版籍奉還

こんにちは。左大臣光永です。

先日、下鴨神社で大炊殿(おおいどの)を見てきました。神さまに捧げる食事「神饌(しんせん)」を作っていた、厨房です。今も建物が残り、杵や大釜が展示され、五穀米とか、餅とか、干し魚の模型があります。神さまに神饌を捧げる習慣は、明治の終わり頃までにすたれてしまったそうですが、現在も祭りの時は神饌が捧げられ、建物は今も残っています。

つくづく思いました。歴史とは、自然に残っていくものではないと。「残すぞ」という強い意志がないと、歴史は残らない。むしろカンタンに失われ、風化していくものだと。考えさせられました。

本日は「版籍奉還」について語ります。明治時代のはじめ、全国の大名に「版=版図=土地」と、「籍=戸籍=人民」を、朝廷に返還させたことです。

発売【聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱】
http://sirdaizine.com/CD/His10-4.html

版籍奉還

明治新政府にとって、さしあたっての問題は、金がないことでした。

いつ果てるともしれない戊辰戦争は、明治新政府の懐をギュウギュウ締め付けていました。

そこで明治新政府は、薩摩・長州はじめ全国の大名に土地と人民を手放させようとします。いわば徳川慶喜がやった「大政奉還」の大名版をやろうとしたわけです。

ただし徳川慶喜の大政奉還のように前向きな理念のある政策ではありません。ようするに「金がないから、よこせ」というのが明治新政府の本音でした。

明治2年(1869)正月20日、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主の連盟で、「版籍奉還」の上表文を朝廷に奉りました。「版」は版図の版で土地のこと。「籍」は戸籍の籍で人民のことです。

「そもそも臣等居る所は天子の土、臣等牧する所は即ち天子の民なり、安んぞ私有すべけんや、今謹(つつしみ)て其(その)版籍を収めて之を上(たてまつ)る、願くは朝廷其の宜しきに処し、其の与うべきはこれを与え其の奪うべきはこれを奪い、凡そ列藩の封土更に宜しく詔命を下し、これを改て定むべし」

つまり、全国の大名の土地・人民をいったん朝廷にお返ししますので、それから再分配してくださいと。おそらく薩長土肥の代表者たちは、自分たちは明治新政府を作った功労者だから、とくべつに多く与えられるだろうと、期待してたんでしょう。

朝廷はこれを受けて、

「会議をつくし、公論を経てから、おって沙汰に及ぶであろう」

とお言葉を下しました。

さあ大変だ。

お上が藩の土地と人民を返せといってきた!

そこで多くの大名家は、自主的に版籍を奉還しました。そうしないと、「与うべきはこれを与え」に漏れてしまう恐れがあったためです。

しかし反発も多く出ました。

初代藩主以来の土地を、そんな急に返せといわれても、できるものではないと!そこで新政府は、明治2年6月、自主的に版籍を奉還しない藩には、「奉還せよ」と命令を下しました。

ただし自主返還・強制返還をとわず、以前の藩主を知事とすること。知事の身分は世襲とすることが通達されました。

「ばかな、それでは幕府時代と変わらんではないか」

長州藩木戸孝允は激しく反論しましたが、

「そうはいっても、藩主や藩の反発を抑えるには、これくらいせざるを得ない」

という大久保利通・岩倉具視らにおさえこまれ、知事の身分は世襲、ということになりました。

6月17日、全国の藩主の版籍奉還が実施されました。

西郷隆盛、野に下る

この間、戊辰戦争は続いていました。

明治2年(1869)5月1日、西郷隆盛は函館総攻撃に加わるべく、海路、鹿児島から東京へ向かいました。しかし軍務官副知事・大村益次郎の言うことには「すでに戦の決着はついている。いまさらやることはない」。

それでも西郷隆盛は出発しました。5月10日、東京を発ち、5月20日、函館に到着した時、すでに榎本武揚は降伏した後でした。西郷隆盛は面目を失い、むなしく鹿児島に引き返しました。

