神風連の乱(二)宇気比、敗れたり

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こんにちは。左大臣光永です。現在、実家の熊本に滞在してます。今日は、菊池で温泉に入ってきました。ぽかぽかして体の芯から温まりました。受付に猫がいて、アーンと口を開けてしなだれついてきたのが、可愛かったです。

前回から神風連(しんぷうれん・じんぷうれん)の乱について語っています。

神風連(しんぷうれん・じんぷうれん)の乱は明治9年(1876)10月24日に熊本で起こった反乱事件です。

明治政府の西欧化政策に反発した太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)以下、約170名の敬神党が、熊本鎮台司令官種田政明(たねだ まさあき)宅・熊本県令安岡良亮(やすおか りょうすけ)宅、および熊本鎮台を襲撃しました。

彼ら敬神党のことを周囲は「神風連」と呼んだので、この事件を「神風連の乱」とよびます。

「神風連の乱(一)宇気比の戦い」はこちらです。

歩兵第十三連隊長宅 襲撃

明治9年(1876)10月24日夜、首領太田黒伴雄以下の敬神党の面々、約170人は、7手にわかれ、それぞれの襲撃先に向かいました。

中垣景澄(なかがき かげずみ)率いる7名は歩兵第十三連隊長・与倉知実(よくら ともざね)中佐宅を襲撃しました。

与倉連隊長は馬丁の着る半被を着て表門から逃げ出しました。「何者だ」と問われて、「馬丁です」と答えて逃げようとする。それを追いかけて後ろからずばりと切りつけましたが、与倉連隊長はなんとか逃げ延びました。しかし奥の間に立てかけてあった連隊旗はぶんどられてしまいました。

安岡県令宅 襲撃

村上新九郎六等警部は、身内の神風連関係者の密告によって神風連の決起を知りました。

「大変だ!」

ただちに村上新九郎六等警部は城下町の中央・山崎町にある安岡県令宅に飛びます。そこで安岡県令を中心に、敵の襲撃をいかに防ぐか?話し合っているところへ、吉村義節以下の五人が襲撃してきました。

「国賊失せろ」

ずばっ、ずぶ、ぐひぃぃ

灯火を吹き消され、闇となります。県令安岡良亮は闇の中、花瓶をふりまわして戦いましたが、薄手を数箇所負い、裏の畑に逃げました。3日後、鎮台病院で息絶えました。傷から発した破傷風によるものと言われています。

安岡良亮の墓(熊本市西区春日 花岡山)
安岡良亮の墓(熊本市西区春日 花岡山)

屋敷にいた小関敬直(こせき たかなお?)参事は重傷を負って倒れていましたが、一党が去った跡、火が迫ってきたので這いずって庭に逃れ、竹林に隠れました。

村上新九郎六等警部も傷を負い、自宅にかえった後、息絶えました。

神風連側にも死者が出ました。愛敬元吉(あいけい もとよし)は安岡邸で受けた傷からの出血により亡くなりました。17歳でした。

砲兵営襲撃

太田黒伴雄率いる本隊70余人は、熊本城のふもとの桜馬場の砲兵営を襲撃しました。現在、この場所は「桜の馬場 城彩苑」といってショッピング・お食事などの総合施設になっています。

桜の馬場 城彩苑(砲兵営跡)
桜の馬場 城彩苑(砲兵営跡)

彼らは鬨の声を上げて二棟の大兵営に斬り込みました。不意をつかれた守備兵はあそこ、ここに討ち取られます。

斉藤求三郎は槍の名人。この年56歳ですが、当たるにまかせて突き立て、大立ち回りを演じました。

紅蓮の炎を上げて燃え上がる砲兵営。深夜ですが、昼間のようにあかあかとしていました。神風連の人々は皆返り血をあび、すさまじい姿でした。

砲兵営は完全に神風連に制圧されました。そこへ、安岡邸襲撃に向かっていた吉村義節の一隊も合流します。

「どうだったか」
「乱闘になって安岡はどうなったかわからぬ」
「そりゃ残念だ」そう言って、皆は残念がりました。

太田黒伴雄、歩兵中佐大島邦秀を倒す

この時、歩兵中佐大島邦秀(おおしま くにひで)が熊本鎮台を目指して馬をとばし、南橋の上にあらわれます。

南橋(現 行幸橋)
南橋(現 行幸橋)

神風連の古田十郎、青木暦太(あおき れきた)、松田栄蔵らが、「それきた」と取り囲むも、大島邦秀は名うての剣客。容易には打ち取れない。

ところへ太田黒伴雄が「斬れ斬れ」と叫び、飛ぶ鳥のようにつっこんできて、胸板にずぶりと突き立てる。そこへ体勢を立て直した古田、青木、松田の三名が大島を斬り倒しました。

