榎本艦隊、蝦夷地へ

こんにちは。左大臣光永です。

ひさしぶりに同志社大学の学食で食べてきました。圧倒されました。未来あふれる、優秀な学生さんが、そこに何百人も、いることに!照り輝くばかりのオーラで、お…おおと後ずさりするほどでした。私などナメクジのように溶けていく気がしました。肌のつややかさ。髪の毛のふさふさっぷりもすごいですね。

本日は「榎本艦隊、蝦夷地へ」です。

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榎本艦隊、江戸を脱出

慶応4年(1868)4月11日、江戸城は新政府に明け渡されました。明け渡し条件には「幕府海軍の武装解除」がありました。

「ばかな!こんな要求に、従えるものか!」

旧幕府海軍副総督・榎本武揚はこれを断固拒否。翌12日、旧幕府艦隊をすべて館山沖に移動させます。

「榎本さん、気持ちはわかるけど、こういうことやってもらっちゃ困るよ。新政府の手前、ちょっと考えくれなくちゃあ」

勝海舟の説得により、榎本武揚は軍艦八隻のうち四隻を新政府に引き渡すことにしました。そのうちわけは富士山(ふじやま)、朝陽(ちょうよう)、翔鶴(しょうかく)、観光(かんこう)。いずれも旧式の船でした。榎本艦隊に残った開陽(かいよう)、蟠竜(ばんりゅう)、回天(かいてん)、千代田形(ちよだがた)は、いずれも最新鋭の軍艦でした。

5月15日に彰義隊の上野戦争が終わります。5月24日、新政府は徳川家への処分を言い渡します。

「当主を徳川家達(いえさと)とし、駿河70万石に減封とする。江戸城は返還しない」

彰義隊を殲滅したタイミングだからこそ出せた、厳しい処分でした(徳川家のもとの石高は800万石)。

「70万石…!それでは徳川の臣は、露頭にまよう!」

8月19日夜、榎本武揚は艦隊を率いて品川沖から出港します。

榎本艦隊に加わったのは総勢2000名あまり。その中には若年寄永井尚志(なおむね)、陸軍奉行並松平太郎、伊庭八郎率いる遊撃隊、それにフランス軍事顧問団を脱したブリュネ、カズヌーヴもいました。

奥羽越列藩同盟と決裂

8月19日夜、榎本艦隊、品川沖出港。

8月22日、銚子沖で猛烈な台風にあったため、艦隊はバラバラになりつつも、8月24日から9月5日にかけて、仙台に到着しました。

9月3日、榎本武揚は奥羽越列藩同盟の軍議に参加。しきりに主戦論を唱えるも、すでに大方は降参しようということに意見が傾いていました。

9月4日米沢藩が、9月15日、仙台藩が降伏すると、福島藩・上山(かみのやま)藩・天童(てんどう)藩も次々と降伏。もはや奥羽越列藩連合はガタガタでした。

「話にならん!」

榎本武揚は奥羽越列藩同盟に見切りをつけ、10月12日、同志とともに船に乗り、仙台を出港。蝦夷地をめざします。大鳥圭介率いる伝習隊、土方歳三率いる新選組、人見勝太郎率いる遊撃隊、松平定敬、板倉勝静、小笠原長行(ながみち)らが同行しました。

徳川家家臣らのため、新天地・蝦夷地を開拓する。もし認められない場合は、一戦交えることも辞さない。それが榎本らの覚悟でした。

蝦夷地へ

10月20日、渡島(おしま)半島の鷲ノ木(わしのき。北海道茅部郡森町)に回天丸が、20日、開陽丸、鳳凰丸と大江丸が、23日、蟠龍丸、長鯨丸、神速丸が到着し、これで全艦隊がそろいました。蝦夷地はすでに雪に覆われていました。

榎本艦隊、蝦夷地に到着
榎本艦隊、蝦夷地に到着

榎本武揚は蝦夷地につくと、函館府への嘆願書を、人見勝太郎、本多幸七郎のニ名に託します。

「必ず届けてくれ」
「まかせてください」

新政府軍は函館に函館府を置き、清水谷公考(しみずだに きんなる)を函館府長に任じ、五稜郭に政庁を置いていました。

榎本の嘆願書には、こうありました。徳川の臣下を救うため、不毛の蝦夷地を開拓しようと思います。我ら北方の警護を固め、国恩に報ずるつもりです。ただし同意が得られぬ場合は、一戦交えるもやむなしと。

