藤原道長の生涯(十八)太政大臣となる

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こんにちは。左大臣光永です。

実家の熊本でのんびり過ごしています。本日は、奥山鹿の平山温泉に行ってきました。加藤清正が、汗疹を治したと伝説される温泉です。山里のわびしい景色と曇天の空を背景に、湯けむりが立ちのぼり、ひなびた風情がありました。

本日は、藤原道長の生涯(十八)「太政大臣となる」です。

■京都講演 2/24 声を出して読む 小倉百人一首
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道長、引退

長和5年(1016)12月7日、道長は左大臣を辞します。三度目の辞職願が入れらての辞職でした。前々から道長は引退を考えていたのです。それをいよいよ実行に移したのは、嫡男頼通の成長によるところだったでしょう。

この年、頼通25歳、道長51歳です。

左大臣を辞した翌日の12月8日、京都は大雪となりました。道長は一族引き連れて桂の山荘に雪見に出かけました。美しい桂山荘の雪景色をみながら、現役時代のさまざまな苦労が走馬灯のように駆け巡ったことでしょう。

年明けて寛仁元年(1017)3月16日、道長は摂政を嫡男の頼通に譲り、従一位に叙せられます。いよいよ引退です。同時に藤原氏の氏長者も頼道に譲りました。

以後、頼通が摂政内大臣として左右の大臣の上に立ち、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季という新しい体制となります。といっても道長は引退後も「大殿」と呼ばれ、政治に影響力を持ち続けます。

頼道が摂政に任じられた祝いの席で、道長は歌を詠みました。

このもとに我は来にけり桜花
春の心ぞいとどひらくる

木のもとに立ち寄ると桜花が咲いている。そんなふうに我が子のもとに立ち寄ると立派な成長が見える。春の心はたいそう晴れ晴れしている。

三条天皇崩御

寛仁元年(1017)5月9日、三条上皇が三条院にて崩御します。享年42。葬儀は5月12日に行われます。道長は「病み上がりであるから」と称して出席しませんでした。もっともこれは仮病というわけではなく、道長は正月以来足の調子が悪く、歩くのも難しい状態で、病後も体調がすぐれなかったようです。

思えば三条上皇は左大臣道長との確執といい、度重なる火事といい、眼病といい、ご不幸が重なりました。

心にもあらで浮世にながらへば
恋しかるべき夜半の月かな

小倉百人一首に採られた三条院御製の歌は、その悲痛なご生涯を思う時、いよいよ胸にせまるものがあります。

墓は京都衣笠山のふもと、金閣寺のすぐ側にある北山陵(きたやまのみささぎ)がそれです。

三条天皇陵(北山陵)
三条天皇陵(北山陵)

三条上皇の遺領(遺した土地)は、中宮妍子との間に生まれた第三皇女・禎子内親王の相続となりました。父三条上皇がことに愛された禎子内親王。この時5歳です。

敦明親王 東宮退位事件

三条上皇が崩御して三ヶ月後の8月のはじめ、東宮敦明親王が、「東宮をやめたい」と言い始めます。知らせを受けて道長が駆けつけます。

「いったいどういうことございますか」

「世には助けてくれる人もなく、東宮といっても、あってなきが如き立場じゃ。父上皇が亡くなった今、まったくどうしようもない」

「とにかく一旦、思いとどまってはくださいませぬか」

「もう決めたことじゃ」

もともと敦明親王は東宮をやる気はありませんでした。父三条上皇の強い意向で強引に東宮に立てられただけであり、本人は東宮という立場を負担に思っていました。また世間も、「敦明親王は東宮にふさわしくない」と見ていました。

「ううむ…」

結局、道長は敦明親王の申し出を受け入れました。すぐに道長は頼通と話し合い、廃太子およびあらたな立太子に伴うさまざまな手順を整えます。

寛仁元年(1017)8月9日、一条天皇と皇太后彰子との間の敦良(あつなが)親王が東宮となります。後の、後朱雀天皇です。敦良親王=後朱雀天皇は後一条天皇の弟であり、道長の孫です。この時9歳でした。

これで道長は、後一条天皇に続いて次の天皇も自分の孫から出せることが確定したわけです。道長が狙ったことではなかったでしょうが、道長には図らずも万々歳な結果となりました。