歩兵営襲撃

参謀長富永守国(とみなが もりくに)を中心とした第三隊・70名は、二の丸の歩兵営を襲撃しました。ここには歩兵第十三連隊・一千九百名あまりがいました。現在の熊本城二の丸広場内です。

熊本城 二の丸広場
熊本城 二の丸広場

歩兵第十三連隊の碑(熊本城 二の丸広場内)
歩兵第十三連隊の碑(熊本城 二の丸広場内)

神風連の沼沢春彦(ぬまさわ はるひこ)が柵をよじのぼり、「一番乗り」と一声、敷地内に飛び込み、歩哨の一人を斬殺。

我も我もとよじのぼっては飛び込む。やがて内側から門を開くと、大挙して敷地内に押し入り、兵舎のあちこちに焼き玉を投げ入る。たちまち火が燃え上がります。

驚いて逃げ出してきた鎮台兵を、待ち構えていた神風連がいちいちに斬り殺しました。

鎮台側は上を下への大騒ぎとなります。なにしろ敵の正体もわからない。その恐怖は大変なものでした。

この時の鎮台兵の生き残りが後年語った話によると、

「自分は西南の役にも参加したが、敵は薩摩兵とわかっていたので、長期の籠城も怖くもなんともなかった。しかし明治九年の神風連の時は恐ろしかった。なにしろ敵が何者かわからないのだ。出ていけば殺される。それで便所にこもっていようと便所に走ったら、すでに先客でいっぱいだった」と。

しかし鎮台側もいつまでも負けていませんでした。弾薬庫の扉を開いて弾薬を取り出し、一斉射撃に移ったのです。神風連は壁や木、石垣などを盾として身を護る他ありませんでした。

この時、砲兵営の戦いを終えた太田黒伴雄・加屋霽堅の本隊が加勢に駆けつけました。しかし、鎮台側の銃撃の餌食となるばかりでした。

神風連は次々と撃ち殺されていきます。長老の斉藤求三郎は得意の槍をふるって奮戦。兵舎の近くまで迫るも、鎮台兵の撃つ弾にあたって戦死。

副将加屋霽堅も戦死。「あっ、加屋先生が」と駆け寄せた今村健次郎も戦死しました。その他の神風連も次々と鎮台側の銃撃の前に崩れ去っていきます。

神風連 加屋霽堅 斉藤求三郎等戦死之跡(熊本城 二の丸広場内)
神風連 加屋霽堅 斉藤求三郎等戦死之跡(熊本城 二の丸広場内)

太田黒伴雄の最期

ついに太田黒伴雄も胸に銃弾を受けてしまいます。

よろよろと倒れようとしたのを傍らにいた吉岡軍四郎が抱きとめ、太田黒伴雄を背負って、法華坂を下り、坂のたもとの民家にかつぎこみます。

法華坂
法華坂

民家で横たわりながらも太田黒伴雄は、駆けつけた者たちに次々と指示を出します。

野口満雄(のぐち みつお)が「先生、電信局はどうしましょう」きくと「早くやつけろ」言われて野口はすぐに飛び出していきました。

しかし、太田黒伴雄の命はここまででした。太田黒は義弟・大野昇雄(おおの ひでお)に介錯を頼みます。そして言いました。

「今、私はどちらの方角を向いているか」
「西を向いておいでです」

「聖上(天皇)が東にましますのに臣下たる私がどうして背を向けて死ぬことができよう。ああ私は生きて宸襟(天皇のお心)を安んじ奉ることができなかった。せめて死して神となり、夷賊(外国人)を打払って御皇恩(天皇がくださったご恩)に報いたい」

大野昇雄・吉岡軍四郎が涙を流してたずねます。

「同志はいかがいたしまするか」

「城を枕に皆死ぬがよい。ああわが宇気比は敗れた。わが志はついに成就せぬ」

その他、二三の指示を出してから、

「とく、わが首うて」

「ごめん!」

ざしゅっ。

首を差し出し、大野昇雄に介錯されて果てました。享年43。

太田黒伴雄終焉之地(熊本城 法華坂下)
太田黒伴雄終焉之地(熊本城 法華坂下)

藤崎宮引き上げ

太田黒伴雄・加屋霽堅が死んだ後。富永守邦(とみなが もりくに)、阿部景器(あべ かげき)ら参謀は、同志を引き連れて藤崎宮に撤退しました。

再度、城に斬り入るか?

萩・秋月に出て再起をはかるか?

