五稜郭 戊辰戦争の終結

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こんにちは。左大臣光永です。

2月1日に行う京都講演で、「紫式部」について話すので、資料の整理をしています。つくづく紫式部の文章は独特です。右にゆらゆら、左にゆらゆら、宇治川を漂う塵芥のごとく、どこにたどり着くのかわからない心細さがあります。若い頃は、ただ読みにくいだけの駄文としか思いませんでしたが、今読むと…やっぱり読みにくいです。「読む」ことは諦めて、「流れにまかせる」というか、紫式部のリズムにあわせてフーラフラ、ユーラユラするのがいいと思いました。

本日は「五稜郭 戊辰戦争の終結」です。

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土方歳三像(五稜郭タワー内)
土方歳三像(五稜郭タワー内)

榎本政権の人事

明治元年(1868)12月15日、五稜郭にて「榎本政権」の人事が発表されます。総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、陸軍奉行に大鳥圭介、陸軍奉行並に土方歳三、海軍奉行に荒井郁之助という面々でした。これは朝廷から許可が下りるまでの、暫定的な政治機関でした。旧幕臣を救済し、北海道を開拓、外国に対する北方の守りを固める。榎本の考えはそれだけであり、独立国家を築く野心などはありませんでした。

新政府にも平和的に北海道の開拓を認めてもらいたく嘆願書を提出しています。もちろん新政府は認めません。

宮古湾海戦 明治2年(1869)3月22日

「このような暴挙、認められるわけがない。榎本武揚を撃つ」

明治2年(1869)3月9日、新政府軍は軍艦八隻を品川から出港させ、18日頃までに宮古湾に集結させました。艦隊の中には、かつて旧幕府軍がアメリカに発注した、ストーンウォール号(甲鉄)もいました。

欧米列強は当初、局外中立を宣言し戊辰戦争のゆくえを見守っていましたが、やがて新政府支持に回りました。そのため旧幕府軍が発注した甲鉄も新政府軍に40万ドルで引き渡されていました。

甲鉄はアームストロング砲など九門の大砲と、ガトリング機関砲を備えた、強力な船でした。

榎本艦隊回天艦長・甲賀源吾(こうが げんご)が提案します。

「甲鉄を奪いましょう。沈んだ開陽の穴埋めになります」
「なに、できるのか?」

蟠龍、あらたに秋田藩から奪った高雄(第二回天)で甲鉄の両舷に接舷。兵士たちが斬り込み、甲鉄を制圧。その後、回天によって曳航するという作戦でした。

明治2年(1869)3月21日未明、海軍奉行・荒井郁之助(あらい いくのすけ)の指揮の下、蟠龍、回天、高雄(第二回天)の3隻が函館を出港します。

しかし22日夜、暴風雨が吹き荒れ、三隻は離散してしまい、3月25日未明、回天だけが宮古湾に到着。

「こうなったら回天一隻でやるしかない」

土方歳三がそう主張すると、荒井郁之助も同意しました。

回天はアメリカ国旗を掲げ、甲鉄に近づき、艦首を甲鉄の左舷に近づけると、旗を日章旗に架替え、

ドーーン、ドーーン

砲撃を開始。

同時に海軍士官大塚波次郎、野村理三郎らが先陣を切って、甲鉄の甲板に降り立ち、斬り込みをかけます。

「わっ、わあーっ!」

甲鉄では不意を付かれ、大砲を撃つことはできず、小銃・手槍・ガトリング砲で応戦します。ほかの七隻の新政府軍艦も、甲鉄に当たることを恐れて大砲は撃てず、小銃で応戦しました。

ドドドド、テケテケテケテ…

回天艦長甲賀源吾はマストに登り指揮を取っていましたが、流れ弾に当たって死亡。別の者が後が引き継ぎますが、多くの死傷者を出してしまいます。30分ほどの激戦の末、撤退するほかありませんでした。死者42名、負傷者17名と記録されています。

3月26日、回天は函館港に戻ります。幡龍も新政府軍艦隊の追撃を振り切って函館港入りました。しかし高雄(第二回天)は新政府軍の追撃から逃れきれず航行不能となります。乗組員は田野畑(たのはた)村羅賀(らが)港(岩手県下閉伊郡田野畑村)で上陸。艦長古川節蔵以下95名、南部藩野田代官所に出頭し、降伏・謝罪を申し入れました。

五稜郭落城

新政府軍、乙部~五稜郭
新政府軍、乙部~五稜郭

明治2年(1869)4月9日、新政府軍が江差(えさし)北方13キロの乙部(おとべ)に上陸。海岸伝いに江差めざして南下。

すぐに江差を取るとさらに函館に向けて進撃。その間、第二陣、第三陣が乙部に到着し戦力を増していきます。

大鳥圭介が指揮する榎本軍陸戦部隊。そこへ新政府軍の艦隊が、海上から砲撃し、打撃を与えます。17日、新政府軍は折戸浜(おりとはま)の合戦で榎本軍を破り、松前城を奪取。

