神風連の乱(一)宇気比の戦い

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こんにちは。左大臣光永です。現在、実家の熊本に滞在してます。先日は、桜山神社に行ってきました。桜山神社は明治9年の「神風連の乱」で敗れた人々の御霊をまつる神社です。熊本大学に近い熊本市中央区黒髪にあります。

桜山神社(熊本市中央区黒髪)
桜山神社(熊本市中央区黒髪)

境内のネコがじゃれついてきて、とてもかわいかったです。

神風連(しんぷうれん・じんぷうれん)の乱は明治9年(1876)10月24日に熊本で起こった反乱事件です。

明治政府の西欧化政策に反発した太田黒伴雄(おおたぐろ ともお)以下、約170名の敬神党が、熊本鎮台司令官種田政明(たねだ まさあき)宅・熊本県令安岡良亮(やすおか りょうすけ)宅、および熊本鎮台を襲撃しました。

彼ら敬神党のことを周囲は「神風連」と呼んだので、この事件を「神風連の乱」とよびます。

反乱は一晩で鎮圧され、首謀者太田黒伴雄は自刃。リーダーを失った神風連の多くも自刃しました。

三日後の10月27日に福岡で起こった秋月の乱、山口で起こった萩の乱、そして翌明治10年の西南の役につながっていく、不平士族の反乱として一括りにされることが多い事件です。

しかし神風連の乱は秋月の乱、萩の乱、西南の役とは決定的に違うところがあります。それは宗教の色がきわめて濃いことです。単に「不平士族の反乱」では片付けられない事情が、そこにはあります。

神風連の乱について、二日間にわたって語ります。

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林桜園

幕末の肥後に、林桜園(はやし おうえん)という国学者がいました。鷹のような目をした大男で、眼光するどく下唇が垂れて顎を覆っていましたが、知らないことは無いというほどの博学でした。

林桜園の碑(熊本市中央区千葉城町 千葉城公園内)
林桜園の碑(熊本市中央区千葉城町 千葉城公園内)

藩校の時習館に学ぶも役人になるための形式的な学問に幻滅。退学後、国学者長瀬真幸(ながせ まさき)の門を叩き、国学・神学を学びました。

その傍ら、ドン底の貧乏生活の中にも読書を続け、私塾を開いて国学や漢学を教え、藤崎八旛宮、山崎天満宮に熱心に参拝しました。

敬神…神を敬うこと。

それが林桜園の第一としたことでした。「神事は本也、人事は末也」と言っています。また「宇気比(うけひ)」という一種の占いによって神に意見をうかがうことを門人たちに教えました。

敬神党

この林桜園に深く心酔し教えを受けていたのが肥後敬神党の人々です。大野鉄兵衛(太田黒伴雄)や加屋霽堅(かや はるかた)、槍の名人・斉藤求三郎らがいました。

彼ら敬神党はとても行儀のいい人達でした。後に熊本県立熊本中学校長の初代校長となった野田寛(のだ ひろし)によると、

彼らは服装もきちんとして言葉遣いも丁寧だった。自分の家の近くに田代儀太郎という敬神党がいたが、年下のこちらに対して恐縮するほど丁寧であったと。

田代家は高い石段の上にあったので、階段の下からこちらが挨拶すると、わざわざ階段の下まで降りてきて改めて挨拶をするので、かえって気の毒になって違う道を通るようになったと語っています。

太田黒伴雄

太田黒伴雄は、敬神党の中でも、林桜園にもっとも心酔した、林桜園の一番弟子でした。

太田黒伴雄。飯尾家の次男として生まれるも、父が幼少時に亡くなったことで家は困窮しました。12歳の時大野氏の養子となり、大野鉄兵衛と名乗ります。

はじめ朱子学、ついで陽明学を学び、知行合一の考えと誠実な人柄を育てていきました。幕末の江戸で、ついで九州で尊王攘夷派の志士と交わります。剣豪河上彦斎、池田屋事件で討たれた宮部鼎蔵とも交わりました。

大野鉄兵衛は肥後の国学者林桜園に学び、もっとも忠実な後継者となりました。

しかし天下の大業をなすために養い親とその家に迷惑はかけられない。そこで、義理の弟である大野宗三郎に家督を譲り、大野家を離れました。30歳の時でした。

その後はひたすら神に仕え、祈りをささげ、弟子の教育につとめました。「神事は本なり、人事は末也」という林桜園の言葉を、実行したのです。7日、10日の断食を行い、50日、100日の間火のものを断つという熱心ぶりでした。

その熱心さを見てつくづく感じ入ったのが、新開大神宮という神社の宮司をつとめる、太田黒伊勢守でした。

伊勢守は林桜園に頼みます。どうか彼を私の養子にくださいと。林桜園は伊勢守の願いを入れ、養子縁組を取り持ちます。こうして大野鉄兵衛は太田黒家の跡取りとなり、名もあらためて太田黒伴雄となりました。そして養父・伊勢守にかわって、熱心に神に仕え、神社のしごとをやっていました。

新開大神宮(熊本市南区内田町)
新開大神宮(熊本市南区内田町)

新開大神宮
新開大神宮 太田黒伴雄の碑

明治の西洋化政策

明治になって世の中は大きく変わりました。教育も制度も服装も、西洋風に変えられていきます。

柔道も剣道も、野蛮だということで退けられてしまいました。熊本では明治3年に藩校の時習館が潰され、

時習館跡(熊本市中央区二の丸 二の丸広場)
時習館跡(熊本市中央区二の丸 二の丸広場内)

かわって熊本西洋学校ができました。西洋人を招いてキリスト教に基づく西洋教育をはじめました。

ジェーンズ邸(2016年の熊本地震で倒壊)
ジェーンズ邸(2016年の熊本地震で倒壊)

旧士族は、日に日に怒りをつのらせていました。

この頃はなんでも西洋、西洋だ。

すべて西洋が正しく、日本が間違ってるのか?

