岩倉米欧使節団(三)ヨーロッパ

こんにちは。左大臣光永です。

過去に行った講演の録音を、整理してます。私は2011年ごろから今日まで、ほぼ毎月講演を行い、それに加えて単発の仕事もあったので、80分くらいの講演を120回以上やったことになります。思いのほか多くておどろきました。あらためて聴き返したら、自分で喋ったことが信じられないくらい面白いです。ぐいぐいひきこまれます。特に、酒飲みながら聞くのがよいです。多摩で講演した後、中央線で秋葉原まで出て、居酒屋でその日の録音を聞きながら、酒飲んで一人反省会するのが、楽しみでした。今後、少しずつyoutubeにアップしていきます。お楽しみに。

本日は「岩倉米欧使節団(三)ヨーロッパ」。三回シリーズの最終回です。

明治4年(1871)から明治6年まで、岩倉具視、木戸孝允はじめ明治政府の首脳部がアメリカ・イギリスはじめ全12ヵ国を巡察しました。長く鎖国体制下にあった日本にとっては、大きなカルチャーショックとなりました。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Meiji_IwakuraShisetsu3.mp3

岩倉米欧使節団(一)アメリカ
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_IwakuraShisetsu1.html

岩倉米欧使節団(ニ)イギリス
https://history.kaisetsuvoice.com/Meiji_IwakuraShisetsu1.html

フランス

明治5年(1872)11月16日、ドーバーから船に乗り英仏海峡を渡り、カレーからパリに入り、シャンゼリゼ通りを通って凱旋門に面した館に到着。これはもとトルコ公使館として貸し出されていたもので、フランス政府が使節団のために用意してくれたものでした。

イギリス-ロンドンの印象とパリの印象のちがいを記して、

秋から冬にかけてのイギリスはいつでも暗い霧がもやもやと立ち込めて半ば夜のようだが、そこからパリにやってくると爽快な天候と感じる。とりわけパリでも壮麗さを誇る凱旋門広場に面しているので雲も霧も押し分けて天上にまで昇ったような心地がする。

現代語訳縮訳「特命全権大使 米欧回覧実記」
角川ソフィア文庫 大久保喬樹 以下、引用部分 同

11月20日、パリ市内でパノラマを見学します。

パノラマとは円形状の建物の内壁に油絵を展示したもので、ぐるり見渡すと、活き活きと動いているような感覚が得られるものです。いわば映画発明以前の映画にあたるものでした。

シャンゼリゼ通り西側の凱旋門に近いパノラマ館では、昨年(1871年)の普仏戦争における、プロシア軍による包囲攻撃のありさまが、生々しく描かれていました。

「まるで実際に戦場に立っているようですね」
「うーん…音まで聞こえてきそうだ」

11月22日、イギリス駐在日本弁務官より、日本が太陰暦をあらため太陽暦を採用した知らせが届きます。これにより、明治5年12月3日は明治6年1月1日となります。

「なんか変なかんじだな…」

明治6年=1873年1月1日、一行はヴェルサイユで新年の祝賀に参加しました。ヴェルサイユは2年前の普仏戦争の講和が結ばれた場所であり、普仏戦争後のパリ・コミューンの内乱を避けてヴェルサイユ政府が置かれた場所です。フランスに共和制がしかれてわずかに2年。まだ憲法もなく、フランスは歴史の激動期のただ中にありました。

使節団にとっては、幕末の動乱と戊辰戦争を経て、つい先日明治維新なったばかりの日本と重なって感じられたことでしょう。

ノートルダム寺院の壮麗さに驚いた後、孤児院を訪問し、夜は大統領との晩餐会に招かれ、ルイ14世の離宮のあるサンジェルマンにも訪れました。国立図書館では日本や中国の書籍まで揃っていることに驚きます。

農耕機械・器具の展示場を見学し、

「なんと繊細な造りだ!」
「まさに匠の技だ!」

イギリス人とは違う、フランス人の繊細な感性をそこに実感しました。

パリ郊外のモン・ヴァレリアン砲台を見学しました。この砲台は普仏戦争、パリ・コミューンの内乱で使われた後も現役でした。フランスも、ドイツも、戦争が終わったからといって国防をおろそかにせず、それぞれ兵器の改良発明に力を注いでいました。

(平時においてもこの緊張感。国境を接した他国と常に隣り合っていることから来るものだろう。アメリカや、まして日本とは比べ物にならない…)