鷲ノ木~五稜郭まで
鷲ノ木~五稜郭まで

榎本は嘆願書を出す一方、戦になったときにも備えて全軍を二手に分けます。大鳥圭介率いる本隊は人見・本多の後を追って大沼から峠下を経て函館へ。土方歳三率いる支援隊は尾札部村(おさつべむら。北海道茅部郡)から川汲峠(かっくみとうげ。北海道函館市紅葉山町)を越えて、やはり函館へ差し向けます。

10月20日夜、函館府に榎本艦隊上陸の知らせが届きます。

「賊徒どもが蝦夷地に侵入してきた。見過ごすわけにはいかぬ」

函館府長・清水谷公考は榎本軍への迎撃体制を取ります。

五稜郭と函館を制圧

10月22日深夜、新政府軍は峠下(とうげした)村(北海道留萌市大字留萌村字峠下)に宿営中の人見勝太郎、本多幸七郎らを攻撃。

タタン、タン、タタン

「やはり戦になったか!」

銃声をききつけた大鳥圭介の部隊がすぐに駆けつけ、新政府軍を撃退しました。

戦がはじまってしまった以上、もう交渉の余地はない。

先制攻撃が一番である。

大鳥圭介はそう判断し、全軍を二手に分けて進撃。10月24日、七重(ななえ)村と大野(おおの)村で新政府軍を破りつつ、函館に迫ります。

一方、土方歳三率いる支援隊も川汲(かっくみ)で新政府軍を破り、湯川(ゆのかわ)まで抜け、函館に迫っていました。

「なに!負けた!?」

函館府長・清水谷公考はかなわじと見て、10月25日、外国船に乗って青森に撤退します。10月26日、五稜郭は戦わずして榎本軍の手に落ちました。

また、回天・蟠龍は鷲ノ木から海路、函館につき、函館港を制圧しました。榎本武揚自身も、五稜郭に入りました。

五稜郭

蝦夷地南部を制圧

松前城~江差まで
松前城~江差まで

榎本軍の次の目標は松前城でした。

慶応4年(1868)10月28日、土方歳三が7000の軍勢を率いて松前城(福山城)に向けて進撃。11月5日、松前城を攻撃。榎本艦隊も海上から砲撃を行い、6日未明、松前城を落としました。

逃げ出した松前藩兵は北方の江差(えさし、北海道檜山郡江差町)にこもって抵抗を続ける構えでした。そこで松前城にて土方歳三を総督とする討伐軍が組織され、江差に向かいます。

途中、大滝峠で松前藩兵と戦い、11月16日、江差に到着。すでに江差はもぬけの殻で、難なく手に入りました。こうして榎本軍は蝦夷地南部を手中におさめました。

榎本艦隊は陸戦部隊を援護すべく、海路、江差に向かいましたが、11月15日の夕方から海が荒れはじめ、開陽丸は暗礁に乗り上げて進めなくなり、乗組員はなんとか上陸したものの、開陽丸は10日後に沈没しました。

さらに神速丸も暗礁に乗り上げ、ふたたび浮上することはできなくなりました。榎本艦隊は貴重な軍艦を二隻、失ったのです。何たることだ…ボーゼンとする将兵たち。

「嗚呼惜哉、此ニ艦をして加えあらしめなば、海軍何ぞ敵するあらん、実に長嘆するのみ」(桑名藩士・新選組隊士 石井勇次の述懐)

また土方隊とは別に、松岡四郎次郎の部隊が、11月10日、中山峠を越え、江差より東20キロの館城(たてじょう)を攻めました。館城には藩主松前徳広(のりひろ)が立てこもっていました。松岡隊は激しい抵抗を受けるも、なんとか館城を奪取。11月19日、松前徳広一行は船で津軽に逃げ延びていきました。

ここに蝦夷地は、旧幕府軍の手中に入りました。12月15日、榎本軍は空砲を撃って、蝦夷地平定を祝いました。

次回「五稜郭」に続きます。

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「幕末の歴史はわかりにくい」

「複雑だ」

そう思ってませんか?

私は思ってます。

だって実際、幕末はわかりにくく、複雑ですから。

じゃあなぜ幕末はあんなにも複雑で、入り組んでいるのか?

どうやったらスッとわかりやすく、歴史の流れをつかめるのか?

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解説:左大臣光永