菅原道真(五)大宰権帥(だざいのごんのそち)
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こんにちは。左大臣光永です。
先日から菅原道真についてお話しています。
今回は第五回「大宰権帥(だざいのごんのそち)」です。
太宰府 観世音寺 梵鐘
破局
昌泰4年(901)正月7日、右大臣菅原道真と左大臣藤原時平はともに従二位に叙せられます。急転直下は、その後すぐでした。同じ月の25日、道真は突如、大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されます。「菅原道真は寒門(身分の低い家)から大臣に取り立てられたのに、分際をわきまえず、専横の心あり。前上皇をたぶらかし、天皇の廃立をはかった」
というのが公式の発表でした。
菅原道真の娘が醍醐天皇の弟である斉世(ときよ)親王に嫁いでいたので、道真は醍醐天皇を排して斉世親王を立てようとした、というのです。
これは左大臣藤原時平はじめ反対派のでっちあげと思われます。菅原道真は学者出身でありながら右大臣にまで至り、周囲から妬みを買っていました。そこで反対派は菅原道真を無実の罪で陥れた、というのが定説になっています。
私も、右大臣にまでなっていた道真が、そんな危険なクーデーターをわざわざ計画する動機は無いと思います。
面会謝絶
知らせを受けた醍醐天皇の父宇多上皇は大いに驚かれます。
「道真が謀反。そんなばかな。道真の人柄の確かなことは、我が誰よりも知っておる。帝は誤解されているのじゃ」
宇多上皇はすぐにわが子醍醐天皇のもとに御輿を走らせます。しかし皇居に駆け付けた宇多上皇のお輿は門の前で行く手を阻まれます。
「帝はお会いにならないとおっしゃっています」
「なぜ阻む。これなるは上皇様の御輿であるぞ」
「誰であろうと、門を開けるなと帝の仰せです」
結局、宇多上皇は引き下がるほかありませんでした。
大宰府へ
昌泰4年(901)2月1日、道真を送る使いは京を出発します。それまでに道真の門人たちの多くが左遷され、息子たちのうち任官していた四人も左遷が決まりました。
菅大臣神社(菅家邸址)
菅大臣神社(菅家邸址)
道真は、出発する際、ふと庭のほうを見て、子供の頃から親しんできた梅の木に目を留めます。そこで詠んだ歌はあまりにも有名です。
東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春を忘るな
都も遠くなった途中で詠んだ歌、
君がすむ やどのこずゑを ゆくゆくと
かくるるまでも かへりみしはや
明石の駅で駅長に詠んだ詩
駅長莫驚時変改
一栄一楽是春秋
駅長驚くなかれ時の変改することを
一栄一楽これ春秋
『大鏡』
大宰府の暮らし
道真一行が大宰府についた日時は正確にはわかりませんが、昌泰4年(901)2月中旬には着いていたでしょう。
大宰府の配所生活は惨めなものでした。みすぼらしいあばら家を宿所としてあてがわれ、床は朽ち、竹垣は荒れ放題、屋根は覆いの板もなく雨漏りがするという具合でした。
道真は配所生活のことを数々の詩に託し、亡くなるにあたって都で親しかった紀長谷雄(きの はせお)に託しました。『菅家後集』にある46篇の詩がそれです。
その中でもっとも有名な二篇の詩を読んでみましょう。
不出門
一從謫落就柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無檢繋
何為寸歩出門行門を出でず
一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就(つ)きて従(よ)り
万死兢兢(ばんしきょうきょう)たり 跼蹐(きょくせき)の情(こころ)
都府楼は纔(わずか)に瓦(かわら)の色を看(み)、
観音寺(かんのんじ)は只(た)だ鐘の声を聴く
中懐(ちゅうかい)は好く孤雲(こうん)を逐(お)いて去り
外物(がいぶつ)は相い逢(お)うて満月ぞ迎ふる
此(こ)の地は身に檢繋(けんけい)無しと雖(いえど)も
何為(なんす)れぞ寸歩(すんぽ)も門を出でて行かん『菅家後集』478
大宰府政庁跡
ひとたび官位を追われ流されて、このあばら屋住まいとなってからというもの、
いつ死んでもおかしくない恐怖にビクビクして、ちぢこまって小股で歩いているような心持だ。
大宰府政庁の高楼は、わずかに瓦の色を見るだけで、
観音寺はただ鐘の声をきくだけだ。
心の中はちぎれ雲に従って遠くへ去ってしまっている。
けれども外の世界は、いつも変らずめぐり合って、満月を迎えるのだ。
この身は手を縛られて繋がれているわけではないが、
どうしてちょっとでも門を出たいと思えるだろうか。
太宰府 観世音寺 講堂
■謫落 官位から落とされて流されること。 ■柴荊 柴と荊で、あばら屋。 ■万死兢兢 こうなったら命は無いとビクビクする。 ■跼蹐 ちぢこまって小股で歩くこと。 ■都府楼 大宰府の政庁正面にあった高楼。 ■観音寺 大宰府の観世音寺。古く天智天皇が亡母斉明天皇を祀って建てたという。 ■中懐 心の中。 ■孤雲 ちぎれ雲。 ■外物 外の世界。 ■檢繋 手をくくられて繋がれていること。
太宰府 観世音寺 梵鐘
精神的にまいってる様子が伝わってきますね。
次も有名すぎる詩です。
九月十日 菅原道真
去年今夜待清涼
秋思詩篇獨斷腸
恩賜御衣今在此
捧持毎日拜餘香去年の今夜 清涼に待す
秋思の詩篇 獨り斷腸
恩賜の御衣は今此こに在り
捧持して 毎日餘香を拝す『菅家後集』482
去年の今夜は清涼殿の宴で、お傍にはべらせていただきました。
「秋思」という題で私が詩を詠んだこと…
思い出すとはらわたが引きちぎれそうです。
あの時、いただいた御衣は、今もここにございます。
毎日捧げもっては、あの時の残り香を拝しております。
この詩は、配所生活一年目に、去年の宮中での宴を思い出して詠んだ歌です。
九月九日は【重陽の節句】、その翌日の十日に、宮中で詩会がもよおされたのです。そこで道真は帝(醍醐天皇)のリクエストに応じて見事な詩をつくりました。
この時道真は、醍醐天皇より御衣を賜ったのです。その、ありがたい御衣を、道真は大宰府まで持ってきていました。
このように菅原道真は自分を大宰府送りにした醍醐天皇に対しても、けして恨まず、生涯変らぬ忠義の心を抱いていました。
延喜3年(903)2月25日、ついに亡くなります。遺骸は遺言により大宰府に葬られます。享年59。そこに後に建てられたのが、安楽寺というお寺です。後に太宰府天満宮となります。
太宰府天満宮
次回は最終回「天神信仰」です。お楽しみに。
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