ふだん無口な大久保利通が、いよいよ無口になって考え込みました。

フォンテーヌブロー宮殿ではナポレオン1世の栄華に思いを馳せ、リュクサンブール宮殿では、絵画や庭園を見学し、ソルボンヌ大学の学生は酒好きでバンカラだとしるし、天文台を見学した時は、パリ・コミューンの反乱の時暴徒が破壊したという望遠鏡を見ました。

「いくら文明国といっても、中流以下の大衆はその限りではない。暴力に訴える。どうしようもない」

と感想をつづります。どこへ行っても、普仏戦争とパリ・コミューンの傷跡に出くわしました。

ちなみにこの年の1月9日。普仏戦争に敗れてイギリスに亡命していたナポレオン三世が病死しています。

ベルギー

ベルギーでは首都ブリュッセルで国王レオポルド2世に拝謁。フランス・ドイツという大国にはさまれた中、小国ベルギーの立ち回り方には日本においても参考になるところがあると感じるのでした。ナポレオン1世最後の戦場ワーテルローを歩きます。城塞都市アントワープも、ナポレオン1世が築いたものです。

オランダ

2月24日、アントワープを汽車で発ち、1時間ほどでオランダの国境駅ローゼンタールに到着。そのままロッテルダムを経てハーグへ。

オランダは、北九州くらいの狭い国であり、かつ水面下の低湿地帯です。にも関わらず産業を起こし富を築いていることに、使節団は大いに感じ入り、こう記します。

「天然に恵まれ者は努力を怠り、天然に恵まれなかった者は努力する!」

2月25日、ハーグ王宮でオランダ国王ウィリアム3世に拝謁し、26日、汽車でロッテルダムへ。

「おお…」

車窓の風景に、目を見張る使節団。

風車が回り、堤防の上を水路が走り、オランダが水面下の低湿地帯であることを実感できました。ロッテルダムにつくと、赤レンガの建物が運河に面して建ち並び、町中を水路が縦横に走り、貨物を載せた舟が行き来しているさま、町並みの美しさに感心します。

ライン河に面した古都ライデンでは、森林の中に瀟洒な館や集落が点在する田舎道を馬車ですすみ、美しい景色を、堪能しました。ライデンは学問文化の地。ことにライデン大学附属博物館には、シーボルト博士が日本から持ち帰った文物の数々が展示され、日本とオランダの結びつきの強さを改めて実感することでした。

3月2日、汽車でオランダ一の大都会アムステルダムへ。街中に水路が走り、その間に建物が立ち並んでいるさまに、

「日本の深川あたりとそっくりだ」

と感想をつづっています。

ドイツ

3月7日。ハーグを汽車で出発。国境を越えて南下、ミュンスターを経てエッセンに到着。エッセンではクルップ社の工場を見学しました。クルップ社は大砲や鉄道を製造し普仏戦争勝利の原動力となり工場には2万人の職工が働いていました。しかしその始まりは小さな町工場であったという話に一行は驚きます。

夜行列車に乗り込み、3月9日、白く霜のおりた野を抜けてベルリン到着。目抜き通りのウンター・デン・リンデンに宿を取ります。

3月11日、王宮にて国王ヴィルヘルム一世に謁見。夜は王立劇場でオペラを鑑賞。翌12日以降、議事堂、サーカス、ジーメンスの電気機器製造工場、最新式の病院、博物館、陶器工場、美術館を見学し、15日夜、宰相ビスマルクに晩餐会に招かれます。

宰相ビスマルク。ロシアやフランスでの外交経験を踏まえ対外拡張政策を採り、周辺勢力を次々と併呑し、ついに普仏戦争に勝利し、ドイツを一大大国たらしめました。

「日本の方々、ようこそドイツへ」
「ビスマルク宰相、お招きに与り光栄です!」

晩餐会もたけなわになった頃、ビスマルクが語り始めます。

「近年、世界各国は友好、親睦などというが、これは表面上のことである。裏に回れば競い合い対立しあっている。私が子供の頃、わが国はまだ小国だった。小国ゆえの辱めを受けるさまを目の当たりにして、憤懣やる方ない思いであった。大国は国際法などといって振りかざすが、実のところ自分の利益になるならば法などはかんたんに曲げる。

なんとかせねばと愛国心をふるいたたせること数十年、ようやく近年、望みを達することができた。私の望みとは、それぞれの国が自主の権利を全うし、対等の立場で外交し、相互不可侵の立場に立つことである。にもかかわらず、わが国が国境に兵を置いていることについて、諸外国は憎む。侵略を目論んでいるのだと。

