日露戦争(最終回)ポーツマス条約

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こんにちは。左大臣光永です。

私は、飲食店で働いている人を見ると、尊敬を通り越して畏怖の念がわきます。

たとえば駅前の富士そばで働いているパートのおばちゃんを見ると、

「あなたは神か!」と、言いたくなります。

飲食業というのは、研ぎ澄まされた知能と、機敏に動く肉体、そして強靭な精神がないと、つとまらないと思います。

私も学生時代、ファーストフードや喫茶店で何度かバイトしましたが、オーダーは間違うし金の計算があわないし、店に破壊と混乱をもたらしただけでした。今思っても申し訳なくて目がしぱしぱします。

「日露戦争」について連続して語っています。

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前回は、日本海海戦について語りました。前代未聞の敵前回頭「東郷ターン」により、連合艦隊はバルチック艦隊との並航戦に持ち込み、大勝利をおさめました。

本日は第8回(最終回)「ポーツマス条約」です。

樺太出兵

1905年(明治38)5月31日、小村寿太郎外相は駐米公使高平小五郎(たかひらこごろう)を動かし、ルーズヴェルト大統領に講和仲介の依頼をします。

ルーズヴェルトは戦争の初期から、ハーバードの学友・金子堅太郎に講和交渉の件を頼まれていたこともあり、講和に向けて迅速に動き始めます。

6月6日、ニコライ2世は御前会議を開きます。

ロシアにはまだまだ兵力も軍備もあるが、これ以上戦争を続けるとウラジヴォストークやアムール河口、カムチャツカも日本軍によって攻撃されるかもしれない。

また国内で労働者のストライキが多発しており、情勢が不安定である。だから講和に応じるべきということで話がまとまりました。

6月7日、ニコライ二世よりアメリカの駐ロシア公使マイヤーに、アメリカ大統領の申し入れを受け入れる旨が伝えられました。

6月9日、ルーズヴェルトは正式に、日露両国に講和交渉を行う旨、伝えました。同日、ロシアはルーズヴェルトの申し出を受け入れました。

日本側も勝利したとはいえ、ほんとうにギリギリの勝利でした。日本国内には予備兵力がまったく残っていませんでした。弾丸や物資も、底をついていました。講和を急ぐ必要がありました。

しかし、このまま講和に応じてしまうのも不利と首脳部は判断しました。なにしろ今回の戦場は韓国と満州。ロシア本土にひとつも傷をつけていません。講和交渉を有利にすすめるためには、それではまずい。そこで企画されたのが樺太出兵です。

6月17日 樺太出兵を決定し、

7月4日、樺太南部上陸部隊を青森から出帆させます。

7月9日、最初の上陸部隊が南樺太コルサルフを占領。

7月24日、樺太北部上陸部隊が上陸。27日までにアレクサンドロフスク(アレクサンドロフスク=サハリンスキー)を占領。8日18日までに日本軍は樺太全域を占領。ここまで成果を挙げたところで、

9月1日、日露の間に休戦協定が結ばれます。

ポーツマス条約

講和交渉は、アメリカニュハンプシャー州のポーツマス市にある海軍造船所本部ビルで、8月10日から9月5日まで行われました。

日本側全権は小村寿太郎外相と高平小五郎(たかひら こごろう)駐米公使、ロシア側全権は前蔵相セルゲイ・Y・ウィッテとあたらに駐米公使になった前駐日公使ローマン・R・ローゼン。

日本側の要求は、「甲・乙・丙」の3つからなりました。

「甲」は絶対にゆずれない必要条件です。

・韓国を「全然我が自由処分に委する」ことをロシアに承諾させること
・一定期間内に日露両国の軍隊を満州から撤退させること
・遼東半島においてロシアが有する租借権と、ハルビンから旅順までの鉄道に関する権利を日本に譲渡させること

以上3点。

「乙」は第二水準の要求です。

・最高額15億円とする賠償金の獲得
・中立国に逃げたロシア艦船の引き渡し
・樺太の割譲
・沿海州沿岸での漁業権の獲得

以上4点。

「丙」は付加条件です。

・極東におけるロシアの海軍力を制限すること
・ウラジヴォストーク港の武装解除を行わせること

以上2点。

ただし首脳部は国内の世論が過剰なまでの見返りをロシアにもとめていることを考慮し、ポーズとしてこれらの条件を出したのです。

ぜんぶ叶うとはまったく考えていません。現実には、「甲」の3つの絶対的必要条件(韓国の自由処分、満州からのロシア撤退、遼東半島の租借権と鉄道権利の譲渡)と、「乙」の賠償と樺太の割譲さえ通れば、よしと考えていました。

