫を引き連れて行商隊を組んで移動したらしい。

酒屋・土倉

高利貸しの類。酒屋は酒屋を前身とする者が多かったため。土倉は倉庫業を前身とする者が多かったため、そう呼ぶ。

次回「足利持氏の野望」に続きます。

解説:左大臣光永

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