廃藩置県

こんにちは。左大臣光永です。

実家の熊本にいます。

先日は、細川家の菩提寺「妙解寺」の跡にある北岡自然公園に行ってきました。山の上に、3代細川忠利から12代斉護(なりもり)までの墓があります。3代細川忠利は宮本武蔵をむかえたことで、5代細川綱利は赤穂義士を預かったことで、8代細川重賢は傾きかけた藩の財政を建て直した「宝暦の改革」で有名です。子供のころから何度も行っている場所ですが、あらためて行ってみると、やはり、故郷に帰ってきたなあという気がします。

本日は明治4年(1871)7月におこなわれた「廃藩置県」について語ります。

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廃藩置県まで

版籍奉還(明治2年6月25日)により全国の大名に土地と人民を朝廷に返上させました。しかしその後も、旧藩主は知藩事(ちはんじ)と名を変えて、依然として特権階級であり続けていました。

藩という仕組みそのものは、版籍奉還の後もあり続けたわけです。そこで明治新政府の首脳部は考えました。

「今こそ、藩そのものをなくすべきです」
「そう。藩をなくしてこそ、真の御維新といえる」

明治4年(1871)7月はじめ、兵部少輔山県有朋の自宅で、長州藩の若手官僚がこのような議論をしました。山県有朋も、藩をなくすことに同意しました。

山県有朋はすぐさま、参議西郷隆盛と木戸孝允にこの案を伝えます。(西郷隆盛は一時、鹿児島で隠居していましたが、岩倉具視や大久保利通に説得されて、この頃、ふたたび中央政界に復帰していました)

木戸孝允は「それで行きましょう」

西郷隆盛は「それはよか」

それぞれ、同意しました。

7月9日、木戸孝允邸に西郷隆盛、井上聞多、山形有朋、大山巌、西郷従道らが集まり、密室会議で廃藩置県の骨子が決まります。

各代表の間には、廃藩置県後のあり方について、意見の相違がありましたが、とにかく、やると、決まりました。

今日のままにて瓦解せんよりは、むしろ大英断にで瓦解いたしたらんには如かず。よって大事の成るを目的として小事を問わず。

大久保日記 7月19日

すっかり話がまとまってから、岩倉具視に廃藩置県のことが伝えられます。

「なんと思い切ったことを…」

岩倉は驚きながらも同意しました。

廃藩置県の実施

明治4年(1871)7月14日、明治天皇は在京の知藩事らに、廃藩置県の勅命を下しました。この日、全国に261あった「藩」はすべてなくなり、天皇の直轄領となりました。

三府三百二県が置かれ、後に三府四十三県を経て、現在の一都一道二府四十三県につながっていきます。

三府三百二県それぞれに、知藩事の代わりに新政府から県令(後の知事)が派遣されます。

同日、土佐の板垣退助、肥前の大隈重信が参議に任命され、薩摩の西郷隆盛、長州の木戸孝允とならび、四人の参議がならび立つ形となりました。大久保利通は薩摩の力で政権を維持することを考えていましたが、木戸孝允はそうはさせじと、土佐・肥前をねじこんできたのです。

木戸孝允は薩長同盟で西郷と手を結んだとはいえ、維新後はふたたび西郷への敵意を燃やしていました。西郷が不平士族の旗印として祭り上げられつつあることに加え、元治元年(1864)7月19日の「禁門の変」で薩摩藩兵が長州藩兵を攻撃した、7年前のことを木戸孝允は根に持っていました。

だから木戸孝允は、西郷ら薩摩勢を牽制する、という意味で土佐の板垣退助、肥前の大隈重信を参議として加えることにしたのでした。

翌7月15日、宮中に集まった左大臣・右大臣・大納言以下の公卿たちが、話し合います。

「もし諸藩が反抗したらどうするか」
「そこです、恐ろしいのは」
「廃藩置県など、急ぎすぎたのではないか…」

公家たちはああだこうだ言いましたが、黙って聞いていた西郷隆盛が、そこで一喝します。

「各藩があれこれ言うなら、私が兵を率いてうち潰します」

西郷のこの言葉で、場は収まりました。

廃藩置県に際し、全国の旧藩主からも、旧藩士からも、とくに反発は起こりませんでした。しごく平和裏に、廃藩置県は実行されました。

なぜならば、旧藩主は華族という特権階級の称号を与えられ、政府から禄を支給されたこと、よって旧藩主の下につかえていた藩士たちも、べつだん収入が減るわけではなく、「前と変わらなかった」ためです。

さらに、新政府は藩の抱えていた負債を引き継ぎました(対外的な負債と、藩内だけで通用する「藩札」の両方を)。藩にとっては借金が帳消しになったわけで、万々歳でした。

つまり、廃藩置県によって全国の旧藩主も、藩士も、経済的にはなにも損がありませんでした。むしろ、トクしました。

とはいえ、歴史ある藩がなくなることに反発を抱く者もありました。

鹿児島にいた島津久光は、廃藩置県の事をきいて絶句しました。

「おのれ西郷、とんでもないことをしでかしおった!」

廃藩置県を企画立案したのは長州であり、西郷隆盛はそれに乗っただけなのですが…島津久光の目には西郷が独断でやらかしたことと映りました。島津久光はもともと西郷隆盛を嫌っていましたが、以後、ますます、西郷を嫌うようになります。

新たな官制改革

7月29日、新たな官制である「太政官三院制」が発表されました。太政官を正院・左院・右院の3つに分ける、というものです。

正院(しょういん)…最高意思決定機関。太政大臣・左大臣・右大臣・参議からなる。
左院(さいん)…立法府。
右院(ういん)…行政各庁の長官と次官からなる。法案の審議・行政の利害の審議を行う。

その後も明治政府の組織のしくみは微調整を加えつつ、こまごまと変化していきます。しかし煩雑になりすぎるので、詳しくは述べません。

警察の発足

明治4年(1871)10月、警察が発足します。それまで東京府の治安維持には諸藩から集められた藩兵が当たっていましたが、福沢諭吉の提案により3000人の邏卒(らそつ=ポリス)を組織し、以後、彼らが治安維持に当たります。その内二千人が元薩摩藩兵でした。

翌明治5年(1872)、西郷隆盛の推薦で川路利良が、初代大警司(後の警視総監)に就任します。

次回「殖産興業と文明開化」に続きます。

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「幕末の歴史はわかりにくい」

「複雑だ」

そう思ってませんか?

私は思ってます。

だって実際、幕末はわかりにくく、複雑ですから。

じゃあなぜ幕末はあんなにも複雑で、入り組んでいるのか?

どうやったらスッとわかりやすく、歴史の流れをつかめるのか?

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本日も左大臣光永がお話しました。

解説:左大臣光永