紫式部3 宣孝との結婚

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藤原宣孝

長徳4年(998)晩春。式部は帰京し、ほどなく宣孝と結婚します。式部29歳。宣孝の年齢は不明ですが、45-6と言われています。そんなにも年上の、「翁」とも言っていい夫に、式部はかなりガッカリしたようです。

宣孝は「三条右大臣」といわれた藤原定方の孫で、式部とは又従兄弟の関係です。備後・周防・山城・筑前守などを歴任しました。豪放磊落で派手好みだったようです。『枕草子』115段「あはれなるもの」に、御嶽(みたけ)山(金峰山)で精進するとき、まわりが派手な格好はよしなさい。地味にしなさいと言った。しかし宣孝は、御嶽の神がそんなこと気にするもんかと派手な格好で登った。ほどなくして筑前守に栄転した、ということが書かれています。女性にもモテ、式部以前に何人か妻がおり、5人の子がいました。歌にもすぐれ、舞もたしなみました。賀茂祭の舞人にも選ばれています。

式部帰京直後と思われる歌のやり取りがあります。

宣孝

け近くて誰も心は見えにけむ ことば距てぬ 契りともがな

(お近づきになって、あなたも私の心は見えたでしょう。これからは隠し立てしないで話し合える契をしたいものです)

式部

へだてじと 習ひしほどに 夏衣 薄き心をまづ知られぬる

(私はずっとへだてなくあなたに接してきましのに、かえって夏衣のような、あなたの薄い心を先に知ることになりました)

宣孝

峯寒み 岩間氷れる 谷水の ゆく末しもぞ 深くなるらむ

(峯がまだ寒いので岩間の谷水は凍っていますが、ゆく末はきっと氷が溶けて、深い縁となるでしょう。私たちの夫婦生活も最初は冷たいかんじがしても、じきに打ち解けるでしょう)

宣孝と式部の歌のやり取りはいくつか残っいます。なかなかに機転がきいてます。宣孝が式部にいちいちやりこめられているさまが、微笑ましいです。

式部と宣孝の歌のやり取りが続きます。

式部<

折りて見ば 近まさりせよ 桃の花 思ひぐまなき桜をしまじ

桃の枝を折って近くで見れば桃の花はいっそういいものだと気づくでしょう。そんなふうに私と結婚した以上、ますますいい女と気づくでしょう。だから、あなたのことを思ってくれない桜…別の女のことなんて惜しく思わないでいいんですよ。「思ひ隈無し」は相手のことを思いやらない。

ももといふ名もあるものを時の間に 散る桜にも思ひ落とさじ

桃の花は「百」という名もあるくらいだから、百年も咲き続けるんだろう。それに比べたら、ほんの少しの間に散ってしまう桜なんか、気にもかからないよ。

宣孝の前の妻のことを桜に、式部のことを桃にたとえているわけです。

天然痘・火事

式部と宣孝がほのぼのした歌のやり取りをする間も、世間は騒然としていました。長徳4年(998)7月8月には天然痘が大流行します。公卿にも死者が出て、一条天皇や道長も病に伏しました。長保元年(999)6月14日の夜には、内裏が火事で焼けます。

彰子入内

めでたいこともありました。

長保元年(999)11月1日、藤原道長が12歳の長女彰子を一条天皇に入内させました。

四十人の女房および、童女(めのわらわ)六人、下仕(しもづかえ。雑用係)六人が彰子に従います。宣孝も警護の任についています。

彰子のありさまは、髪は身の丈の五六寸(15-18センチ)も余り、まだ幼いのに大人びており、見事という言葉が平凡すぎるくらいであったと、『栄花物語』は記します。

この時、内裏は火事で焼けていたので、天皇は里内裏の一条院におられました。一条院は東三条院詮子(道長の姉・一条天皇母)が天皇に献上した屋敷です(現・上京区大宮通中立売上ル糸屋町)。

彰子もその一条院に入内しました。ために彰子は後に一条女院とよばれ、一条天皇という諡(おくりな)も一条院という里内裏の名から来ています。

賢子生まれる

この頃、正確な時期はわかりませんが、宣孝と式部の間に女子が生まれます。賢子(かたいこ)と名付けました。賢い子とは、いかにも式部の親心が出ていますね。

宇佐へ使する

長保元年(999)11月末、宣孝は宇佐神宮の奉幣使に選ばれます。天皇の内裏として宇佐神宮に幣帛を捧げに行くのです。特に近年は天変地異が多く、内裏が火事で焼けたりしたので、藤原道長は、その件よろしくと宣孝にことづてました。宣孝は九州でのつとめを終え、翌長保2年(1000)2月に帰京しました。