意見は割れましたが、結局、島原に渡って、萩・秋月の同志とともに再起をはかろうということにまとまりました。

熊本城の西・高橋に行けば加々見六千石の領主・三淵永次郎の家がある。そこから舟を出してもらって島原に渡ろうということになりました。

高橋稲荷(震災の傷跡生々しい2017年正月)
高橋稲荷(震災の傷跡生々しい2017年正月)

しかし高橋についてみると干潮で船が出せない。それで今度は金峰山に登って善後策を話し合うことにしました。

金峰山の軍議

山にのぼったのは46人。百姓に担がせた朝食で腹を満たし、五升の酒を回し飲みしました。朝の金峰山からは熊本の町が一望できました。昨夜の騒ぎが嘘のように静まり返り、白川が輝いて見えました。

「さあこれからどうする。再挙か。切腹か」

そこで石原運四郎が祝詞を上げ、弓矢八幡に伺いを立てると、「斬入」との答えでした。

しかし20歳以下の年若い同志は殺すにはしのびないということで、山をおろすことにしました。

「そんな!」
「一緒に死なせてください!」

若者たちは口々に嫌がりましたが、鶴田伍一郎がひっぱって山を下り、それぞれの家に帰しました。

残った同志は再度城に斬り入ろうと城下町近くまで下ります。しかし警戒厳重でそのスキはありませんでした。

ならばと今度は金峰山西の山路を下り、近江津に出て島原に渡ろうとしました。しかし、これもダメでした。政府の命令で船止がされており、漁船一艘さえも調達できませんでした。

こうなっては集団行動は不利である。おのおの分かれて、長州萩や筑前秋月にたどりつき、同地の戦に参加して死のうということになりました。

少年たちの最期

鶴田伍一郎に連れられて金峰山を下った少年たちは、それぞれの家に戻りました。

太田三郎彦は家に戻って一晩寝た後、朝になって姉に決意を告げ、二人の友人を呼んでわが遺志をついでくれと頼むと、自分の部屋にこもりました。

しばらくして「叔父さん少しご加勢を」と声がするので開けてみると、刀を喉に突き立てていました。少し押してやると息絶えました。17歳でした。

辞世です。

不知火の つくしにつくす 真心は 唯天地の 神ぞ知るらむ

島田嘉太郎が家に帰ると、家人は僧侶に変装させて県外に逃がそうとしましたが、嘉太郎は聞き入れず、刀を喉に突き立てて死にました。18歳でした。

辞世です。

玉くしげ 二人のおやを 残しおきて さき立つ身とも なりにけるかな

猿渡唯夫は最年少の16歳でした。生きて何の面目あって地下の同志にまみえようと、自刃しました。その出陣の際の歌、

土を割きて戎夷に売る
一朝王室危うし
丹心報国の志
天地神明知る

「土を割きて戎夷に売る」…水も、穀物も海外に売り飛ばされつつある今日の日本のありさまを見て、彼らはどう思うでしょうか。

石原運四郎・阿部景器の自刃と阿部以幾子の殉死

参謀の石原運四郎は28日の未明に自宅にもどりました。なんとかして再度旗揚げし熊本城に斬り入ろうと考えていました。

しかし捜索の手は厳しく、毎日やってきます。熊本城に斬り入ることはできそうにありませんでした。ならばと島原に渡ろうとしますが、そちらも船止がされていて、どうにもなりませんでした。

石原は妻安子に三才になる我が子の後を頼むと、阿部景器の家に行きました。はんぶんは死ぬため。半分は再起を期待をして。

しかし、石原の妻安子から、またも捜索隊が来たことをいってきます。ここに至り、石原・阿部はもはやどうにもならぬと覚悟しました。

二人は皇大神宮の掛け軸の前で再拝・黙祷すると、阿部の妻以幾子が三組の土器をとって二人にすすめます。

そこで石原・阿部は最期の盃を酌み交わし、それぞれ懐を開き、腹かっきりました。以幾子も「お供いたします」とみずから懐刀で喉を突きました。享年は石原35。阿部37。以幾子26。

以幾子の辞世。

待てしはし われもやまとの 女郎花
などなき国の 粟をはむべき

参考文献
『神風連実記』荒木精之
『神風連小史』一般財団法人 神風連資料館
『神風連とその時代』渡辺 京二 新書y
『熊本県の歴史散歩』山川出版社
『熊本駅周辺 うんちく歴史巡り』末吉駿一 株式会社マインド

告知

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京都で声を出して読む 小倉百人一首
2/24(日)開催
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66番前大僧正行尊~

解説:左大臣光永

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