紫式部1 出生と少女時代

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時代背景

紫式部は御堂関白藤原道長の時代の人で、道長より4歳年下です。華やかな国風文化が盛んになった時代でした。生まれたのは冷泉天皇退位後2年目、円融天皇?の御代でした。

式部が生まれる前年の安和2年(969)安和の変という政変がありました。左大臣源高明(醍醐天皇皇子)が失脚し、太宰府送りになりました。式部8歳のときは同じく醍醐天皇皇子の源兼明が失脚しました。

藤原北家は権力をのばす中で、藤原でない氏族(菅原氏・紀氏・在原氏)などを排除してきました(他氏排斥)が、その動きを降下した皇族にまで及ぼしていったものです。

源高明・源兼明の失脚によって、もはや藤原北家に対抗しうる他氏はいなくなりました。すると今度は藤原氏同士の争いが始まります。また天皇までもわが意のままに退位させるようになります。

19歳の花山天皇が藤原道兼(およびその背後の兼家)に騙されて深夜御所を抜け出し、髪をおろし、退位された。それで兼家の孫の一条天皇が即位しました。「寛和の変」です。

一条天皇が即位すると、藤原兼家が摂政をつとめ、兼家なき後は兼家の子、道隆が摂政となりました。豪放磊落で酒を好んだことが『枕草子』などに書かれています。

しかし道隆は弟の道兼、道長らを脅威と感じており、はやく自分の直系の子孫で藤原氏の相続を固めたいということで、嫡男の伊周(これちか)を内大臣に任じました。また娘の定子を一条天皇の中宮として立て、自分の直系子孫で権力地盤を固めようとします。

これで一安心と思ったのもつかの間、正暦6年(995)道隆は亡くなりました。酒の飲みすぎとも言われています。後をついだ弟の道兼も「七日関白」とよばれるほどあっけなく亡くなり、五男の道長が内覧の宣旨を下され

翌年、道長はライバルの伊周と隆家が花山法皇に弓矢を放った不敬事件につけ込み、伊周・隆家を中央政界から追放します。これに伴い中宮定子も落飾して一条天皇の後宮を去ることとなりました。

こうして、長きにわたった藤原氏同士の争いを抑えて藤原道長がトップに躍り出ました。

翌長保元年(999)道長は長女彰子を一条天皇の後宮に入れます。以後、道長は30年にわたって次女、三女と次々に時の天皇に嫁がせ、天皇家と藤原氏の結びつきを強め、荘園からのゆたかな収入もあり、中世最大の権力者となりました。

出生

紫式部は天禄元年(970)頃、漢学者として知られた藤原為時の次女として生まれました(時期は諸説あり)。本名は不明です。母は藤原為信の女。式部には姉が一人おり、式部出生後二年目に弟の惟規(のぶのり)が生まれます。式部が生まれた時、父為時は24歳で播磨権少掾という職務について播磨守の下ではたらいていました。

母為信の女は20歳くらいだったと思われます。

母藤原為信の女は惟規出産後、973年頃、式部が3つか4つの頃、亡くなったようです。どんな女性だったかは、ほとんどわかりません。その後為時は別の女性のもとに通い、なお数人の男女を得ましたが、その、新しい妻とは同居はしなかったようです。

父の家系

父為時の家系は藤原北家ながら摂関家とは別系統で、接関家が藤原良房から出ているのに対し為時の家系は良房の弟良門から出ています。

為時の祖父兼輔は文学面で有名でした。

兼輔の政治的実績はよくわかりません。しかし文学面においては大きな功績を残しました。特に和歌に堪能でした。勅撰和歌集に45首が入集し、『兼輔集』という家集をあらわしました。兼輔の歌は小倉百人一首の27番に採られています。

みかの原わきて流るるいずみ川 いつみきとてか恋しかるらむ

鴨川の西に屋敷があり、ここで紫式部も養育されたといいます。現在、その跡地は廬山寺というお寺になっています。

廬山寺
廬山寺

廬山寺
廬山寺

鴨川の水を庭に導き入れ、四季折々の草花を楽しんだため「堤中納言」と呼ばれました。

そのほか粟田にも別荘があり、右大臣定方(三条右大臣)、紀貫之、凡河内躬恒、坂上是則、大江千里ら当時を代表する歌人たちが訪れ、一大文化サロンの様相を呈していました。しかし993年に兼輔が死ぬと、兼輔を中心とした歌壇の賑わいも下火になっていきました。

兼輔の長男が雅正(まさただ)、さらにその長男が為頼。紫式部の叔父に当たるこの人物も文学に堪能な人でした。『伊勢物語』や『大和物語』などを踏まえた歌を詠んでいます。