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夫婦関係の変化

いつまでも楽しい新婚生活ではいられませんでした。宣孝は当時の貴族男性の例にもれず、よそで女通いをするようになります。

宣孝が言い訳の歌。

うち忍びなげき明かせばしののめの ほがらかにだに夢を見ぬかな

忍び嘆いて夜を明かしたので、夜明けにも、ぼんやりとさえ貴女を夢に見ることができなかったことです。

式部の返し。

しののめの空霧り渡りいつしかと 秋のけしきに世はなりにけり

しののめの空は霧りわたって、いつの間にか秋の景色になりました。そんなふうにあなたは私に飽きて、私達の関係はダメになっちゃったのね。

今度は式部から。

入る方はさやかなりける月かげを 上の空にも待ちし宵かな

あなたが立ち寄るのは別の女性のもとであることははっきりわかっていますのに、上の空で待ちわびた、バカバカしい夜でしたよ。

宣孝の返し。

さしてゆく山の端もみなかき曇り 心も空に消えし月かげ

私はあなたのもとに行きたかったんですが、あなたのご機嫌が悪かったので、気が滅入って訪ねていかなかったのですよ。

こういう式部のツンケンした態度に、宣孝は結婚当初は新鮮味も感じてましたが、しだいにゲンナリして足が遠のいていきます。賢子が生まれてからはいっそう宣孝の足は遠のきました。

式部の嘆き。

垣ほ荒れ淋しさまさるとこなつに 露置きそはむ秋までは見じ

垣根が荒れていよいよ寂しそうな撫子の花(=賢子)。その撫子に露が置き添える秋までは、私はこの子のことを見ていられそうにない。死んでしいまいそうだ。「とこなつ」は撫子。

さらに式部の嘆き。

花薄 葉分の露やなににかく 枯れゆく野辺に 消えとまるらむ

薄の葉を分けたその間に露よ、どうして、枯れてゆく野辺に消えずに残っているのか。私なんかいっそ、死んでしまえばいいのに。「花薄」は薄の穂。

宣孝の死

長保3年(1001)4月25日、宣孝は死にました。享年49。結婚生活はわずか3年足らずでした。後半は夫婦生活が冷めがちだったとはいえ、やはり式部にとって唯一無二の夫ではありました。式部の胸の内は想像するにあまりあります。

前年から疫病が大流行して死者が巷にあふれと記録があるので、宣孝もその犠牲になったと思われます。

世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名ある所々書いたるを見て、しほがま

見し人の煙となりし夕べより 名ぞむつましき塩釜の浦

(かつて夫であった人が煙となってしまった夜からというもの、その名に親しみが感じられるようになった塩釜の浦。塩釜は宮城県塩竈。松島湾にのぞむ歌枕。塩釜という地名から塩焼く煙を想像し、夫を荼毘にふした時の煙を思い出している)

その年の夏ごろ、

世の中騒ぎしきころ、朝顔を、同じ所にたてまつるとて、

消えぬまの身をも知る知る朝顔の 露とあらそふ世を嘆くかな(紫式部集48)

(死ぬまでのわずかな間、かりそめに生きているに過ぎないわが身のことを知る知る、朝顔が露と争うほどに、はかない人生を嘆くことよ。夫宣孝を失った悲しみを歌う)

続けて、

世を常なしなど思ふ人の、をさなき人のなやみけるに、から竹といふもの瓶にさしたる女房の祈りけるを見て

(世を無常と思う私が、幼子(賢子)が病気になった時、から竹を瓶にさした女房が病気平癒を祈るのを見て。まじないの一種?)

若竹のおひゆくすゑを祈るかな この世をうしといとふものから

(若竹のように若いこの子が育っていく行く末を祈ることですよ。私はこの世をつらく悲しいものと思っているとはいっても)

続けて、

身を思はずなりと嘆く事のやうやうなのめにひたぶるの様なるを思ひける

(自分の身は思い通りにならないと嘆くことが、だんだん高ぶって、ひどく思いつめたようになっているのを思って)

かずならぬ心に身をばまかせねど 身にしたがふは心なりけり(55)

(物の数にも入らない私だから、この身は心の思うままにはならないとはわかっている。しかし、こういう悲しい身の上に従って、心はいよいよ落ち込んでいくことよ)

心だにいかなる身にかかなふらむ 思ひ知れども思ひ知られず(56)

(私のように悲しい境遇にいる者の心さえも満足させるのは、どんな時だろう。そんなのは無い。そう思い知ってはいても思い知ることができない)

しかもこの年、長保3年(1001)12月22日、道長姉で一条天皇母の東三条院詮子が亡くなり、天下諒闇となりました。悲しみに、悲しみが重なる形となりました。

求婚者

このように夫の死を嘆きつつも歌という形で悲しみをら昇華させつつあった紫式部。そこへ新たな求婚者があらわれました。

門たたきわづらひて帰りにける人の、つとめて
(門をたたきつきれて帰ってしまった人が、早朝書き送ってきた歌)

世とともに あらき風吹く 西の海も 磯べに 波も寄せずとや見し

(あなたと付き合ってきた中で、荒い風が吹く西の海であるにも関わらず、磯辺に波がまったく寄せ付けないような、こんな冷淡な扱いをはじめて受けました。西の海ということから、男は西国の国司であったと思われる)