榎本軍は知内(ちない)峠で敵を食い止めようとするも断念。木古内(きこない)まで撤退します。

新政府軍は勢いを増して襲いかかり4月20日未明、木古内を占拠。

4月29日、木古内東22キロの矢不来でも榎本軍を破り、函館に迫ります。

江差から有川に至る途中の二股峠では土方歳三らが善戦し、新政府軍を退けるも、矢不来の榎本軍が破られると、土方隊もやむをえず函館に引き揚げました。

勝利に勢いをえた新政府軍は海と陸から榎本郡を破りつつ、函館に迫りました。5月11日、新政府軍は海陸全兵力をあげて函館に総攻撃を開始します。

その前夜、五稜郭では榎本武揚、大鳥圭介、松平太郎、土方歳三ら幹部37名が軍議を開きました。その席で土方歳三が辞世を詠みました。

鉾とりて月見るごとにおもふ哉
あすはかばねの上に照かと

土方歳三像(五稜郭タワー内)
土方歳三像(五稜郭タワー内)

その後、一同は函館の妓楼・武蔵野で最期の盃を酌み交わし、別れました。

5月11日午前3時、新政府軍の総攻撃が始まりました。陸軍は三方から五稜郭に迫り、海軍は函館港(函館西側)と大森浜(函館東側)の両方から函館を挟撃しました。

函館
函館

新政府軍の勢いはすさまじく、昼頃には四稜郭(しりょうかく)を抜いて五稜郭まで迫りました。新政府軍海軍は、榎本軍の蟠龍丸の砲撃により新政府軍の朝日丸が沈められるという局面もありましたが、逆に新政府軍艦隊が榎本軍蟠龍丸を砲撃して沈めました。

一方、新政府軍陸軍奇襲部隊は箱館山裏手から上陸し、箱館山を占拠。函館市街地を一気に制圧し、一本木関門まで押し寄せます。

函館 八幡坂
函館 八幡坂

榎本軍の拠点は五稜郭と函館の弁天台場でしたが、新政府軍奇襲部隊により、両者が完全に分断されてしまいました。

「弁天台場は捨て置けぬ!」と、土方歳三は馬にまたがり、彰義隊・額兵隊・見国隊・杜陵隊・伝習士官隊あわせて500余人を率いて、五稜郭を出て、弁天台場の救援に向かいます。

「俺は函館へ行く。おそらく二度と五稜郭には戻るまい。世に生き飽きた奴だけはついてこい」

司馬遼太郎氏の小説『燃えよ剣』では、そんなカッコいいセリフを言っています。

一本木関門に至った時、敵が背後にまわったとの声で全軍が浮足立ちます。何をしているか。進めッ。土方は全軍を鼓舞しますが、ターーーン。飛んできた銃弾に腹部を射抜かれ、どざーーっと落馬し、絶命しました。享年35。

「ああっ、土方さんがやられた!」
「もうダメだ!」

常に前線に立って榎本軍を指揮してきた土方歳三の最期は、兵士たちに動揺を与えます。彼らは撤退して、千代ヶ岳台場まで退きました。

弁天台場は孤立しました。翌5月12日、13日と戦うも、食糧も水も尽き、馬の死肉や草、貝を食べるというありさまでした。

5月13日、新政府軍総督府参謀・黒田清隆の命を受けた池田次郎兵衛が函館の野戦病院におもむき、入院中の遊撃隊隊長・諏訪常吉に降伏勧告をしました。しかし諏訪は動けないので、病院長の高松凌雲が、かわりに五稜郭におもむき、榎本武揚に事の次第を伝えます。

「降伏はできぬ。できぬが…」

榎本はオランダ留学で持ち帰った『万国海律全書』が戦火に焼かれるのは忍びないと、黒田清隆に贈りました。黒田清隆はその御礼に、酒五樽を贈りました。

黒田清隆は榎本のその心意気を気に入ります。それで後日、榎本が捕らえられた時に助命嘆願をすることになります。

翌14日、15日にも五稜郭への降伏勧告が行われます。すでに降伏した弁天台場の者が五稜郭におもむき、榎本武揚の説得に当たりました。

「そうか。すでに弁天台場は落ちたか…」

兵士たちの間に動揺が走っていました。16日には千代ケ岳台場も新政府軍の手に落ち、主将中村三郎父子も自刃しました。

「多くの将兵を無為に死なせてしまった…」

死ぬしかない。榎本武揚はそう思って刀を手に取りましたが、そこで、大鳥圭介が言いました。

「死ぬならいつでもできる。ここは一番、降伏としゃれこもうじゃないですか」

この言葉で、降伏が決まったといいます。

5月18日朝、総裁榎本武揚・副総裁松平太郎・海軍奉行荒井郁之助・陸軍奉行大鳥圭介の四人は亀田の新政府軍の本陣に趣き、降伏の申し出をします。この日、五稜郭は開城し、一年半にわたった戊辰戦争は終わりました。

次回「版籍奉還」に続きます。

解説:左大臣光永

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