少女時代の式部

少女時代の式部について。いくつか断片的な記憶が残っています。

6歳の夏、空の一角に青白い尾を引いた雲が光っていた。それも何日も。女房たちはあれはほうき星だから見てはいけないといったと。

またある時、夜中に人声がざわざわするので眼が覚めると、西の空が真っ赤にそまっていた。次の日、父が帰ってきて、内裏が火事で焼けたといった。その後ほどなく、地震があった。

乳母に抱かれて縁側に出たがグラグラして立っていられない。あちこちで家が崩れる凄まじい音がしたと。

幼少期の学問

父為時は式部の弟惟規に漢文の指導をしていましたが横で聞いていた式部のほうが早く吸収してしまい、父為時は「お前が男だったら」と言って嘆いた話は式部の少女時代の聡明ぶりを伝える逸話として知られています。
少女時代の式部の天才ぶりを伝える有名な逸話があります。

弟の惟規が父為時について『史記』を勉強していました。横では姉の式部が聞くともなく聞いていました。

「さあ繰り返すのだ。『力は山を抜き気は世を』」…
「『力は…』…ええと…」

「なんじゃお前は、ちっとも勉強が身につかないなあ」

ところが横で聞いていた式部は、

「●?●?●?」

よどみなく答えます。

「ああ…お前が男子であったなら」

父為時はそう言って悔しがりました。少女時代の式部の聡明さを伝える逸話です。

(『諸道勘文(しょどうかんもん)』)

為時、花山朝の蔵人となる

貞元2年(977)式部が8歳の時、父為時は東宮(後の花山天皇)の御読書始(おどくしょはじめ)に副侍読をつとめました。侍読は天皇や東宮のそばに仕えて学問指導する学者のことです。

花山天皇陵(紙屋川上陵)
花山天皇陵(紙屋川上陵)

これをきっかけに東宮の御所によく出入りするようになり、永観2年(984)円融天皇が病気のため譲位すると17歳の東宮が花山天皇として即位。懐仁親王が皇太子に立てられます。すると為時は年若い花山天皇の蔵人に取り立てられ、いよいよ天皇のおそば近く仕えるようになります。また式部丞(しきぶのじょう)ともされました。式部丞とは式部省につとめる官吏のことです。式部省は役人の人事を行う役所です。

花山天皇の立場

花山天皇は心細い立場に立たされていました。老獪な右大臣・藤原兼家はさっさと自分の孫に当たる懐仁親王を位に付けたいと狙っていました。先帝・円融天皇をさっさと譲位させたのも兼家でした。大臣公卿たちも兼家に逆らえないことはわかっているので、誰も年若い花山天皇に味方しませんでした。

花山天皇は即位当初、意欲的に政治にとり組まれました。側近の藤原義懐(ふじわらのよしかね)と藤原惟成(ふじわらのこれなり)に命じて貨幣(銭貨)を鋳造させたり、新しく荘園を作ることを禁じたりしました。

その一方、父冷泉天皇の狂気を受け継がれたところもあったのでしょうか…あやしい話も伝わっています。

即位式の時、冠が重いといって投げ捨てたり、清涼殿の壺庭で馬を乗り回したり、即位式の直前、高御座(たかみくら・天皇の御座)に女官を引っ張り込んで犯したとか。

「冷泉天皇の狂気は人目にハッキリわかるが花山天皇のそれはわかりにくい。そこが逆にやっかいだ」と言われました。

寛和の変

そういうわけで、藤原兼家はさっさと花山天皇を譲位させたいと狙っていました。その機会は予想外に早く来ました。寛和元年(986)6月23日、花山天皇は寵愛していた藤原為光の娘・忯子(しし)を喪って、悲しみにくれていました。

そこへ、兼家の息子・道兼が申し上げます「いっそご出家なさっては?何なら私もご一緒しますよ」「なに…?」

善は急げ、さっそく今夜二人で出家しようということで内裏を抜け出し、山科の元慶寺で花山天皇は髪をおろしました。しかし道兼は「ちょっと父に挨拶してきます」といって、まんまと直前で逃げ出しました。

元慶寺
元慶寺

元慶寺
元慶寺

その頃宮中では兼家が息子たちに命じて東宮兼仁親王のもとに玉璽を移していました。こうして騙された花山天皇は譲位し、一条天皇が即位しました。これを寛和の変といいます。

為時は花山天皇の寵愛を受け、式部大輔にまで昇進していましたが、この政変により官職を失いました。40歳の背中にはさぞかし世に余された哀愁が漂っていたことでしょう。

往時情を傷ましめ、覚むれども眠るに似たり。繁き木は昔より聞く摧(くだ)け折るる事早く、不才無益なれば性霊なし

そんなことを自嘲ぎみに書いています。

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解説:左大臣光永

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