日英同盟

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こんにちは。左大臣光永です。

よく晴れたので北野天満宮に参拝してきました。祝詞の声が朗々と本殿から響き、柏手をたたく音、金属製の筒に入ったおみくじをガラガラと鳴らす音、鳥の声など真っ青な冬空の下に響きあい、いいかんじでした。

檜皮葺の屋根が真っ黒いその上に、イチョウの葉が黄色くはらはらと散り落ちているのも、よかったです。

本日は「日英同盟」について語ります。

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日英同盟。1902年(明治35)から1923年(大正12)まで継続した、日本とイギリスの間の同盟協約。1902年、1905年、1911年の3回調印され、それぞれ内容と性質が違う。

もっとも有名な第一回日英同盟は1902年1月30日、義和団の乱後も満州に居座るロシアへの対抗策として調印された。

日本は韓国の確保、イギリスは清国における利権保護および日本の軍事力の利用というねらいがあった。

ロシアの膨張政策

19世紀後半。ロシアは東アジアにしきりに手をのばしていました。

1858年、イギリス・フランスが清国と争っている間に、ロシアは清国と愛琿(アイグン)条約を結び、アムール河(黒竜江)以北の地を得ました。さらに2年後には北京条約でアムール河以東も手に入れました。

1898年には旅順と大連を租借してロシア領土としました。旅順・大連のある遼東半島は日本が日清戦争後の講和で手に入れたが三国干渉によって泣く泣く手放した土地です。日本国民のロシアに対する怒りは、「臥薪嘗胆」のスローガンの下、いや増しに増しました。

さらに1900年、義和団事変にもロシアは出兵し、鎮圧後も満州に居座っていました。

日英同盟派と日露協商派

こうしたロシアの膨張政策は日本にとって脅威でした。どうするのか?政府首脳部は意見が割れていました。

イギリスと同盟を結んでロシアと対抗しようという日英同盟派(山縣有朋・加藤高明・小村寿太郎)と、ロシアと満州についての取り決めを交わして協商関係を築こうという日露協商派(伊藤博文・井上馨)に分かれました。

桂太郎首相・小村寿太郎外相以下は、イギリスと同盟を結んでロシアと対抗する道を選びました。以前なら七つの海を股にかける大英帝国が日本のような小国と同盟を結ぶことはなかったでしょう。しかしイギリスを取り巻く状況も変わっていました。

1891年にロシアがシベリア鉄道を敷設し、1900年義和団事変後も満州に駐屯し、陸路を確保することによってイギリスの海における覇権を脅かしていました。

またドイツが海軍力をのばしていること、アメリカが工業力をのばしていることも、イギリスにとって脅威でした。イギリスとしては、全世界に自国の艦隊を派遣するよりも、せめて東アジア地域だけでも日本を同盟国として海軍力を補わせようという考えがありました。

日英同盟に向けての交渉

日英同盟に向けての交渉は、明治34年(1901)4月17日、林董駐英公使がランズタウン外相に打診したことに始まります。はじめはドイツも加えた日英独三国同盟の予定でしたが、途中ドイツは脱落し、イギリスのみとの交渉となりました。

日本側がなにより重視したのは、韓国(大韓帝国)の確保でした。

韓国に比べれば、満州は日本にとってさして重要ではない。ロシアが韓国に攻め込んでくることだけは、避けたい。韓国こそ、日本の死活問題であると、林はランズダウン外相に日本側の希望を伝えました。

11月6日、イギリス側の第一次草案が林董行使に手渡されました。その後、日本側の修正案を加えて、さらに若干の調整を経て、最終的な条約文が完成します。

伊藤博文のロシア行き

ロンドンで日英の交渉が進んでいるさなか、

伊藤博文はアメリカでイェール大学創立200周年記念式典に出席した後、予定を変えてロシアに向かいました。伊藤は、日露が戦争になることを恐れて、日露協商を単独で結ぼうとしていました。

11月13日、伊藤博文パリ着。桂首相は伊藤博文によって日英同盟が邪魔されることを恐れ、伊藤に当ててロシア訪問を断念するよう打電します。

小村寿太郎外相は林董駐英行使に打電して、パリに行って伊藤博文を説得せよと命じました。

11月15日、伊藤博文から桂首相へ打電。

「私がロシアと意見を交わすまで、日英同盟の締結はまってくれ」

11月20日、桂首相から伊藤博文に打電。

「もはや日英同盟は中止できない。行きたければ勝手にロシアへ行け」

つまりこの時点で、日本には

・イギリスと結ぶか
・ロシアと結ぶか

という2つの選択肢があり、内閣としてはイギリスと結ぶことで話を進めているのに、前首相である伊藤がロシアと結ぶことをゴリ押ししているという状況です。

こうした、伊藤博文のロシアへの接近は、イギリスの疑いを招きます。日本はイギリス・ロシアをはかりにかけ、二股外交をしているのではないかと。小村外相・林董行使はイギリスの疑いを晴らすために大いに気を遣いました。

11月28日、伊藤博文はニコライ二世に拝謁。12月2日、ラムスドルフ外相と、翌3日ウィッテ宰相と会見しました。伊藤は朝鮮における日露の利害を調整した落とし所をさぐろうとしましたが、結局、まとまらず、日露協商は断念しました。

小村外相・林董行使はホッと胸をなでおろしたことでしょう。

ただし伊藤博文のえらいのは、その後でした。

いったん日英同盟が成立するや、それまでの日露協商路線を引っ込めて、日英同盟体制に全力で協力するんですね。一番に大事なのは日本の国益であって、日英同盟か、日露協商かというのは手段にすぎなかったわけです。

現在の、志なき政治家たちと何と違っていることでしょうか。

日英同盟調印

明治34年(1901)12月7日、桂太郎首相は山縣有朋・西郷従道・井上馨・大山巌・松方正義の5人の元老に加え、小村寿太郎外相・山本権兵衛海相を、葉山の長雲閣に招き、日英同盟案を決定しました。

その後もいくつかの条項について、小村・林とランズタウン外相の間で熾烈な駆け引きが行われましたが…

12月9日、最終案が閣議にかけられ、翌10日、明治天皇の御聖断が下りました。

1902年1月30日、ロンドンで第一回日英同盟協約が調印されました。全6箇条と付属書簡一通からなります。

要点は4つです。

・日英両国は清国および韓国の独立をみとめる(前文)。

・英国は清国において、日本は清国および韓国において、政治上・商業上・工業上、格段の利益を有する。もし第三国から日英両国の利益が侵害された場合、必要な措置を取ることができる(第一条)。

・日英両国のいずれか一方が、第三国と戦争状態に入ったら、もう一方の同盟国は厳正中立を守り、同盟国に対して他国が交戦状態に入ることを防ぐようつとめる(第二条)。

・右の場合、もし外の一国もしくは複数国がその同盟国に対して交戦におよぶ時は、もう一方の同盟国は援助して共同戦闘に当たり、講和も同盟国同士が同意の上で行う(第三条)。

・本協約の有効期限は5カ年とする(第六条)。

明治35年(1902)2月12日、日英同盟が発表されました。衆議院貴族院、こぞって歓迎しました。小村は、日英同盟の功績により男爵に叙せられます。新聞も、世論も、日英同盟を歓迎し、各地で日英同盟祝賀会が開かれました。

次回から7回にわたって「日露戦争」について語ります。

まとめ

ロシアの脅威に対して、日本では

・イギリスと手を組む(日英同盟)
・ロシアと手を組む(日露協商)

の二つに国論が割れたが、結局、日英同盟を結ぶことになった。

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