菅原道真(ニ)讃岐守時代
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こんにちは。左大臣光永です。
先日から菅原道真についてお話しています。
第一回は、菅原道真の誕生と、菅原氏の出自。そして道真から先祖伝来のほまれ高い、文章博士に任じられあたりまでお話しました。
本日は第二回「讃岐守時代」です。
前回ぶん
http://history.kaisetsuvoice.com/Michizane1.html
讃岐守に任じられる
仁和2年(886)正月、42歳の菅原道真は8年間務めた文章博士を解任され、讃岐守に任命されます。
当時の官僚は、一時地方官として飛ばされて、任期が終わってから京に呼び戻され、地方官としての成果をもとにして帰京後のポストが決まる、というのが普通でした。
■文章博士 大学寮で文章道(もんじょうどう。歴史と詩文)の指導にあたった者。
だから道真の讃岐守就任も、からなずしも左遷というわけではありません。
しかし道真としては祖父清公、父是善と菅原家の伝統であった文章博士を辞任することは心苦しく屈辱的でした。
送別の宴の中で、道真は詠んでいます。
北堂餞宴
我将南海飽風煙
更妬他人道左遷
倩憶分憂非祖業
徘徊孔聖廟門前北堂餞宴
我将に南海の風煙に飽かむ
更に妬む 他人の左遷と道ふを
倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非(あら)ず
徘徊す 孔聖廟の門前
私はこれから南海の素晴らしい風物をイヤというほど楽しむことになろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。
文章博士の解任と讃岐赴任に、道真がひどく傷ついている様子が伝わってきます。
讃岐赴任
菅原道真が讃岐守として現地に着任したのが仁和2年(886)4月。着任早々は引き継ぎの業務に謀殺され、わが身を顧みる暇もありませんでした。しかし、夏が過ぎ、秋になると道真の心に寂しさがよぎります。
「家書久しく絶えて」…家の便りが無いのが心痛いのです。道真は妻子を都に残したまま讃岐に赴任してきたのです。また、菅家廊下の門人たちのことも気にかかりました。たまさかの文が、とても尊く思えるのでした。
その頃の道真の詩です。
秋
涯分浮沈更問誰
秋来暗倍客居悲
老松窓下風涼処
疎竹籬頭月落時
不解弾琴兼飲酒
唯堪讃仏且吟詩
夜深山路樵歌罷
殊恨隣鶏報暁遅秋
涯分浮沈(がいぶんふちん) 更に誰(たれ)にか問はむ
秋来たって 暗(ほのか)に倍(ま)す 客居(きゃくきょ)の悲しみ
老松(ろうしょう)の窓下(そうか) 風の涼しき処
疎竹(そちく)の籬(まがき)の頭(ほとり) 月の落つる時
解せず 琴を弾じ兼つ酒を飲むを
唯だ仏を讃(たた)え且(か)つ詩を吟ずることに堪えたり
夜深(よふ)けて山路の樵歌(しょうか)罷めば
殊に恨む 隣鶏(りんけい) 暁を報ずることの遅きを
私の生涯の浮き沈みについて、いったい誰に尋ねよう。
秋が来て、さらに増すのだ。遠い異郷の地にいることの悲しみが。
松の老木の梢が覆いかかっている窓の下、風の涼しい所、
まばらな竹の籬のあたりに月が落ちる時、
私は琴を弾じ酒を飲むことができない。
ただ仏を讃え、かつ詩を吟じることが、かろうじてできるだけだ。
夜が更けて山路の樵の歌がやめば
ことに恨めしい。隣の家の鶏が、なかなか暁を告げないことが。
翌仁和3年(887)秋。暇を乞うていったん上洛。冬。ふたたび讃岐に着任。その時道真は、もううじうじしてはいませんでした。
「やるぞ。讃岐の民の暮らしをよくする。
人々が住みよい国にする」
道真は半ば強引にやる気をかきたてました。讃岐で成果を上げれば帰京後のポストもいいものが用意されるだろうという考えもあったでしょう。
民衆の暮らしの貧しさに触れて、衝撃を受けた詩も作っています。これは『寒早十首』十連作のうちの第一首目です。
何人寒気早
寒早走還人
案戸無新口
尋名占旧身
地毛郷土瘠
天骨去来貧
不以慈悲繋
浮逃定可頻何れの人にか寒気は早し
寒は早し 走還の人
戸を案ずるに新口(しんこう)無し
