紫式部4 『源氏物語』の執筆と出仕

■解説音声を一括ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

『源氏物語』の執筆をはじめる

『源氏物語』を書き始めた時期と動機については、大きく4つ説があります。

・結婚以前
・宣孝と結婚後
・宣孝と死別後、出仕前
・出仕後

伝説によると、

上東門院彰子のもとに、斎院選子内親王(村上天皇第10皇女)から、何かいい物語がないかと言ってきた。そこで彰子に仕えていた紫式部が、じゃあ何か書いてみましょうと石山寺にこもる。なかなか書けなかったけれど、湖水に映る八月十五夜の月影を見て、ハッとひらめいた。そこで須磨の巻から書き始めたという伝説です。現在石山寺には紫式部の像を置いた「源氏の間」があります。

石山寺 源氏の間
石山寺 源氏の間

瀬田の長橋横に見て
ゆけば石山観世音
紫式部が筆のあと
残すはここよ月の夜に

『鉄道唱歌』

美しい伝説ですが、残念ながら事実とはいえません。石山寺から琵琶湖は見えず、すぐそばの瀬田川も見えません。

結局、宣孝との死別後、宮仕えに出る前という説がもっとも説得力があるようです。おそらく未亡人としての先が見えない、わびしい、鬱々とした気分を、物語を書くことによって慰めようとしたのでしょう。

ただし現在ある『源氏物語』の形に、桐壷巻から宇治十帖まで順序よく書いたのか。ばらばらに書いたのか。ばらばらに書いたとしたらどんな順番でか。さまざまな説があり、わかっていません。

はじめは友人・知人の間で回し読みする程度だったが、そのあまりの面白さが世間の評判になり、やがて藤原道長の耳に入り、式部は宮廷に召し出されることとなったようです(このあたりの経緯も、推測の域を出ない)。

出仕

寛弘2年(1005)もしくは寛弘三年(1006)12月29日、式部は藤原道長の推薦により、一条天皇中宮彰子のもとに出仕します。時に紫式部36歳。中宮彰子18歳。

寛弘2年(1005)の11月15日、一乗院内裏が火事で焼けたので、道長の東三条第を仮の里内裏と(貴族の屋敷などを臨時の内裏とするもの)としていました。

東三条院跡(中京区 押小路通釜座上松屋町)
東三条院跡(中京区 押小路通釜座上松屋町)

6年前の長保元年(999)11月、藤原道長は長女彰子を一条天皇の後宮に入内させ、翌長保2年(1000)2月、中宮に立てました。

定子と彰子、一代の天皇に二人の后が並立する、「一帝ニ后」という異常な事態がしばらく続きましたが定子は長保2年(1000)12月に25歳で亡くなりました。道長の不動の地位をおびやかす者はもはや、いませんでした。

道長は豊かな財力を彰子の後宮に注ぎ込みます。高価な調度品・美術品、内外のめずらしい書物、そして才能あふれる女房たちを彰子の教育係として集めました。紫式部もその一人でした。

おそらく『源氏物語』の評判も、道長の耳に届いていたのでしょう。

近頃皆が源氏、源氏というから読んでみたら…物語といい、人物造形といい、なるほどこれは面白い。特にこの主人公の光源氏というのは金持ちでモテモテで美男子で、まるでワシのようだ。

それにしてもこれだけの物語を作った作者とはどんなものか。先生にお会いしたい、とこうなったのでしょうか。

一条院内裏のありさま

さて紫式部が出仕した時、一条院内裏は昨年の火事で燃えていたため、藤原道長の東三条院が里内裏となっていました。しかし一条院内裏の再建工事が終わると寛弘3年3月4日、一条院内裏に移ります。

一条院内裏跡は現在、住宅街の中に碑が立ち、公園があるだけです。

一条院内裏跡
一条院内裏跡

一条院内裏跡(名和長年の碑)
一条院内裏跡(名和長年の碑)

東北の対(屋敷)に中宮彰子がすみ、女房たちはその廂の間の細殿に住みました。細長い板敷の間を間仕切りでいくつにも区切り、その一つ一つを「局」(小さな部屋)としました。

寝殿造りの構造は、神社や寺に残っている場合があります。写真は私の家の近くの大将軍八神社拝殿です。

赤い絨毯が敷かれている部分が寝殿造りでいう「廂の間」、その外側の板張の床が「簀子」。「簀子」の外側の手すりが「高欄」です。

昼はひっきりなしに廊下を人が行きかい、夜は男たちが夜這いをかけにきます。プライベートは、まったくありません。清少納言のような社交家ならともかく、内にこもるタイプの紫式部には、ストレスがたまったことでしょう。

紫式部

紫式部という名前のゆらいについては諸説ありますが、宮仕えのしはじめは藤式部とよばれていました(『栄花物語『兼盛集』)。父藤原為時が式部丞(984-986)であったことによります。しかし『源氏物語』が評判になってくると、紫の上の名にちなんで、あるいは『若紫巻』の巻にちなんで、「紫式部」とも「若紫」とも呼ばれるようになっていきました。藤原公任が、彼女のいる局のあたりを訪ねていき、「わか紫やさぶらふ」と言っているさまが、日記に描かれています。