他の条件はさほど重要ではなく、交渉のためのカードでした。

一方、ロシア側はツァーリから講和についての訓令が出ていました。

・土地を割譲してはならぬ
・賠償金を支払ってはならぬ
・東清鉄道の権利を譲渡してはならぬ
・太平洋に艦隊を置く権利を手放してはならぬ

ならぬならぬで、じゃどうすんだよって感じですが、ウィッテはこの訓令をいちおうは踏まえつつ、現実的な路線にすりあわせる柔軟性をもっていました。話し合いはスムーズに進み、以下の三点に同意をみました。

一、韓国に対する日本の指導と保護の権利を認める。
ニ、日露両国が満州から撤兵し、この地を清国に還付する。
三、遼東半島の租借地と長春~旅順間の東清鉄道の権利の譲渡。

日本側の「絶対的必要条件」は東清鉄道の権利がハルビン~旅順ではなく長春~旅順に短縮されたことを除けば、通りました。ここまで10日あまり。

しかし樺太の割譲と賠償問題については日露の見解がするどく対立しました。ロシア側の主張では、樺太はロシア帝国の一部であり、国民感情として割譲などありえない。また戦争といっても首都が落とされたわけではないので、賠償の必要はないというものでした。

ウィッテ個人はともかく、背後にいるツァーリとその取り巻きは、割譲と賠償については断固拒否する構えでした。

8月22日、ルーズヴェルトは日露交渉決裂の雲行きを見て、日本側に対して賠償請求を断念するよう求めます。

これを受けて翌23日、小村寿太郎は樺太を南北に二分し、北半分をロシアに還付する、そのかわりロシアは日本に12億円の賠償を支払うという条件を出しました。

しかしロシアは同意せず、交渉は決裂かと思われましたが、

8月29日、北緯50度以南の樺太を割譲する。そのかわり日本は賠償を求めないということで妥協を見ました。日本の指導部は領土割譲や賠償を放棄してでも講和をまとめるべきと考えており、この結果に大満足でした。きわめて現実的な落とし所といえました。

9月5日、講和条約が調印されました。

最終的な講和条件のうち、主なものをまとめると、

一、韓国に対する日本の指導と保護の権利を認める。
ニ、日露両国が満州から撤兵し、この地を清国に還付する。
三、遼東半島の租借地と長春~旅順間の東清鉄道の権利の譲渡。
四、北緯50度以南の樺太を割譲

日比谷焼打事件

これらの講和条件は小村寿太郎のねばり強い交渉の成果であり、きわめて現実的な落とし所でした。政府首脳部も満足でした。

しかし戦争の現場を知らない庶民は、一円の賠償も取れなかったことに怒ります。なんという弱腰外交だと。

1905年9月5日、政治家・新聞記者・社会活動家などが、「屈辱的な講和条件」に反対して日比谷公園で集会を開こうとしていました。

警察が日比谷公園の門を封鎖すると、集まってきた者たちが怒りにまかせて警察官に襲いかかり、公園内になだれこみました。さらに怒った群衆は内閣官邸や新聞社を襲いました。

政府は軍隊を派遣して鎮圧をはかりますが、派出所、警察署、市電、教会などが焼き討ちされました。ついに戒厳令を出す事態となりました。死者17人。検挙者2000人。その後も全国で一ヶ月あまりにわたってこのような民衆運動が多発しました。

条約に不満を持つ者の中には小村寿太郎の家族を脅したり、襲撃しようとする者もいました。

日露戦争勝利の悪影響

日露戦争の勝利は日本にとって一面ではわざわいとなりました。少数の味方で多数の敵を倒すのがよしとされ、旅順のような近代要塞に正面からつっこんでいく「肉弾戦」こそ「美徳」とされ、火力の不足を白兵戦でおぎなうというおかしな風潮が生まれました。

織田信長や豊臣秀吉の合戦譚がさかんに「創作」されたのもこの時期です。たとえば桶狭間の合戦で信長が少数の味方で多数の敵を破ったことを、大国ロシアはじめ列強に立ち向かう日本国に重ねたのです。

安易な精神論といえます。

ちなみに信長本人は桶狭間の勝利を例外中の例外ととらえ、二度とふたたび少人数で多人数に立ち向かうような戦はしなかったのですが。

こうした風潮が大東亜戦争まで続いていきます。

次回「伊藤博文暗殺事件」

参考文献

参謀本部編纂『明治三十七八年日露戦史』東京偕行社
大江志乃夫『日露戦争の軍事的研究』岩波書店
谷寿夫『機密日露戦争史』原書房
片山慶隆『小村寿太郎 近代日本外交の体現者』中公新書
横手慎ニ『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』中公新書
猪木正道『軍国日本の興亡 日清戦争から日中戦争へ』中公新書
原田敬一『日進・日露戦争 シリーズ日本近現代史3』岩波新書
桑原嶽『乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す』PHP新書
別宮暖郎『旅順攻防戦の真実 乃木司令部は無能ではなかった』PHP文庫
山田朗『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』吉川弘文館
『別冊歴史読本 日本の戦争』新人物往来社
『ビジュアル 明治クロニクル』世界文化社

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解説:左大臣光永

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