長屋王の変
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密告
神亀6年(729)2月10日、漆部造君足(ぬりべのみやつこきみたり)と中臣宮処連東人(なかとみのみやどころのむらじ あずまびと)の両名が朝廷に訴えます。
「これは謀反です!!」
「まさか…長屋王に限ってそのようなこと」
「いいえ。たしかな証拠があります。長屋王は…」
「左道によって、国家を転覆しようとしています!!」
長屋王邸跡(現ミ・ナーラ)
「左道」とはあやしげなまじないの類です。
聖武天皇はハッとします。
聖武天皇と光明子との間に生まれた待望の第一皇子、基王(もといのみこ)は、1歳の誕生日を待たずに亡くなったたのです。
(もしや…長屋王がやったというのか。
まさか…そんな…)
左大臣長屋王は聖武天皇の即位直後から、聖武の政権を支えてきた側近中の側近でした。また聖武天皇にとっては45歳も年上の人生の大先輩であり、聖武天皇は長屋王のことを心から信頼していました。それだけに「裏切られた」という気持ちは大きかったでしょう。
長屋王 その出自
長屋王は天武天皇の孫です。
父は天武天皇から皇太子級の扱いを受けていた高市皇子(たけちのみこ)。壬申の乱ではまっさきに父天武天皇に合流した、あの高市皇子です。
長屋王 系図
母は天智天皇の娘・御名部皇女(みなべのひめみこ)ともいわれています。そして御名部皇女の妹は元明天皇です。
そして長屋王の后は草壁皇子と元明天皇の娘・吉備内親王(きびないしんのう)。
ほかに藤原不比等の娘・長娥子(ながこ)をもめとっていました。
長屋王はこのように天智天皇・天武天皇両方の孫にあたり、血筋のよさはこの上ありませんでした。
順調に出世していきます。
養老4年(720)、右大臣藤原不比等の没後、右大臣となり、さらに養老8年(724)聖武天皇の即位とともに正二位左大臣にのぼっています。
長屋王 その人物
長屋王は血筋がよいだけでなく官僚としても優秀でした。
養老4年(720)9月、長屋王が右大臣となった直後、蝦夷で反乱が起こります。この時長屋王はいち早く多治比県守(たじひのあがたもり)らを派遣し、反乱を鎮圧させています。
ついで神亀元年(724)にも蝦夷で反乱がおこりますが、藤原不比等の三男宇合(うまかい)を派遣し、これも鎮圧しています。
そして蝦夷に対する守りとして陸奥に多賀城という城郭を建築します。多賀城は以後、南の大宰府と並んで朝廷の重要拠点となっていきます。
多賀城阯
土地政策では養老7年(723)三世一身法(さんぜいっしんのほう)を定めます。土地を開拓すると三代までその土地を所有できるという法律です。新しい土地の開拓による税収が増えることを期待してのことでした。
また長屋王はたいへんな文化人であり、漢詩集『懐風藻』に詩三篇、『万葉集』に歌五首が採られています。その中から、
味酒(うまさけ) 三輪の祝(はふり)の 山照らす 秋の黄葉(もみぢ)の散らまく惜しも(巻8-1517)
(三輪の神官たちが守る山を照らす秋の黄葉が散ってしまうのが惜しいことよ。三輪は酒の名所により「味酒」は三輪の枕詞。)
長屋王は広大な邸宅に文化人や新羅からの使者を招いてしばしば詩や歌の会を開きました。
また長屋王は熱心な仏教徒でもあり、大般若経全巻の書写(「長屋王願経」)を二度も行なっています。
また千枚の袈裟(けさ)を編んで中国に送りました。後に鑑真和上が来日を決意したのも長屋王がいただめともいわれています。
長屋王の変
「門をあけーい」
神亀6年(729)2月10日、長屋王の広大な邸宅を、藤原宇合率いる六衛府(りくえふ)の兵が取り囲みます。六護府とは天皇の親衛隊のようなものです。