一方、東宮をやめた敦明親王は8月25日、小一条院(こいちじょういん)の号を受け、准太政大臣となります。この時、小一条院敦明親王、24歳。

道長は小一条院敦明親王の身分を保証し、手厚く保護を加えたばかりか、自分の娘・寛子(明子腹)を嫁がせました。

道長は政治的に敵対している相手に対しては容赦ありませんでしたが、いったん敵が力を失うと、かえって保護にまわるのでした。かつて中関白家の伊周などに見せたのと同じふるまいです。

石清水八幡宮参詣

寛仁元年(1017)9月22日から3日間にわたって、道長は石清水八幡宮に参詣します。

現 石清水八幡宮
現 石清水八幡宮

妻倫子、嫡男頼通以下の息子たちを中心に公卿十二人、三女の尚侍威子、四女の嬉子も同行しました。その行列は「甚だ美麗」であり京都中の「上下見物す」と書かれています(『小右記』)。道長の権威を世に示すのにじゅうぶんな行列でした。

三日間の参詣をすませた帰り、一行は山崎の渡りから船に乗ります。大きな船を四艘つなぎ、檜皮葺の屋根があり、廊(屋根のついた通路)が渡され、障子や屏風のある、贅沢を尽くしたものでした。

淀川を遡っていくと、女たちの声がきこえてきます。

「春いらんかえー春いらんかえー」

「おお、遊女の船か」

五十艘ばかり集まって、乱痴気さわぎになったことが書かれています。

太政大臣となる

寛仁元年(1017)の後半も天皇の代替わり(三条天皇→後一条天皇)に伴うさまざまな神事・仏事・朝廷行事に明け暮れます。

11月27日、賀茂の臨時祭が開催されました。道長は牛車を立てて見物していました。そこへ頼通が訪ねてきて、

「父上、お喜びください。帝より太政大臣に任ずるとの宣旨が下りました」

「うむ…」

(だがワシはとっくに摂政を辞している。いまさら太政大臣になっていいものか。ここはいったん辞退しておくか…?)

しかし結局、道長は太政大臣の話を受けました。

孫である後一条天皇の元服式が迫っていたためです。それで皇太后彰子が言ってきたのでした。「太政大臣の祖父が、孫である帝の加冠役をつとめることは理にかなっています」と。それで、道長は太政大臣の話を受けました。

「世間の事退くと雖も天道(天皇)援くるところ辞すべきにあらず」(世俗の仕事は引退したといっても天皇を助けることなら断るべきでない)と道長は『御堂関白記』に記しています。

12月4日、道長は二条第にて太政大臣就任の饗応を開きます。二条第は道長が前々から造営していた屋敷です。

近く予定している、三女威子の後一条天皇への入内に備えた屋敷でした。威子の入内後は、二条第を里内裏にすることを道長は想定していました。

饗応の席の道長の姿は「帝王に異ならず。誰が誹り誰が難ずるか(まるで帝王だ。誰が道長に文句を言えよう。誰も言えない)」と、藤原実資は記しています。例によって、実資は道長に対して批判的です。

後一条天皇 元服式

寛仁元年(1017)12月、道長、太政大臣就任。

年明けて寛仁二年(1018)正月3日、後一条天皇元服。加冠役を太政大臣道長がつとめ、理髪役を摂政頼通が務めました。

後一条天皇の元服式が終わるとすぐに道長は太政大臣を辞める辞表を提出し、受理されました。

またこの年寛仁二年は、火事で焼けていた内裏の再建が終わり、後一条天皇が新造内裏に遷られました。

道長は4月から7月まで胸を病みました。

苦しみのあまり高い声を上げました。それは単なる病気とは思われませんでした。

藤原道兼の怨霊であるとか、三条上皇の怨霊であるとか、三条上皇御息女が呪詛しているとか、世間はいろいろと噂しあいました。三条上皇御息女とは敦明親王に嫁いだ藤原顕光の娘のことです。義理の父である三条上皇が!道長によって無惨な死を迎えた。ああ道長め、恨めしい。というわけです。実際、どうだったのでしょうか…

次回「望月の歌」に続きます。お楽しみに。

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2/24 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」

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第六回。66番前大僧正行尊~。

百人一首の歌を会場の皆様とご一緒に大きな声を出して読み、解説します。

歌の意味・背景・歌人の経歴・歴史的背景など、一首一首、詳しく解説していきますので、深く立体的な知識が身につきます。

解説:左大臣光永

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