出仕後、すぐに退出

寛弘2年(1006)12月29日より宮仕えを始めた式部でしたが、年明けて寛弘3年(1006)正月3日には、もう暇乞いをして里に戻っています。早いですね!寛弘2年は小月で29日が大晦日なので、計4日しか働いていないことになります(ただし出仕した年が本当に寛弘2年であれば)。

はじめて内裏(うち)わたりを見るに、もののあはれなれば

(はじめて内裏のあたりを見ると、あまりに素晴らしいので)

身のうさは 心の内にしたひきて 今九重ぞ思ひ乱るる(91)

(私の身の悲しさは、心の内についてきて、今宮中で宮仕えしているさなかにも、幾重にも心乱されている。宮仕えによって気分が晴れることはなかったという歌)

続けて歌のやり取りがあります。

まだ、いとうひうひしきさまにて、ふるさとに帰りて後、ほのかに語らひける人に

(まだ出仕してほどない頃、古里に帰って後、ちょっと語り合った人(同僚の女房)に)

閉ぢたりし 岩間の氷 うち解けば をだえの水も 影見えじやは

(閉ざされていた岩間の氷が、春が来て解けましたら、途絶えていた水も流れ出し、そこに影が映らないことがありましょうか。=あなたが気心を解いてくれましたら、また出仕します)

返し

みやまべの 花咲きまがふ 谷風に 結びし水も 解けざらめやは

(山辺の花を吹き散らす谷風が吹き付ければ、固く閉ざされていた氷も解けて、流れ出さないことがありましょうか=中宮さまの温かな人柄で、宮中もよい雰囲気になります。だからあなたもまた、出仕しなさい)

正月(むつき)十日のほどに、「春の歌たてまつれ」とありければ、まだ出で立ちもせぬかくれがにて

(正月十日ごろ、中宮さまから「春の歌をたてまつれ」とあったので、まだ出仕もしないで引きこもっている里で)

みよしのは 春のけしきに 霞めども 結ぼほれたる 雪の下草

(みよしのは春の景色に霞んでいましょうけれど、私はまだ雪の下草のように閉じこめられていますよ)

筋金入りの引きこもり体質ですね!

3月4日、一条天皇と中宮彰子は一条院に移るということで、東三条第では名残の宴が開かれました。式部の父・為時も楽人として?参加しました。しかし式部はまだ里に引きこもっていたようです。

やよひばかりに、宮の弁のおもと、「いつか参りたまふ」など書きて

(三月ごろ、中宮つきの女房(弁のおもと)から、「いつまた出仕するの」などと書いて、出仕を促してきた)

うきことを  思ひみだれて 青柳の いとひさしくも なりにけるかな

(悲しい出来事に心乱れて、お里下がりがたいそう長くなってしまいしたね。青柳のは「いと」にかかる枕詞。何か式部にとって嫌なことがあったらしい)

返し

つれづれと ながめふる日は 青柳の いとどうき世に みだれてぞふる(定家本)

ぼんやりと物思いにふけって長雨をながめて過ごす日は、たいそう悲しいこの世に心乱れて過ぎていきます。

わずか数日働いただけで里下がりをして、3ヶ月も引きこもっているんですね。よほどイヤなことがあったようではありますが、そもそも働くことに向いてないと思います。とことんな引きこもり体質です。

ついに周囲から式部への批判が出ました。

かばかりも思ひ屈(くん)じぬべき身を、「いといとう上衆(じょうず)めくかな」と人の言ひけるを聞きて

(これほどに心が折れそうな私であるのに「たいそうなご身分ですねえ」などと人の言うのを聞いて)

わりなしや 人こそ人と いはざらめ みづから身をや 思ひ捨つべき

(仕方ない。あの人たちは私を人前と言わないだろう。だからといって自ら身を捨てるべきだろうか。そんなことはない=周りが何と言おうと私のやり方は曲げない)

そうとうガンコです。

春が過ぎ、夏になり、秋になっても式部は里で引きこもってました。すると「箏を教えてほしいわ」と言ってきた人があるので、それに答えて、

「箏の琴しばし」といひたりける人、「参りて御手より得む」とある返り事

露しげき 蓬が中の 虫の音を おぼろけにてや 人の訪ねむ

(露いっぱいの蓬の中の虫の音を、並たいていの気持ちで人は訪ねてくるでしょうか。私などのところへ訪ねてくるなんて、あなたも物好きですね)

女だてらに『日本書紀』を読んでいることがバレて、「日本紀の御局(みつぼね)」とあだ名されてからは、一という文字すら読めないふりをしたというのも出仕直後のこのあたりのエピソードです。

