足利義持から足利義教へ

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足利持氏による残党狩り

さて上杉禅秀が滅んだ後も、関東では上杉禅秀の残党がひしめき、あわよくば鎌倉公方を攻め滅ぼそうと各地で機会をうかがっていました。それに対して足利持氏は、

「生意気なクズどもめ!鎌倉公方の力を思い知るがよい!!」

徹底した残党狩りを行います。

上杉禅秀の乱終結の翌年から、下総の千葉氏を。甲斐の武田氏を。さらに翌年には上野の岩松氏を。常陸の小栗氏を攻めます。応永28年(1421)には常陸の額田(ぬかだ)氏を攻めます。

しかし、反持氏の動きは鎮まるどころからますます大きくなっていきました。その上、持氏が幕府からにらまれるという結果にもなりました。

「足利持氏め。あんなに躍起になって。やはり京都の将軍家に取って変わろうという野心があるのだな」と。

もともと鎌倉公方は足利尊氏がその息子・義詮が頼りないのを見て関東の守りとしてもう一人の息子基氏を初代鎌倉公方としたことに始まります。しかし時が経つにしたがって鎌倉公方は、京都とは独立した独自の権力を持つようになり、事あるごとに京都と対立を深めていきました。

足利将軍家と鎌倉公方家
足利将軍家と鎌倉公方家

基氏の跡を継いだ二代鎌倉公方・氏満は義満にかわって将軍になろうとして、すんでのところで関東管領・上杉憲春が自殺していさめたので、思いとどまりました。三代目の満兼も、大内義弘と東西から呼応して京都に攻め寄せようとしました。

そういう歴史があるため、京都の足利将軍家は、鎌倉公方の動きに対してとても疑い深くなっていました。いつか、背くのではないかと。そこに、持氏のこの派手な動きです。疑ってくださいと言っているようなものでした。

鎌倉公方追討

応永30年(1423)、鎌倉公方足利持氏は、またも関東に侵攻し、常陸の小栗氏を攻めました。ここに至り、将軍足利義持は幕僚たちを集め、言います。

「鎌倉公方の横暴、これ以上捨て置くわけにいかぬ。討伐すべし!」

急きょ、伊勢神宮・春日大社・東大寺・興福寺・東寺・醍醐寺など主要寺社に関東調伏の祈祷を命じ、今川範政らを将軍として関東へ発向させます。

途中、足利持氏によって常陸の佐竹氏・小栗氏・下総の宇都宮氏が討伐されたと情報が入ります。時を同じくして、九州でも、伊勢でも、幕府への反乱がおこります。「なんということだ」「あっちもこっちも、メチャクチャだ」焦る幕府軍。

しかし、足利持氏の快進撃はそこまででした。もともと癇癪持ちで何の戦略も無い男です。ああ…この人はダメだと、味方は次々と去っていきました。自分が孤立していることを悟った足利持氏は、今度は一転して、幕府に書状を送ってきます。

その内容は不明ですが、ようするにごめんなさい。もうしませんという話だったでしょう。

「ふん。まあ今回は許してやる」

足利義持は兵を引き、それ以上持氏の罪を問いませんでした。メンドくさいことにならなくてホッとしたというのが義持の本音だったでしょう。

五代将軍 足利義量

応永30年(1423)、足利義持は、養子である17歳の義量(よしかず)に将軍職を譲りました。鎌倉公方足利持氏との緊張が高まる少し前のことでした。

義量が将軍になったといっても義持が大御所として政治の実権を握っていました。だから義量は何もやることがなく、毎日飲んだくれて遊んでばかりいました。

「義量、また昼間っから酒か。体を壊すぞ!」
「そうは言っても父上、他にやることもありませんし…」

こんな調子でした。2年後の応永32年(1425)義量は19歳にして体を壊して亡くなります。

前将軍足利義持および幕府宿老たちは、頭をかかえます。

「世には実子はいない。そして義量にも子はいない。いったいどうすればよいのか…」

この時、関東でぴくりと眉を動かした男があります。鎌倉公方・足利持氏です。「今度こそ、俺が将軍になれるんじゃないか…」図々しくも考えます。あれほど幕府にたてついてきたのに、です。

しかし義持はもちろん、持氏を将軍にするなど考えるはずもなく、跡取りが決まらないまま、時はすぎます。すると2年後、さらに困ったことが起こりました。

足利義持から足利義教へ

正長元年(1428)正月、今度は当の義持が病の床につきます。もはや助からないと見えたので幕府首脳部は話しあいます。

「さて困ったことになりましたぞ。皆様方、将軍さまには実子がいらっしゃいません」
「誰を後継者にしたらいいのか」

そこで三宝院満済(さんぽういんまんさい)が代表して、病床の義持に伺いを立てます。

「将軍さま…後継者のこと、いかがはからえば…」

「世は…たとえ実子がいても跡継ぎを誰と指名しようとは思わない。まして世には実子もいないのだから、皆の推す所に従うほかは無い」

そこで三宝院満済が幕府首脳部と話し合った結果、

「クジで決めるというのはどうでしょう?」

「おお、それはいい」

病床の足利義持に尋ねると、

「クジか…それはよい」

こうして、義持の四人の兄弟のうち、いずれかを将軍とするか?それをクジで決めることになりました。義持の枕元で三宝院満済がクジを作ります。開封は義持の死後、ということになりました。

すぐに義持は息を引き取りました。享年43。

翌日、六条八幡(現京都市東山区・若宮八幡宮社)の神前で、管領畠山満家によりクジは開封されました。

「当選は…天台座主・青蓮院義円さま!」

義持の弟で天台座主を務めていた青蓮院義円が、クジに当たりました。義円は還俗して、はじめ義宣(よしのぶ)。後に改名して義教(よしのり)と名乗ります。六代将軍・足利義教です。

次回「正長の土一揆」に続きます。

解説:左大臣光永

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