翌11日、
舎人親王(とねりのみこ)、新田部親王(にいたべのみこ)、大納言多治比池守(たじひのいけもり)、中納言藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)らが長屋王の邸宅を訪れ、罪を問いただします。
「このように、訴えている者がありますが、
いかがなのですか、左大臣殿」
「……」
(これは藤原一族の陰謀…
ならばもう逃れる道は残されていない…)
翌12日、
后の吉備内親王は子の膳夫王(かしわでおう)、桑田王(くわたおう)、葛木王(かつらぎおう)、鉤取王(かぎとりおう)らと共に首をくくります。長屋王は服毒自殺を遂げました。
長屋王の関係者97名が逮捕され、取り調べを受けました。そのうち7人が流罪に処せられ、他は無罪放免となりました。
翌13日、
長屋王と后の吉備内親王は生駒山に埋葬されます。密告からわずか3日のことでした。
長屋王の墓は現奈良県生駒郡平郡(最寄駅 近鉄生駒線 平郡(へぐり)駅)にあります。西北200mほど行った所には后吉備内親王の墓があります。
長屋王御墓(奈良県生駒郡平郡)
吉備内親王御墓(奈良県生駒郡平郡)
事件の真相は?
事件は、藤原不比等の四人の息子たち、武智麻呂・房前・宇合・麻呂(特にその中でも武智麻呂)が仕組んだという説が有力です。
不比等の娘である光明子が聖武天皇の后となり、彼ら四兄弟も朝廷で重要な地位を占めるようになっていきました。
しかし光明子が生んだ基王(もといのみこ)は早世してしまいました。
そしてもう一人の夫人(県犬養広刀自 あがたいぬかいのひろとじ)の腹に安積親王(あさかのみこ)が生まれていました。
このままでは藤原氏が政権を握れない。ならばいっそ、光明子を皇后に立てれば権力地盤がしっかりするではないか。しかし皇族でもない臣下の娘が皇后に立った前例がない。
前例がないとなると…あの決まり事にうるさい長屋王があれこれ文句言ってくるに決まっている。
ならばいっそ、長屋王をはめてしまえ!
と、こういう流れだったようですが、実際のところはよくわかりません。
長屋王の変の真相は21世紀に入った現在でも謎に包まれており、さまざまな説が言われています。
しかし長屋王の子のうち不比等の娘長娥子(ながこ)との間に生まれた子がこの事件で処罰されていないことから、藤原氏が関係しているのは確実と思われます。
発掘された長屋王邸
昭和61年(1986)、奈良市二条大路南でそごうデパートの建設にともなう発掘調査で多数の木簡が発見されます。
その数四万点以上。
木簡の中には多くの「長屋王」の字が見られ、そこが長屋王の邸宅であったことが判明しました。
長屋王邸は平城宮の東南角の広大な地域を占め、調査を通して長屋王の絢爛豪華な暮らしぶりがわかってきました。
当時の貴族社会を知る上で貴重な遺構だったのですが、残念ながら遺構の多くはその後取り壊しになりました。
現在はM!Nara(ミ・ナーラ)という複合商業施設になっており(最寄 近鉄奈良線大宮駅)敷地の一角に小さな案内板があるだけです。
長屋王邸跡(現ミ・ナーラ)
武智麻呂政権
長屋王が自害してから3ヶ月後の神亀6年(729)3月4日、藤原武智麻呂が中納言から大納言に昇進します。この時、なお武智麻呂の上に知太政官事(ちだいじょうかんじ)・舎人親王と、大納言・多治比池守がいますが、ともに高齢なので、実質、武智麻呂が政界のトップに出た形となりました。
しかも長屋王の変の後で行われた人事は武智麻呂だけです。これは武智麻呂が陰謀によって長屋王を蹴落とし、自分がトップに立ったと見て、間違いないと思います。