バカげた話だ。これまでドイツが戦った戦役も、すべてドイツの国権のため、やむをえずやったことである。きけぱイギリス・フランスなどは海外に植民地をもとめ、侵略と搾取を繰り返している。それによって多くの国々が苦しんでいる。信用がおけない。

諸君もそうではないか?私も小国に生まれた者として、諸君の懸念をよく理解できる。だからこそ、諸君がつきあいのある国も多々あろうが、その中でも国権自主を重んじるドイツは、親善国中の親善国たりうるのである」

ビスマルクの演説は今日なお通用する教訓に満ちています。もっとも、「すべてドイツ国権のためやむをえず戦うのである」この理屈で、66年後、ヒトラーはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まるわけですが。

その後も兵営、造幣局、学校など見学しましたが、

3月28日、ポツダム滞在中に日本から帰国要請が届きました。

「大久保さん、木戸さん、すまんが日本に向かってくれ!」

大久保利通は3月中に、木戸孝允は4月に入ってから使節団を離れ、帰国の途につきました。

岩倉具視はじめ残る使節団は3月28日、夜行列車でベルリンを発ち、翌29日、プロイセンの東のはずれ、ケーニヒスベルクにつきます。ここで汽車を乗り換え、ロシアに入りました。

帰路

その後、使節団一行はロシアから北ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ふたたびドイツを経てイタリアへ。オーストリアへ。ウィーンで万国博覧会を見て、スイスを経て、フランスのリヨン、マルセイユで欧州視察の旅を終えます。

明治6年(1873)7月20日、使節団一行はマルセイユから船に乗り(スペイン・ポルトガルは見送りとなった)地中海からスエズ運河を経て28日、紅海へ。31日、紅海南端のペリム島を過ぎてアラビア海へ。

8月1日、アラビア半島南端のアデンに到着。翌2日から一路インド洋を進み、9日、セイロン島ゴール港に上陸。アデンと同じイギリスの植民地ながら島民は仏教徒で見た目が日本人に近く、親近感をおぼえます。

8月12日、ゴール港出港。インド洋を東へ。15日、スマトラ島沿岸からマラッカ海峡にさしかかり、18日早朝シンガポール入港。当時コレラが流行していたため上陸はせず、サイゴンを経て香港に入港したのが8月27日。

9月2日、上海到着。旧市街を視察し、その汚く雑然としていること、質の悪い骨董品や書画のたぐいに嫌悪感をおぼえます。

日本人はこれまで海外に出たことがなく、……中国人とあれば皆、風雅な文人であるように想像し、かの地からもたらされた骨董書画詩文などをやたらに貴重なものとして崇拝する習慣が今も抜けない。……世間で中国というと無闇に有難がってことごとくその産物の評判を信じ込むことは反省すべきところがあるだろう。

9月4日夜、上海でアメリカ船に乗船、黄浦江(こうほこう)から揚子江を経て東シナ海を東へ。9月6日、朝、長崎着。1年10ヶ月にわたる洋行を経て見た日本の景色。その印象をしるして、

大小の島々はどれも秀麗な山々で、遠く近くに見える峰々もすらりとしている。船が進むにつれて島々は流れるようで、またく間に千変万化していく。まことに瓊浦(たまのうら)の美称にそむかない。シンガポール、香港などの島々の景色も遠く及ばない。世界屈指の景勝地である。

その後、唐津から下関を経て瀬戸内海に入り、神戸を経て、明治6年(1873)9月13日の朝、横浜に入港。1年10ヶ月にわたる使節団の旅は終わりました。

三回にわたって「岩倉米欧使節団」について語りました。いかがだったでしょうか?

次回から、「光明皇后」についてお話します。お楽しみに!

参考文献
『特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武 編著 大久保喬樹 訳註 角川ソフィア文庫
『日本の歴史20 明治維新』井上清 中公文庫
『岩倉使節団『米欧回覧実記』』田中彰 岩波現代文庫
『幕末維新の個性5 岩倉具視』佐々木克 吉川弘文館
『西郷隆盛 - 維新の功臣 明治の逆賊』相川 司 中公文庫

講演録音 公開中

NEW 日蓮と一遍(90分)
https://youtu.be/HFiOBFOb7po

武田信玄(一)信濃攻略(71分)
https://youtu.be/upDkngExixI

武田信玄(二)川中島の合戦(55分)
https://youtu.be/5OIDWoJ3xdg

武田信玄(三)武田家、滅亡(68分)
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解説:左大臣光永