中宮彰子里帰り

寛弘3年(1006)9月8日、中宮彰子は一条院内裏を下がって、道長の館である土御門邸に月末まで里帰りします。この頃までは紫式部も再出仕して、土御門邸にもお供していたと思われます。中宮彰子は亡き定子の第一皇子・敦康(あつやす)親王を育てており、土御門邸にも伴わせました。

道長三女 嬉子生まれる

年明けて寛弘4年(1007)正月早々、道長妻・倫子が三女の嬉子を出産します。後に後朱雀天皇中宮となり後冷泉天皇を産む女性です。3日夜、5日夜、7日夜、産養(うぶやしない)の儀が行われました。

産養とは子供が生まれた後に行う儀式で、初夜、3日夜、5日夜、7日夜、9日夜に親類縁者から衣類や調度品が贈られ、宴会を開くものです。

7日の産養には、中宮彰子(しょうし)より、絹と襁褓と、さまざまの贈り物が贈られてきます。

「嬉しいことだ。今までも娘を中宮にした親はあった。しかしそれは老後のことなのだ。私はまだ老後でもないのに娘が中宮に立っている。こんなに嬉しいことはない」

道長は素直に喜びをあらわしました。この時、道長42歳の男盛りです。

祝い事が続く中、紫式部の弟の惟規(のぶのり)も、36歳にして蔵人に任じられました。式部も弟の出世を祝ったことでしょう。

後輩を気遣う

はじめは引きこもりがちだった紫式部も、宮仕えにも慣れてきて、1年2年経つうちに、女房として成長していきました。

寛弘4年(1007)3月。花の盛。

この頃、藤原氏の氏寺である興福寺から、毎年中宮のもとに花が贈られる習慣がありました。花の受け取り役は大変な名誉とされました。この年の受け取り役は、はじめ紫式部でした。しかし式部は、その名誉な役を、新参者の伊勢大輔に譲ります。

すると藤原道長が言ってきました。「どうせ受け取るのだから歌を詠みなさい」紫式部としては心配もあったでしょう。この娘大丈夫かしら、ちゃんと歌詠めるかしら。そこで伊勢大輔が詠んだのが百人一首に有名な

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな

(いにしえの奈良の都の八重桜が、今日は九重の平安京に美しく色づいているなあ)

以上の話は『伊勢大輔集』に採られています。

『紫式部集』にはこれに対する式部の返歌として、

九重に にほふを見れば 桜狩 かさねてきたる 春のさかりか(98)

(九重の都に八重桜が色づくのを見ると、桜狩りをする春の盛がもう一度来たように思えるよ)

引きこもりだった紫式部も、宮仕えにも慣れ、後輩を気遣うまでに成長していることがうかがえます。伊勢大輔も紫式部の気遣いをうれしく思い、以後、紫式部と伊勢大輔は親しく交わるようになったようです。

賀茂祭の歌

寛弘4年(1007)4月19日の賀茂祭にて。藤原道長の次男、頼宗が勅使を務めるに際し、中宮彰子が散り残った桜花を、かざしとして挿しました。葵祭のかざしは普通、桂と葵ですが、ここでは中宮から特別に桜花を授けられたのです。その時、紫式部が命じられて歌を詠みました。

神代には 有もやしけん 山桜 けふのかざしに 折れるためしは(99)

(神代の昔にはあったのでしょうか。山桜を賀茂祭りのかざしとして折るなんてめずらしいためしが)

里帰りの歌

年明けて寛弘5年(1008)正月の祝い事がひととおり住むと、3日、式部は久しぶりに里帰りしました。

正月(むつき)の三日、内裏より出でて、ふるさとの、ただしばしのほどに、こよなう塵積り、荒れまさりたるを、言忌みもしあへず

(正月三日、内裏より出て、里帰りすると、ただちょっと離れているうちに、たいそう塵が積り、とても荒れているのを、正月なのに不吉な言葉をつつしむこともできないで)

あらためて 今日しも物の悲しきは 身の憂さやまた さま変わりぬる

(あらためて今日とても物悲しいのは、わが身の悲しさがまた、変わりでもしたのだろうか。以前の夫を失った悲しみに加えて、宮仕えによって別の悲しみがそこに加わったと)

花山法皇崩御

同年(寛弘5年(1008))2月7日、花山法皇が崩御しました。藤原兼家にだまし討ちされて退位した後は各地の霊場を巡回して大きな法力を身につけられ、「西国三十三所霊場」の基となり、各種の芸能に通じて「風流者」としての後半生を送りました。

享年41。墓は京都市北区衣笠北高橋町。紙屋川のほとりにあります(紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ))。

花山天皇陵(紙屋川上陵)
花山天皇陵(紙屋川上陵)

式部の父・為時も法皇の現役時代、知遇を得ており、法皇が退位されたことで為時はながく不遇の時代を生きねばなりませんでした。その意味で、花山法皇のご崩御は、為時一家にさまざまに感慨深かったことでしょう。

解説:左大臣光永

■解説音声を一括ダウンロードする
■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル