藤原道長の生涯(十六) ふたたび一帝二后

こんにちは。左大臣光永です。

世の中にハゲを恐れる風潮が強いじゃないですか。ハゲはイヤだ。ハゲはカッコ悪いと。育毛剤とかのビジネスもそこから生まれてくるわけです。しかしハゲを恐れるなら、さっさと髪をおろして坊主にしてしまえばいいのです。髪なんて一本もなくても死にません。たかが髪ごときで、大げさすぎると思います。

本日は、藤原道長の生涯(十六)「ふたたび一帝二后」です。

ふたたび一帝ニ后

藤原道長は、まわりにとても気を遣う人でした。道長は本音を言うと、三条天皇の女御となった次女・妍子をさっさと立后させて、男子を産ませたいのです。しかし、三条天皇には妍子以前から娍子(せいし)という寵愛篤い女御がいます。

妍子と娍子(せいし)
妍子と娍子(せいし)

三条天皇は娍子(せいし)のことをこよなく愛し、娍子(せいし)との間に生まれた敦明(あつあきら)親王のこともとても大切にしていました。

道長としては娍子(せいし)を押しのけてまでわが娘妍子を立后させることは気が引けました。ワシはそこまで悪人ではないぞ、という気持ちだったでしょうか。

このへんも世間からの批判を恐れて…というより、もともとの道長の気質から来ているように思えます。

こうした、三条天皇と藤原道長の腹の探り合い、距離のはかりあいの結果、事は意外な形に落ち着きます。

長和元年(1012)2月14日、妍子が女御から中宮に昇格。二ヶ月遅れの4月27日、娍子(せいし)が皇后となりました。

妍子と娍子(せいし)
中宮妍子と皇后娍子(せいし)

中宮妍子と、皇后娍子(せいし)。

つまり一条天皇の時と同じ、「一帝ニ后」の状態が、またも作られたのです。

もちろん、道長は本音では娍子(せいし)を立后させたくありませんでした。わが娘妍子のみを天皇の后としたい。しかしそれでは三条天皇があまりに気の毒ということで、娍子(せいし)をも立后させたようです。

しかし大臣・公卿たちは道長が本音では娍子(せいし)を立后させたくないことを知っていました。それで、娍子(せいし)の立后式に参加した公卿は、ふだんから道長と対立していた実資をふくむ四人だけでした。

現京都御所 紫宸殿
現京都御所 紫宸殿

権力者道長をはばかって、万一目をつけられたら大変と、皆尻込みしたのです。同じ日に中宮妍子の内裏への初参内が行われました。大臣公卿のほとんどは、こちらに参加しました。

皇后娍子(せいし)の立后式と中宮妍子の初参内をわざわざ同じ日に行ったのは、道長の嫌がらせだったというのは、この日、儀式を取り仕切った藤原実資の弁です。つまり、道長陣営のほうが人望あるぞ!どうだ、かなわないだろうと、見せびらかす意図であったと。

これが事実なら道長は酷い極悪人といって差し支えないでしょう。しかし本当でしょうか?

道長は娍子(せいし)立后に際し、父が大臣でない娘が立后した先例が無いため、すでに故人である娍子(せいし)の父・藤原済時に大臣の位を贈ってまで娍子(せいし)の立后を実現させています。

そこまでして娍子(せいし)を立后させた道長が、わざわざ儀式をぶち壊すようなことをするでしょうか?単に吉日を選んだらたまたま同じ日に重なったというだけかもしれません。

とはいえ道長はこの日妍子側に参加した面々、しなかった面々を強い関心をもって事こまかに日記に記しています。こういうマメな人に睨まれたら後が大変です。大臣公卿たちも、とりあえず妍子側に顔出しとこう。娍子(せいし)側についたら後々面倒だ。そんな考えを抱いたことでしょう。

結局、道長が嫌がらせでやったかどうかは「わからない」です。

三条天皇との関係悪化

三条天皇の道長に対する不満は日に日に増していきました。

「道長は、朕に対して無礼だ。寝食もままならぬ」

これはおそらく道長が孫・敦成親王の擁立に向けて、いよいよ動き出したことを指すのでしょう。それで、三条天皇にはさっさとやめてもらいたいと、嫌がらせてをしていることが伺えます。

それで、三条天皇はもともとアンチ道長の立場であった藤原実資らをたより、何かとボヤくようになりました。

偵子内親王の誕生

長和2年(1013)7月6日、三条天皇と中宮妍子の間に子が生まれました。偵子(ていし)内親王です。

偵子内親王
偵子内親王

道長は生まれたのが女子だったことは、期待はずれだったものの、孫の誕生を心から喜びました。

御湯殿の儀、産養も盛大に執り行いました。道長が夜中にも偵子内親王を見るために訪ねてくるので、女房たちは落ち着いて寝ることもできないほどでした。

2ヶ月後、三条天皇は土御門邸に行幸し、はじめて姫宮(偵子内親王)と対面しました。そして池に船を浮かべ、管弦を奏し、盛大な宴が行われました。

土御門邸跡(現京都御苑 東北部)
土御門邸跡(現京都御苑 東北部)

眼病

長和3年(1014)から三条天皇の眼病はますます酷くなり、政務にさしさわるほどでした。

物の怪のような鳥が天皇の御首の上にいつも乗っていて、左右の翼で帝の御眼をおおいかくしており、羽をはばたかせると、少し見えるようになるのだと言われました。

眼病に悩む三条天皇に対して、道長は譲位をそれとなくすすめました。

またこの年、長和3年(1014)2月9日夜、内裏が火事で焼けました。そのことについて道長・道綱が「天皇の徳が至らないせいだ」という意味のことを言ったと、藤原実資は『小右記』に記します。

この間、道長の『御堂関白記』は記録を欠きます。だから道長が三条天皇に対してどういう思いを抱いていたか、わかりません。実資に言わせると、「道長は三条天皇に退位を迫り、いじめ抜いた」ということになっています。

もしその通り、道長が三条天皇をいじめたとすると、それ以前の穏やかで敵を作らない道長の性格とは明らかに食い違います。実資の目から見たフィルターがかかっているようにも思えます。

眼病悪化

年明けて長和4年(1015)三条天皇の眼病はいよいよ進みました。

4月12日夜、藤原隆家が参内すると、三条天皇がおっしゃいました。

「今日はだいぶ気分がよい。だが、目はなお不快である。そうじゃ、さっき左大臣が参内したぞ」

「左府さまが」

「朕の具合がよいのを見て、不満そうであった」

「まさか…そのようなことは…」

「いやいや、間違いはない」

そんなやり取りがあったということです。例によって実資はこの話を隆家から聞いて日記に書き、道長のことを「大不忠の人」と叩きまくっています。

隆家、大宰府赴任

長和4年(1015)4月21日、37歳の藤原隆家は大宰権帥として大宰府に赴任することになりました。出発に際し隆家は、中宮妍子のもとに参って女装束を賜り、ついで道長のもとに参って、上達部十数人とともに和歌を詠み、道長から馬や装束を与えられます。

ついで東宮敦成親王(後の後一条天皇)と皇太后彰子のもとに参り、彰子から扇を賜り、大宰府に赴任していきました。

若い頃、花山法皇射撃事件(996年 長徳の変)で兄弟そろって失脚し、兄伊周は大宰府へ、弟隆家は出雲に流されました。その時、兄伊周は23歳、弟隆家は18歳。それから18年を経て、37歳の隆家は亡き兄伊周ゆかりの大宰府に赴任していくのです。その赴任先でとんでもない事件が待ち構えていることは知らずに…

三条天皇と道長の関係

長和4年(1015)に入っても昨年焼けた内裏の修理は終わりませんでした。三条天皇は藤原道長の屋敷・枇杷殿(びわどの)を里内裏としておられましたが、

枇杷殿跡(現 京都御苑西部)
枇杷殿跡(現 京都御苑西部)

「早く内裏に戻りたい」

とおっしゃいました。

道長も、

「いつまでも帝を枇杷殿に留め置くのは恐れ多い」

と応えました(『小右記』)

三条天皇の眼病はますます進み、宮中の儀式もまともに執り行えなくなりました。そこで道長が、三条天皇にしきりに譲位を勧めたと、例によって藤原実資の『小右記』にあります。

「道長はけしからん!」と言わんばかりですが、道長も左大臣内覧という国政をとりしきる立場では、天皇がそのような状態では困ったでしよう。実際に、政務が立ち行かないのです。

三条天皇、新造内裏へ

長和4年(1015)9月20日、三条天皇は枇杷殿を出て新造内裏へ移りました。昨年火事で焼けてから、修理を進めていた新造内裏が、ようやく完成したのです。

しかし三条天皇の眼病はいよいよ辛く、近習の者に助けられながらの還御だったといいます。この頃三条天皇は譲位への決意をすっかり固めておられました。

道長・三条天皇 決裂?

『小右記』によると、

道長は前々から三条天皇に譲位を迫っており、その態度は酷いものだったと。また、道長は三条天皇の御子…敦明(あつあきら)親王・敦儀(あつのり)親王のことを「東宮の器ではない」と言ったと。

しかも「故一条天皇の三宮・敦良(あつなが)親王を東宮に立てればよい」と言ったと。

三条天皇はそれまで譲位への意思を固めていたが、道長のあまりの無礼に激怒し、譲位はやめると仰せになった。そして眼病が治るために伊勢神宮に七日間の祈祷を行うと仰せになったと。ここまでが『少右記』の記事です。

ようするに道長が自分の孫を東宮に立てる私利私欲から、三条天皇に譲位を迫った上、三条天皇の御子たちを「東宮の器でない」と侮辱した。それに対して天皇が激怒して譲位を取り下げたという話です。

真偽のほどは不明です。

『小右記』の作者・藤原実資は道長には強い反感をもっており、道長の評価を下げようとする意図が働いています。思い込みによる極端な記事も多いです。道長が三条天皇をいじめたという話が史実かどうかは、検討を要するところです。

次回「三条天皇の苦悩」に続きます。

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解説:左大臣光永