名を尋ねて旧(もと)の身を占(かんが)う
地毛(ちもう) 郷土瘠(や)せたり
天骨(てんこつ) 去来(きょらい)貧し
慈悲を以て繋(つな)がざれば
浮逃(ふとう) 定めて頻りなるべし
どういった人に寒気は一番早く来るだろうか。
寒気が早く来るのは、走還の人…土地を捨てて逃げ出したが、どうにもならなくて再び戻ってきた人のもとに、寒気は最も早く来るのだ。
戸籍を調べても近年の戸籍の異動は記されていない。
だから名前をきいて、もとの身を推測するしか無い。
この地は穀物は穫れず土地は痩せている。
人々の生まれついての貧相な骨格で、過去も未来も貧しい。
慈悲をもって人々をこの地につなぎ取めなければ、
土地を捨てて逃げ出す人が増えるばかりだろう。
■走還 口分田から逃げ出して浮浪民となっていたが、また戻ってきた人。桓武朝以来、浮浪民の増大は頭の痛い問題だった。公地公民の原則は崩れていた。 ■案戸 戸籍を調べる。 ■新口 近年の戸籍の異動。 ■地毛 穀物。 ■天骨 生まれつきの骨格。 ■去来 過去と未来。 ■浮逃 土地から逃げ出すもの。
「走還」とは口分田から逃げ出して浮浪民となっていたが、また戻ってきた人です。桓武朝以来、代々の政府にとって浮浪民の増大は頭の痛い問題でした。
逃げ出した百姓の中には大貴族・大寺社に身をよせて、その庇護下に入って土地を耕す者もありましたが、この詩のように、どうにもならなくなって、また戻ってくる者もあったのです。
彼らの暮らしに、道真が深い同情を寄せ、政府のあり方に疑問を感じているさまが、この詩から読み取れます。
しかし道真は讃岐の民の貧しさを詩には詠むが、具体的に民の手助けをするとか、税を減らすとか、特に行政官として成果を上げた様子はありません。
道真はあくまでも文章家であって、地方行政官として泥にまみれて働くタイプではなかったということでしょう。
有意義な人生経験。下積み修行。そう言えば言えますが…。当時の道真にとって、讃岐守という職務は、あまり楽しくはなく、充実感の得られないことでした。
任期四年目に詠んだ「苦日長(日の長きに苦しむ)」という詩からは、ほとほとくたびれはてた道真の声が聞こえてくるようです。
忽忝専城任
空為中路泣
吾党別三千
吾齢近五十
政厳人不到
衙掩吏無集
茅屋独眠居
蕪庭閑嘯立
眠疲也嘯倦
歎息而鳴慨
為客四年来
在官一秩及
此時最攸患
烏兎駐如繋
日長或日短
身騰或身繋
自然一生事
用意不相襲忽ち 忝くす 専城の任
空しく為に中路に泣く
吾が党、別るること三千
吾が齢(よわい) 五十に近し
政 厳にして人到らず
衙(つかさ)掩(おお)ひて 吏集まることなし
茅屋(ぼうおく)に独り眠りて居り
蕪庭(ぶてい)に閑(しずか)に嘯(うそぶ)ひて立つ
眠りに疲れ、また嘯くことも倦む
嘆息して鳴き悒(うれ)ふ
客となって四年来
官にあって一秩及ぶ
此の時最も患ふる所
烏兎(うと)駐(とどま)つて繋れしが如し
日長く 或は日短し
身騰(のぼ)り或は身繋がる
自然なり 一生の事
意を用(も)って相ひ襲(おそ)はず
あっという間に国司としての任期は終わりに近づいた。
私はこの任務のために道半ばにして泣いたのだ。
わが門弟は三千人が離れていった。
わが齢は五十に近い。
政治が厳しいので誰も寄り付かない。
役所はみすぼらしく、役人は集まらない。
私は茅葺き屋根の小屋で独り眠り、
蕪の生い茂る庭で静かに詩を口ずさんで立つ。
眠りに疲れ、また詩を口ずさむことにも飽きる。
ため息をついて嘆き憂う。
この地に客人となって四年。
役人となってからは十年経つ。
この時もっとも心配するのは、
時間の進行が止まって、縛り付けられたように思うことだ。
日は長く、あるいは日は短く、
わが身は舞い上がるかと思うと、あるいは地に縛り付けられる。
人の一生は天然自然のことだ。
賢い心で、逆らわないようにしよう。
■専城 国司として現地に赴任すること。 ■衙 役所。讃岐の国庁のこと。 ■嘯 詩を口ずさむ。 ■一秩 十年。 ■烏兎 時間の進行。 ■襲 逆らう。
次回「阿衡(あこう)問題」に続きます。
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