その後、西郷は、日当山(ひなたやま)温泉(鹿児島県霧島市)で犬四五匹、壮士三四人を連れて散歩する隠居暮らしに入りました。

「おいどんの役目は終わった」

という気持ちだったでしょうか。この時期、はやく政治の世界を離れて隠居したいといった詩をあらわしています。

華族・士族・卒族・平民

明治2年(1869)6月25日、明治新政府は全国の諸藩に対して、変革案を下しました。

知事は藩の収入の10分の1を禄高とすること。
大名・公卿の名称を廃して華族と称すること。
平侍以上の武士を士族と称すること。
それ以下の奉公人を卒族とすること。

などが決まります。

一般に明治維新というと「四民平等」の、公平な世の中になったとイメージされます。しかしそれは建前上のことです。実際には4つの身分がありました。

華族(旧大名・公卿)
士族(旧武士階級)
卒族(足軽などの旧武家奉公人)
平民

さらに。明治17年(1884)の華族令では、公爵・侯爵・子爵・男爵の五爵位制度が設けられました。

現在、日本国憲法第十四条に「すべて国民は法の下に平等であって」「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」とうたわれています。

しかしこれは建前上のことです。

実際には勲章を持っていれば車で人を轢き殺しても処罰されないといった具合で、身分制度は令和の今日も依然として存在し続けています。

裏切られた大名たち

多くの大名は版籍奉還といっても形式的なことで、すぐに朝廷から土地と人民が再分配されると期待していました。藩主が知事と名前がかわっただけで、以前の特権は変わらないだろうと期待していました。

その期待は裏切られます。

朝廷は全国の大名に土地と人民を吐き出されせると、そこで終わりでした。再分配はされませんでした。旧藩主は直接土地と人民を支配するのではなく、あくまでも朝廷から委任されて統治をまかされている、という形になり、禄高そのものも減りました。

「騙された…」

がっくりと肩を落としても、もうどうにもなりませんでした。明治新政府はいわばだまし討ちによって、旧幕府勢力の土地と人民を強奪したのでした。

官制大改革

版籍奉還につづき、明治2年(1869)7月、中央・地方の官制改革が行われます。

中央では古代日本の律令制のしくみに基づき組織づくりがなされます。一般政務を行う太政官(だじょうかん)の上に神事を司る神祇官(じんぎかん)が置かれます。すなわち祭政一致による古代日本のような国造りをやっていこうという、時代錯誤もはなはだしい話でした。

太政官(中央政治機関)には太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・参議を置き(まるで平安時代…『源氏物語』の世界ですね!)、これらが天皇を輔弼して国政に当たることになります。

行政各部門には、民部省・大蔵省・宮内省・刑部省・兵部省・外務省の六省、および大学校、弾正台、その他に分けました。

地方には藩知事・府知事・県知事を置きました。蝦夷地は明治2年(1869)6月15日、北海道と改称され、11か国に分けられ、開拓長官が置かれました。

徴兵制

これら官制改革と並行して、軍政改革がすすめられます。軍政改革のカギとなるのが、徴兵制をどうするか?という問題です。

木戸孝允らの意見では、全国の平民から徴兵し、天皇直属の軍隊(親兵)に取り立てようと。一方、大久保利通らの意見は、薩摩・長州・土佐・肥前の藩兵から徴兵しようというと。

つまる所、広く平民から徴兵するのか?江戸時代の武士階級をそのまま特権階級として用いるのか、という問題でした。結局は、平民からの徴兵という形になっていくわけですが、これによって特権を失った士族は不満をいだき、各地で反乱を起こすようになります。

次回「四民平等と地租改正」に続きます。

発売【聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱】
http://sirdaizine.com/CD/His10-4.html

「幕末の歴史はわかりにくい」

「複雑だ」

そう思ってませんか?

私は思ってます。

だって実際、幕末はわかりにくく、複雑ですから。

じゃあなぜ幕末はあんなにも複雑で、入り組んでいるのか?

どうやったらスッとわかりやすく、歴史の流れをつかめるのか?

↓↓

聴いて・わかる。日本の歴史~幕末の動乱
http://sirdaizine.com/CD/His10-4.html

本日も左大臣光永がお話しました。

解説:左大臣光永

Warning: include(../AdsecneUnder.inc) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/pupu.jp-sirdaizine/web/history/Meiji_hanseki.html on line 206

Warning: include(../AdsecneUnder.inc) [function.include]: failed to open stream: No such file or directory in /home/users/0/pupu.jp-sirdaizine/web/history/Meiji_hanseki.html on line 206

Warning: include() [function.include]: Failed opening '../AdsecneUnder.inc' for inclusion (include_path='.:/usr/local/php/5.3/lib/php') in /home/users/0/pupu.jp-sirdaizine/web/history/Meiji_hanseki.html on line 206