紫式部2 越前へ
青春時代
式部は姉と弟惟規ともに成長していきました。また「童友だち」がいたらしく、式部の家集の巻頭に、
「はやうよりわらはともだちなりし人に、としごろへて行きいひたるが、ほのかにて、七月十日の程に月にきほひてかへりにければ」(はやくから童友だちだった人に、長年たってから出会ったところ、ちょっと顔を見ただけで、10月10日の月に競うように帰っていったので)
という詞書に続けて、
めぐりあひて 見しやそれともわかぬまに 雲かくれにし よはの月かな
後の紫式部を作り上げた、17歳から20歳くらいまでにかけて、大事な時期とはいえ、史料が少なく詳しくはわかりません。
24歳-25歳ころに姉が亡くなったようです。
幼い頃からずっと一緒だった姉を失ったことは、式部にはたいへんな傷心でした。それで、弟を亡くした人を姉に見立てて、お互いに姉、妹といいあい、歌のやり取りも残っています。
宇治の大君と中君には、その姉と呼んだ女性と、式部のことが重ねられているという説もあります。
越前赴任
長徳2年(996)正月の除目で、父為時は越前守に任じられます。
ただし最初は淡路守でした。それを為時は淡路国は条件が悪いので、天皇に申文を奏上して越前守に替えてもらったという経緯があります。
その時、為時が一条天皇に訴えた申文は有名です。
苦学寒夜、
紅涙霑襟。
除目後朝、
蒼天在眼。
苦学の寒夜、
紅涙 襟を霑す。
除目の後朝、
蒼天 眼に在り。
寒い夜にもがんばって勉強したのだ。
しかし希望の位は得られなかった。私は血の涙を流し、
その涙で袖が紅く染まった。
今回の人事では、希望がかない、
晴れ晴れとした天を
あおぎたいものだ。
(『日本紀略』『今昔物語』『古事談』など)
秋から赴任することになり、紫式部のまわりはイソイソとしてきます。
越前への旅
越前への旅は逢坂山を越えて大津の打出浜に出て、舟で琵琶湖西岸を北上。塩津から上陸し、北陸道を進んで塩津山を越え、越前敦賀に入ります。そこから日本海沿いに北上し、五幡(いつはた)、杉津(すいづ)、鹿蕀山(かへるやま)を越えて、今庄を経て、岡本郷の国府(現 武生市)に入ります。
藤原為時・紫式部 越前へ
その間、式部はめずらしい風物を歌に詠みました。
高島では、
近江の海にて三尾が崎といふ所に網引くを見て
みおの海に網引く民のてまもなく
立ちゐにつけて 都恋しも
白髭神社 紫式部歌碑
みおの海(琵琶湖)で網引く漁師たちの手を休める暇もない立ち振舞を見るにつけても、もうここが都でないことが実感され、遠く離れつつある都が恋しく思われるなあ。
塩津山では、
塩津山といふ道のいとしげきを賤の男の怪しきさまどもして、なほ辛(から)き道なりやと言ふを聞きて、
(塩津山という道のたいそう険しい所を身分の低い男たちが怪しい格好などして、やはり辛い道だなあと言うのを聞いて、)
知りぬらむ往き来に馴らす塩津山
世に経(ふ)る道はからきものぞと
(あの男たちもわかっているのだろう。いつも行き来し慣れている塩津山のように、人生を生きていくのは辛いものだと。「塩」→「辛い」の連想)
越前国府について、
暦に初雪降ると書きたる日、目に近き日野の嶽といふ山の雪いと深う見やらるれば
ここにかく日野の杉むら埋む雪 小塩の山にけふやまがへる
(ここにこのように日野の杉むらを埋めている雪を見ると、京の西にある小塩の山と見間違えてしまう)
(以上三首『紫式部集』)
小塩山は京の西にある山で、藤原氏の氏神、大原野神社があります。
古里に帰る山路のそれならば 心やゆくと雪も見てまし
(古里に帰る山路がそれであれば、登ってみようという気にもなるのだが。そんな気持ちで雪を見ている)
早くもホームシックで、都恋しい気持ちが出ているようです。
越前滞在中、式部は都にいた頃から付き合いのあった宣孝との文通を続けていました。おそらくこの間、宣孝からプロポーズを受けたものと思われます。
越前には「松原客館」という、渤海からの使者を饗応する施設があり、外国の使節や商人が出入りしていました。式部の父為時は、越前滞在中に宋の商人と漢詩のやり取りをしています。宣孝は紫式部に対して「年返りて、唐人見にゆかむ」といったと記録されています。こうしたエキゾチックな要素も、後々の創作に役立ったのでしょう。光源氏が人相見の高麗人(渤海人)と対面する場面(桐壺)には、越前滞在中の経験が生きているという説もあります。
帰京
長徳4年(998)、式部は父を残して単身、帰京の途につきます。越前滞在二年目でした。田舎暮らしが飽きたことと、宣孝との結婚に踏み切る決意がついたためと思われます。
鹿蕀山を越えて塩津山を越えて塩津に出ると、今度は琵琶湖東岸を南下し、東に遠く伊吹山を見ながら、米原郊外の磯浜(現 長浜)、または老津島(未詳)を経て、大津打出浜に上陸。逢坂山を越えて京に戻りました。
途中、
卒塔婆の年へたるがまろび倒れつつ人に踏まるるを
心あてにあなかたじけな苔むせる 仏の御顔そとはみえねど
(当てずっぽうに踏みつけられていく、ああかたじけないことよ。苔むした卒塔婆に仏の御顔は外には見えないけれど、内には宿っているのに)
磯の浜に鶴の声々になくを
磯がくれ同じ心にたづぞ鳴く 汝(な)が思ひいづる人や誰ぞも
(磯がくれに私と同じ心にたづが鳴く。お前が思い出す人はいったい誰だろう)
夕立しぬべしとて空の曇りてひらめくに
かきくもり夕だつ浪のあらければ うきたる舟ぞしづ心なき
(曇って夕立が降って浪が荒くなれば、湖にうかぶ舟は落ちついた心がしない)
水海に老つ島といふ洲崎に向ひて童べの浦といふ入海のおかしきを口ずさみに
(琵琶湖に老つ島という洲崎に向かって童べの浦という入り江がある、その地名の面白いことを口ずさみに歌に詠んだ)
老つ島 島守る神や いさむらむ 浪もさわがぬ童べの浦
(老つ島では、その名の通り、老人が子供をいさめているのだろうか。その名に似合わず浪もさわがない、童べの浦よ)
次の章「紫式部3 宣孝との結婚」
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