藤原道長の生涯(十七) 三条天皇の苦悩

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こんにちは。左大臣光永です。

よく歴史を勉強する入り口として、漫画がいいと言われますが、私はむしろ、一通り学んだ内容を復習するのに漫画が向いてると思います。

今回、藤原道長について『御堂関白記』などの基礎文献にもとづいてメルマガ記事を書いているわけです。で、その後で、藤原道長についての漫画を読んでみたのですよ。一つ一つの知識がすっと気持ちよく、頭の中でつながります。

しかし最初に漫画を読むと、かえって混乱するとも思いました。

漫画はわかりやすい反面、かえって説明不足になる部分もあると感じます。絵はあまりにも多くの情報を詰め込めるがゆえに、重要な情報を一コマだけでさらっと読み飛ばしてしまうことにもなるのです。だから最初のとっかかりとして、漫画は一長一短だと思います。

本日は、藤原道長の生涯(十七)「三条天皇の苦悩」です。

道長 風流を楽しむ

長和4年(1015)の後半、道長は桂の山荘や宇治の別業にたびたび趣き、逍遥を楽しみました。

腹違いの兄道綱、息子頼通・教通、それに公任・行成・源俊賢といった馴染みの面々のほか、多くの公卿殿上人が同行し、風流の遊びを楽しみました。例によってアンチ道長派の実資は「老齢のため」などと称して道長の誘いを断っています。

道長 五十の賀

10月25日、道長の五十の賀が皇太后彰子の主催で、土御門邸で行われます。大臣公卿参列しての、盛大な宴でした。百人の僧が道長の長寿を祈って読経します。その声が土御門邸の内外に響き渡ります。

土御門邸跡(現京都御苑 東北部)
土御門邸跡(現京都御苑 東北部)

道長と公任
道長と公任

宴のさなか、公任と道長で、歌のやり取りをしました。まずは公任の歌。

あひおひの まつを いとども いのるかな ちとせの蔭に 隠るべければ 公任

相生の松のように、お互いに五十歳となりました(道長と公任は同い年)。いっそうの長寿を祈りますよ。私は千歳も付尽きない殿の蔭にあって、ちゃっかり恩恵を被ろうと思いますので。

道長の返し。

おいぬとも しるひとなくは いたづらに たにのまつとぞ としをつままし 道長

どんなに松が長寿をたもとうと、それを知る人がいてくれなくては、無駄に谷底の松として年を重ねるばかりだ(長生きしてもあなたのような友がいないとつまらない。ずっと友でいてくれ)。

人々はこの歌のやり取りを褒めちぎり、口々に朗詠しました。

まことに華やかな宴でした。しかし道長二女・妍子は夫・三条天皇の病を気遣って、参加しなかったようです。

三条天皇、譲位を決意

長和4年(1015)10月21日、道長を准摂政に任ずとの宣旨が下ります。三条天皇の眼病はいよいよ進み、もうとても政務を行えるような状態ではありませんでした。それで道長が准摂政として、政務を執り行うこととなったのです。

三条天皇はすでに譲位を決意されていました。ただし一つ条件がありました。第一皇子の敦明(あつあきら)親王を次の東宮に立てることです。

敦明親王
敦明親王

「ううむ…しかしそれは」

道長としては容易くは飲めない条件でした。道長は長男敦成(あつひら)親王を次の天皇として即位させた後は、次男敦良(あつなが)親王を東宮に立てたいのです。自分と一切血縁関係にない敦明親王を東宮になど、したくないのです。

またそれを抜きにしても、敦明親王の立太子には、問題がありました。敦明親王にはどこか、素行に問題があったようです。東宮としてはふさわしくない人物であると記録されています。

また敦明親王自身も東宮になりたくありませんでした。そのため、敦明親王は内裏を出て堀川院という別の御殿に移ってしまいました。そもそも敦明親王本人に、やる気がなかったのです!それでも父三条天皇の、敦明親王を東宮に、という意思は固いものがありました。

