平安京遷都(一)長岡京から平安京へ

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早良親王の怨霊

桓武天皇は怨霊に悩まされていました。

弟の早良親王が無実の罪で捕まり、亡くなってからというもの、桓武天皇のまわりでは不幸が相次ぎました。。

まず延暦7年(788年)桓武天皇の夫人旅子が没し、翌延暦8年桓武天皇の生母・高野新笠(たかののにいがさ)が没します。

さらに翌790年には安殿親王(あてしんのう。後の平城天皇)と神野親王(かみのしんのう。後の嵯峨天皇)の母である皇后乙牟漏(おとむろ)が没します。

早良親王の怨霊?
早良親王の怨霊?

加えて790年には長岡および畿内で天然痘が流行し、多くの人の命を奪いました。翌791年には伊勢神宮に泥棒が入り建物に放火しました。桓武天皇はすぐに勅旨を伊勢に派遣し、奉幣をささげ、できるだけ早い伊勢神宮の再建を約束します。

ついで皇太子に立ったばかりの安殿親王、後の平城天皇が心の病にかかってしまいます。

「ああ…叔父上、叔父上、許してくだされ。ああっ、あそこに叔父上の影が。じいっとこちらを見ている…はあっ、恐ろしい恐ろしい」

「なんということだ。たのみの安殿までおかしくなってしまうとは。
やはり怨霊のしわざなのか。弟よ。いまだに私のことを
恨んでいるのか…」

陰陽師に占わせたところ、「間違いなく、早良親王の怨霊がたたっています」「やはりそうか…」

ここに至り桓武天皇は確信しました。早良親王の怨霊が、すべての不幸の元凶だと。

「弟よ。どうか怒りを鎮めてくれ」

桓武天皇は、淡路に勅旨を遣わし早良親王の霊を祭りました。そして早良親王に「崇道天皇」の号を送りました。が、怨霊への恐れが消えることはありませんでした。

「どうしたらよいのだ。早良親王の怨霊は、どうすれば許してくれるのだ」

和気清麻呂の提案

問題は早良親王の怨霊だけではありませんでした。

長岡京には水害が多く、ネズミの害も多発していました。長岡京の造営は、思ったように進みませんでした。そこで和気清麻呂が桓武天皇に進言します。

「いっそ遷都をされてはいかがですか?」

「遷都を!だがどこに」

「葛野(かどの)の地はいかがでしょう?葛野は交通の便もよく、肥沃な地です」

「よし。すぐに遷都を、実行するのだ」

葛野の地に新しい都を建設するにあたり、
各国から31万4千人の労働者を徴発します。

「また遷都かよ!」
「遷都はこないだやったばかりじゃないか。
いったい、どうなっているんだ!」

駆り出される民衆にとっては、たまったものではありませんでした。
しかも長岡京に遷都してからまだ7年。
長岡京の都づくりも完成していないのに、です。

その上、目下朝廷は陸奥に蝦夷という敵をかかえ、
対外戦争の真っ最中でした。坂上田村麻呂を将軍として
つかわしていましたが、蝦夷との戦は光仁天皇の時代から、
30年以上にもわたっていました。

こんな時期に、さらに国庫を圧迫する遷都を行うとは、
まったく意味のわからない話でした。

それでも、桓武天皇は、断固、遷都を押し進めます。

早々と長岡京の王宮を取り壊し、新しい都に運ぶのでした。

この間、桓武天皇は藤原小黒麻呂に実地調査を命じました。
戻ってきた小黒麻呂が報告します。

「この地はまことにすばらしく、帝都にふさわしい地です。ただ…」

「ただ、何じゃ?」

「丑寅の鬼門に高い山があるのが気がかりです。
鬼神が入りこまないよう、なにか手を打つべきかと…」

「うむ…それは大切なことじゃな」

怨霊におびえる桓武天皇にとって、丑寅(東北)の鬼門は特に気になりました。もちろんそこにある山とは比叡山です。後に鬼神鎮めのため、延暦寺が建てられます。

≫次の章「平安京遷都(二)千年の都」

解説:左大臣光永

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