菅原道真(三)阿衡事件

こんにちは。左大臣光永です。ぐづついた天気が続きますね。このまま梅雨、突入でしょうか。

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先日から菅原道真についてお話しています。前回は、菅原道真が讃岐守として四国讃岐に赴任するも、いまいち気が乗らない。憂鬱な気分に包まれているようなところまでお話ししました。

本日は第三回「阿衡(あこう)事件」です。

光孝天皇から宇多天皇へ

菅原道真が讃岐守として四国讃岐に赴任している間、都の情勢は変化していました。

仁和3年(887)8月、光孝天皇の病が悪化します。

もともとが55歳というご高齢でのご即位であり、またその治世の間、たびたび天変地異がおそい、老齢の天皇のお体とお心をむしばんでいたのです。

光孝天皇勅願の仁和寺二王門
光孝天皇勅願の仁和寺二王門

「基経…基経…」
「ははっ、ミカド、基経はこれに」

光孝天皇の病床に召しだされたのは、太政大臣・藤原基経です。光孝天皇のもとで実際に政治をとりしきってきたのは基経でした。

光孝天皇は自分に実権がないことをよく承知しており、基経に遠慮して今日まで皇太子を立てていませんでした。しかし、明日をも知れぬ命となっては、もうぐずぐずしてもいられませんでした。

「次の天皇には…第七皇子の源定省
(みなもとのさだみ)を…立てよ…」

「ははっ…しかし定省殿は臣籍に降下し、
源氏となっておりますが」

「かまわぬ。一度臣籍に下り臣下の立場を経験した、
その経験は、必ずや良い方向に働くであろう。
少なくとも私よりは…うまくやってくれる…」

光孝天皇のお言葉を受けて、急遽第七皇子で臣籍に下っていた源定省(みなもとのさだみ)を親王に戻し、皇太子に立てます。源定省この年21歳。

光孝天皇から宇多天皇へ
光孝天皇から宇多天皇へ

「これで…よし」

光孝天皇は源定省の立太子を見届けると、その日のうちに息を引き取られました。享年58。

55歳のご高齢で即位され、関白太政大臣藤原基経のもとで、政治むきの実権はありませんでしたが、人柄のおだやかな、風流を愛する天皇で、周囲から愛されていました。

光孝天皇陵(仁和寺そば)
光孝天皇陵(仁和寺そば)

亡くなる直前、光孝天皇は枕元に藤原基経と定省を呼んで、右手で藤原基経の手を取り、左手を定省の頭の上に置いて、言いました。

父子のような親しさで、君臣水魚の交わりで。どうかよく定省を補佐してやってくれと。それが光孝天皇の遺言となりました。

百人一首には光孝天皇の御製「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」が採られています。

かくして、

仁和3年(887)8月、宇多天皇が即位します。この時21歳です。

11月の即位式で宇多天皇は藤原基経に勅書を下します。いわく、

それ万機の巨細、百官已(すで)に総(す)べ、みな太政大臣に関白し、然る後に奏下、一(いつ)に旧事のごとく、主者施行せよ

すなわちここに史上はじめて「関白」の語が用いられました。

もっとも関白の職権そのものは、先帝光孝天皇の代から行われており、公式文書ではじめて言葉になった、ということです。

ちなみに「初の関白」が藤原基経だということは間違いないのですが、その就任時機については諸説あり、いまだ定まっていません。

阿衡の紛議

宇多天皇は即位早々、藤原基経を引き続き関白の職に任ずる詔勅を下します。藤原基経は当時の作法にのっとりいったん辞退します。

その後宇多天皇は当時最高の学者といわれた左大弁兼文章博士の橘広相(たちばなのひろみ)に文章を書かせます。

「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」

しかし、この文章に藤原基経の側近、文章博士藤原佐世(もんじょうはかせ ふじわらのすけよ)が噛みつきます。

「だまされてはなりませぬ。阿衡とは位が高いだけで実権の無い名誉職です」

「なに名誉職。ワシを国政から締め出そうというのか」

阿衡の紛議
阿衡の紛議

藤原佐世がこんなことを言い出したのは、橘広相を学会から追放して、自分がいい位置に立とうと狙ったもののようです。

「ミカドのお気持ちはよくわかった。誰が実力を握っているのか、この際思い出していただこう」

基経は、これが言いがかりに過ぎないことは承知しながら、宇多天皇への牽制のために、あえて言いがかりをつけます。

宇多天皇は即位直後に政治改革についての意見を役人たちに求めるなど、油断ならないところがありました。これまでのように藤原氏主導ではいかなくなるかもしれない。天皇親政なんてことを言い出した事だ。早いうちに藤原氏には逆らえないことを叩き込んでおくべきだと。