また皇太后彰子が、父道長に、敦明親王を東宮に立てるよう、切々と諭したことも、道長を動かしました。

「…わかりました。次の東宮には、敦明親王を立てましょう」

「おお…道長!わかってくれたか!これで朕も、心残りなく譲位ができるというもの…」

ふたたび内裏炎上

後は譲位するばかりという段になって、三条天皇をさらなる不幸が襲いました。長和4年(1015)11月17日、ふたたび内裏が炎上したのです。三条天皇としては道長の土御門邸から新造内裏に移って、すっかり身の回りを整えてから譲位しようと準備していたのでした。ところがたった二ヶ月で、新造内裏がまたも燃えてしまったのです。

自分の治世の間に内裏が二度も燃えるのは、よくよくわが徳の至らぬせいだと、三条天皇はお心を傷められました。

三条天皇は避難するとき、冠を忘れてしまい、第一皇子の敦明親王がかわりに自分の冠をさしだしました。天皇はそれをかぶって、中宮妍子を抱いて避難したといいます。

『栄花物語』には、翌12月十余日の月の明るい夜、三条天皇が中宮妍子と月を見ながら詠んだ歌が記されています。

十二月の十余日の月のいみじう明きに、上の御局にて、宮の御前に申させたまふ

心にもあらでうき世にながらへば
恋しかるべき夜半の月かな

不本意ながらもこの辛い世の中に長生きしていれば、
いつかこの夜半の月が恋しく思える日が来るのだろうか

三条天皇の悲痛な胸の内をあらわして心打たれずにはいられません。この歌は小倉百人一首68番に採られています。

三条天皇譲位

長和5年(1016)正月29日、三条天皇は枇杷殿にて譲位。

枇杷殿跡(現 京都御苑西部)
枇杷殿跡(現 京都御苑西部)

譲位の儀が終わると、三種の神器が琵琶殿東門から運び出され、土御門第へは南門から入り、東宮の敦成親王が土御門邸にて践祚します。後一条天皇です。

※践祚とは、前天皇が亡くなって、あるいは譲位して、ただちに皇位継承の証である剣と玉璽が新帝のもとに遷されることです。その後、日を置いて即位式が行われます。もともと「践祚」と「即位」は同時に行われましたが、平安時代以降は別に行われるようになりました。

また、三条上皇皇子・敦明(あつあきら)親王が東宮に立てられました。この時、後一条天皇9歳、東宮敦明親王23歳。

そして幼い天皇を補佐するため、51歳の道長が摂政の地位につきます。

「ついにここまで来た…」

道長は感慨を深くしたことでしょう。娘を天皇家に入れて、その子から皇子が生まれ、その皇子が天皇として即位し、摂政関白として天皇を補佐する立場から権力を握る。

長年、道長が追い求めてきた絵図が、とうとう実現したのでした。

2月7日、後一条天皇即位。6月2日、天皇は土御門邸から新造された一条院内裏に遷ります。すべてが思う通りに運んでいる!道長がそう思っていた矢先、思わぬ不幸が襲います。

相次ぐ出火

7月21日、土御門邸より出火。土御門大路から二条大路へと燃え広がり、父兼家が開いた法興院にまで及びました。道長はあわててかけつけるも、藤原氏の氏の長者のしるしである朱器台盤を取り出すのがやっとでした。

法興院跡(現 法雲寺)
法興院跡(現 法雲寺)

火事は一度で終わりません。9月24日、今度は三条上皇の御所・枇杷殿から出火。三条上皇と中宮妍子(道長の次女)は、避難を余儀なくされました。三条上皇と中宮妍子は一時、高倉殿に避難した後、新造の三条院へ移られました。

これらの火事はいずれも夜に起こっており、放火と思われます。道長の世に反対する者がやったことだったのでしょうか。

「世の代にこうも不幸が重なるとは…」

三条上皇はつくづくお心を傷められます。当時、世の中に不幸が起こるのは帝王の徳が足りないためという考えがありました。そのため三条上皇はご自分を攻め、精神的にも追い詰められていきました。

次回「太政大臣となる」に続きます。

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解説:左大臣光永

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