と恨みたりける返り事

かへりては 思ひしりぬや 岩かどに 浮きて寄りける 岸のあだ波

(お帰りになって、あなたは思い知ったでょうか。岩角に浮いて寄せる岸のあだ波のように、浮気性のあなたは。「かへりては」男が帰ったことと、波が返るを掛ける。「岩かど」は式部のガードが硬いことの象徴。「あだ波」は無駄に打ち寄せる波。男の浮気性で誠意がないことをとがめている。)

年かへりて、「門はあきぬや」といひたるに、

(年あらたまって、「喪は明けましたか」と男がいってきたのに対して)

たが里の 春のたよりに 鶯の 霞に閉づる 宿を訪ふらむ(51)

(鶯であるあなたは、どなたの里の春を訪れたついでに、霞に閉ざされている私の宿を訪ねてきたのでしょうか。よその女のところに行ったついでに私を訪ねたんでしょう?私は浮気性のあなたのことなんて知りませんわよ。夫の喪中に訪ねてきた男をたしなめ、男の浮気性をとがめている)

その後のやり取りがないので、男は振られたと思われます。

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この間、藤原道長の権勢はいよいよ盛んで、土御門邸で歌会・風流の宴をもよおし、華やかなことでした。式部の父・藤原為時もしばしば招かれました。

式部はしかし、夫を失った悲しみが拭いくれず、鬱々として毎日を過ごしていました。

年頃つれづれに眺め暮らしつつ、花鳥の色をも音(ね)をも、春秋に行き交ふ景色、月の影、霜雪を見て、その時来にけりとばかり思ひ分つきき、いかにやいかにとばかり、行く末の心細さはやるかたなきものから、はかなき物語などにつけて、うち語らふ人、同じ心なるはあはれに書き交はし、少しけ遠き、たよりどもを尋ねても言ひけるを、ただこれ(物語)をさまざまにあへしらひ、そぞろごとに、徒然をば慰めつつ、世にある人数とは思はずながら、さしあたりて、恥かしいみじと思ひ知る方ばかり逃れたりしを、さも残ることなく思ひ知る身のうさかな。

『紫式部日記』

長年、ぼんやり景色を眺め物思いにふけりつつ、花や鳥の色をも音をも、春秋に行き交う景色、月の影(姿)、霜雪を見て、その季節が来たのだとだけ心に判断しつつ、どうしようどうしようとばかり、行く末の心細さはどうにもならないものであったが、虚しい作り事の物語などにつけて、語らう人、同じ心である人とはしみじみと趣深く手紙のやり取りをして、ちょっと遠くにいて交際がしづらい人とは、縁故をたよってもなんとか文通したが、ただ物語のことだけをさまざまに受け答えをして、何となく過ごして、退屈をまぎらわしつつ、自分のことを世にある人数のうちには思わないながら、さしあたって、恥ずかしい、辛いと思い知ることからだけは逃れていたのに、宮仕えをしたことで、その恥ずかしさ・辛さをあます所なく思い知った、我が身のつらさよ。

あへしらふ…相手をする。受け答えする。

未亡人としての先の見えない心細い毎日。その中で、友人知人と物語を作り語り合うことだけが唯一の慰めであったことが書かれています。

『源氏物語』への影響

『源氏物語』には 主要な登場人物がなくなる 悲しい場面がいくつもあります。ことに印象深いのが、第一帖、桐壷巻で、桐壺の更衣が亡くなって、帝(桐壺帝)が悲しみに暮れている場面です。

いとかうしも見えじと、思《おぼ》ししづむれど、さらにえ忍びあへさせたまはず。御覧じはじめし年月《としつき》のことさへ、かき集めよろづに思しつづけられて、時の間《ま》もおぼつかなかりしを、かくても月日《つきひ》は経《へ》にけりと、あさましう思しめさる。

たづねゆくまぼろしもがなつてにても魂《たま》のありかをそこと知るべく

帝は、このようにひどく悲しんでいる姿を人に見せまいと、お気持ちをお沈めになるが、まったくこらえ通すことがおでにきならない。更衣をはじめて御覧になった年月のことまでも、かき集めて万事思い出しなさって、生前は少しの間でも側に置いていないと気がかりだったのに、こうして更衣が亡くなってしまった後も月日はすぎるものだなと、呆れたことに思われる。

たづねゆく……
(冥界に尋ねていく幻術士がほしいものだ。人づてにでも更衣の魂のありかをそこと知るつてができるだろうに)

……

おそらくこの場面には、夫信孝を亡くした作者の経験と気持ちが、強く反映されていると思われます。

さらに源氏物語の構成のたくみなことは、第二部の終盤、第四十一帖「幻」において、ヒロイン紫の上がなくなった後、光源氏があまりの悲しみに、呆然として抜け殻のようになっている、その場面が、物語はじめの、桐壺巻の、桐壺の更衣の葬儀の場面と重なるのですよ。

つまり世代を超えて、父桐壺院の悲しみと、息子光源氏の悲しみが、リンクして、さらに、作者自身の気持ちがつながって、とても感動的な物語構成です。ぜひそういうことを踏まえて、源氏物語をよんでいただきたいと思います。

解説:左大臣光永

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