そこで藤原基経は一切の政務を放棄します。たちま国政が立ち行かなくなってしまいました。

ああどうしたものか。

宇多天皇はじめ朝廷は困り果てます。

そこで左大臣源融が宇多天皇に提案します。

「先の詔勅は取り下げてください。とにかく基経殿の怒りを解かないことには、どうにもなりません」

「うう…やはりそれしかないか。無念だがのう…」

そこで宇多天皇は藤原基経に伝えました。

「橘広相が阿衡という言葉を使ったのは、朕の本意ではなかった」

しかし藤原基経は、

「ならば橘広相を処罰してください」

なかなかにガンコでした。そこで左大臣源融は明法博士(法律学者)を集めてたずねました。

「橘広相殿のことだが、いったいどんな処罰を下せばいいのか」

博士たちの意見は辛辣でした。

「天子の意思を曲げて文書を偽造したのですぞ。
遠流に処すべきです」

「いや位のある者は罪が減ぜられる。
官位を剥奪し、罰金として銅二十斤をおさめせればよい」

いずれにしても、重い処罰です。

本来、橘広相は中国の史書から「阿衡」という言葉を引用しただけであって、何の落ち度もないことは誰の目にも明らかです。

しかし、その何の落ち度もない橘広相が、宇多天皇と藤原基経のいがみ合いのはざまにあって、罰せられようとしていたのでした。

ところが、この話はあっけなく解決します。

宇多天皇と藤原基経はこの年の10月にはあっけなく和解し、当初の話通リ、基経は関白に就任し、橘広相は罪を免じられたのです。

なぜ、そんなあっさり解決したのか?

そこに菅原道真が関係してきます。

菅原道真の意見書

菅原道真は京都の門人たちからの手紙で今回の「阿衡事件」の成り行きを注意深く見守っていました。しかし、何の落ち度も無い橘広相が処罰されようとしていると聞いて、黙っていられなくなりました。

すぐさま讃岐を後にして、上洛し、藤原基経に意見書を送りました。

「信じて諌めざる、これを諛(ゆ)と言う」に始まる堂々たる意見書です。自分の信念に反して諌めないことは、阿諛(こびへつらい)であると。

道真は意見書の中で、今回のことは「己が業」つまり道真がよって立つ文章道にとって、そして基経自身にとって、嘆くべきことだと語ります。

「こんなことで橘広相殿を処罰すれば、以後、文章を起草することなど、誰もできなくなります。わが国に文章道が廃れます」

「私も文章道によって立つ者として、わが国に文章道が廃れることを悲しむのです」

「一方、橘広相殿は宇多天皇擁立の最大の功労者であり、広相殿の子女がすでに二人、宇多天皇の皇子を生んでいます。橘広相殿の宇多天皇の功労は、太政大臣(藤原基経)にもまさるものです」

「太政大臣はすぐれた徳によって、藤原氏累代の後継者として恥じないお方です。その太政大臣が」

「橘広相殿のようなすぐれた学者を除いてその恨みを買うことは、少しもためにならないことです。千尋の堤も一匹の蟻によって崩れるのたとえともなりましょう」

「ううむ…」

菅原道真の意見書は堂々として、情と理の両方に訴えてきました。藤原基経の心を動かすに十分でした。

仁和3年(887)10月には藤原基経と宇多天皇は和解し、基経は最初の話し通リ、関白に就任しました。橘広相には恩賞が下され、罪許されました。

宇多天皇の信任を得る

とにかく事件は丸く収まりました。

以後、宇多天皇はいよいよ道真を御信頼するようになっていかれました。

寛平2年(890年)道真は讃岐守の任期を終え中央政界に復帰。宇多天皇の信任を得て翌寛平3年(891)には蔵人頭に抜擢されます。この年、長い間権力をふるっていた関白藤原基経が亡くなり、息子の時平が跡をつぎます。

次回「遣唐使の廃止」お楽しみに。

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