ふざけるな!

大和魂はどこへ行った?

武士の誇りはどこへ行った?

このままでは日本人が日本人で無くなってしまうぞ!と。

神職として採用

明治6年(1873)、熊本県令として安岡良亮(りょうすけ)が赴任してきました。安岡良亮は肥後敬神党の人々が政府に対して反抗的なのに困ってしまいました。

「どうしたものか」
「彼らは神を敬い、国の行く末を憂う者たちです。いっそ神職として採用してはどうでしょう」
「おお、それはいい」

明治7年の夏、敬神党を神職として採用するための試験を行います。すると皆が皆、答案用紙に同じことを書きました。

「人心反正し皇道興隆すれば、元寇の時のごとく神風が吹きおこり、敵を掃譲すること疑いなし」

「これではまるで神風連だ」

と言った試験官の言葉から、以後、敬神党は「神風連」と言われるようになりました。「連」は一味とか、集団といった意味です。

しかし彼らは赴任先の神社で熱心に神職としての努めを行い、神を敬ったので、生き神様として地元の人々から慕われました。

宇気比に問う

政府は相変わらずの軟弱外交でした。明治8年(1875年)5月、ロシアとの間に千島樺太交換条約を結びます。その実体は、日本の領土をロシアに切り渡すことに他なりませんでした。政府は大国ロシアの圧力の前に、屈したのです。

敬神党の人々はつくづく怒り、残念がります。そこで太田黒伴雄が神職を務める新開皇大神宮にて、3つの案を立て、宇気比によって神の意思を問いました。

一つ、政府に建白して今の政治を改めさせる
一つ、刺客となって佞臣を倒す
一つ、義兵をあげて世の流れを変える

神の答えは、いずれも「否」でした。敬神党の人々やむなく、その場で3つの誓いを立てました。

一つ、神を敬い国を護り尊皇攘夷の大義をつらぬく
一つ、断髪、廃刀のごとき醜態はたとえ政府の命令であっても従わない
一つ、同士の結束を固くする

廃刀令

明治9年(1876)3月。廃刀令が出ました。ついで断髪令が出ました。町には刀をささず、坊主頭にした者があふれました。

情けない。西洋に屈するとはこういうことか。
日本人の誇りはどこへ行ったのだ!

敬神党の人々はリーダー格の太田黒伴雄につめより、訴えました。

「これ以上のガマンはできません!」
「死なせてください!」

そこで太田黒伴雄は、新開皇大神宮に同志を集め、義兵を挙げるべき否か。再度「宇気比」を行いました。すると、「よし」と答えが出ました。

「神のお許しがあった。今こそ、兵を挙げる時だ!」

決起

明治9年(1876)10月24日夜、熊本鎮台に近い藤崎宮裏手の同志愛敬正元(あいけい まさもと)の家に、同志170人あまりが集まります。若きは15、6歳。老いたるは5,60代の者もいました。

護国神社(熊本市中央区宮内)
護国神社(熊本市中央区宮内)

護国神社 神風連挙兵本陣跡
護国神社 神風連挙兵本陣跡

「諸君、神意にのっとり、奮戦努力しよう」

彼らは刀と槍を帯びていました。はじめ近代火器を使おうという意見もありましたが、「神意による決起に西洋火器は不要」ということで、刀と槍を帯びての決起となったのでした。

熊本鎮台司令官宅 襲撃

高津運記(たかつ うんき)率いる五名は、熊本鎮台司令官種田政明(たねだ まさあき)宅に乱入しました。種田は東京柳橋から連れてきた愛妾・小勝を抱いて寝ていました。ところへ

「国賊起きよ」

ハッ!

と目覚めた種田が枕元の一尺七寸の刀を手に戦いますが、切り倒され、桜井直成によって首斬られます。

「きゃあああああ!!」

愛妾小勝は悲鳴をあげ、誰彼となくすがるので、襲撃者たちは、

「ええい穢らわしい」

と一喝しました。あとで逃げ延びた小勝が、親元に電報を打ちました。

「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」

この文言は仮名読新聞にのり評判になりました。その後、小勝は日奈久温泉に行って傷の手当てをしました。

熊本鎮台参謀長・高島茂徳(たかしま しげのり)中佐の屋敷は、石原運四郎率いる四名が襲撃しました。

「国賊出てこい!」

どかどかどかどか…

高島茂徳は不意の襲撃に驚き、庭に飛び出しました。すると神風連は「そら来た」と追いかける。泉水に落ちたところを、水野貞雄が首を挙げました。

「国賊、討ち取ったり」

残る三人もワーッと鬨の声を上げました。

神風連の乱(二)宇気比、敗れたり」に続きます。

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解説:左大臣光永

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