桓武天皇の即位と長岡京遷都

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なぜ遷都を決めたのか?

781年4月、光仁天皇の譲位を受けて、山辺親王が桓武天皇として即位します。
年号を延暦と改め、都を遷すことが発表されます。

「どうしてこの立派な平城京から遷都などするのです!
遷都となると、また民が苦しみます」

反発は多くありました。
なぜ平城京から都を遷すことにしたのかは、諸説あります。

桓武天皇の父光仁天皇は、久しぶりの天智系の天皇でした。

光仁天皇
【光仁天皇】

それ以前は元正天皇(げんしょうてんのう)715年即位から
称徳天皇770年崩御まで天武系の天皇が55年間続いていました。

桓武天皇としては、天武系の天皇の都である平城京を捨てて、
新しく天智系の都を築こうというお考えがあったようです。

また平城京は東大寺や興福寺など大きな寺社勢力があり、
仏教とは切っても切れない土地です。僧の中には贅沢な暮らしをむさぼり、 政治に口出ししてくる者もあったのです。

そして政治と宗教が結びつくとロクなことにならないと、
桓武天皇は実感していました。。

かつて聖武天皇の下、鎮護国家の名において、
国家財政がメチャクチャになりました。
そういうことへの反省が、桓武天皇にはあったのです。

「奈良の仏教勢力とは縁を切って、一から出直そう」

桓武天皇はそういうお気持ちでした。
そのため、いままでの遷都と違い東大寺や興福寺といった
大寺院を奈良に残したまま、遷都しています。

長岡京へ

784年、新しい都を建てる場所として山背国長岡の地が選ばれます。

平城京から長岡京へ
【平城京から長岡京へ】

長岡の地は鴨川と宇治川の合流点に位置し、
淀川を伝って難波にも出やすく水の便がとてもいい場所でした。

また渡来系の秦氏(はたうじ)が後に平安京の築かれる葛野郡(かどののこおり)を拠点としており、誘致に努力したともいいます。秦氏は桓武天皇の信任厚い藤原種継と姻戚関係にありました。

藤原種継の暗殺

藤原百川の甥の種継が長岡京の造営使に選ばれます。

「たのむぞ種継」
「ミカド、お任せくださいる必ずこの長岡の地に、
すばらしい都を築いてごらんに入れます」

藤原種継は桓武天皇の絶大な信頼を得て、長岡京造営を進めていきました。

藤原百川の甥の藤原種継
【藤原百川の甥の藤原種継】

しかし長岡京の工事は遅々として進みませんでした。
工事の人員が逃げ出したり、放火が相次ぎました。

「どうもおかしい」

785年9月23日、造営使藤原種継は長岡京の工事現場を視察していました。賊がいたら捕まえてやるぞと。そこへひょうと矢が放たれ、

ドスッ…

「うっっっ」

ドサッ…

「あっ…種継さま!種継さま!」

造営使藤原種継は何者かに矢を放たれて殺害されます。

種継を厚く信頼していた桓武天皇は、怒りにふるえます。

「おのれどこの誰が。
犯人を見つけ出し、種継の墓の前で首をはねるのじゃ」

そこで藤原氏と権力争いを続けていた大伴氏に目がつけられ、
大伴継人(おおとものつぐひと)をはじめ数十人が捕縛されます。

継人は訴えました。

「犯行はすでに亡くなった大伴家持の指示です。
家持が、桓武天皇の弟早良親王の指示を受けてやったことです」

「なに家持が。許さぬ!」

桓武天皇はすぐに家持の墓をあばかせ、その官位を停止します。
『万葉集』の編者として知られる大伴家持ですが、政治的には不遇で
死後までもこのような辱めにあいました。

ようやく家持の罪が許され従三位の位が返されたのは
21年後の大同3年(806年)のことです。

一方、桓武天皇の弟早良親王は淡路島に流されることとなりました。

早良親王は乙訓寺に幽閉されると一切の飲食を拒み、
無実を訴え続けました。そして淡路へ護送される途中、
無念のうちに亡くなったと伝えられます。

早良親王の屍はそのまま淡路に送られて埋葬されました。

≫次の章「平安京遷都」

解説:左大臣光永

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