江戸城、開城

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こんにちは。左大臣光永です。

早朝、下鴨神社に参拝してきました。下鴨神社でいつも驚くのは、隅々まで掃除が行き届いていることです。業者の人がブロワーで糺の森の枯れ葉を吹き飛ばし、巻き上げられた砂煙で斜めにさす朝の木漏れ日がはっきり目視できました。

境内では数人の巫女さんたちが箒ではわき、特に、売店の扉のレールんとこに砂がたまってるのを、たくみに箒の先をくねらせて、さっぱさっぱと掃き出す手際が、見事でした。

神さまは清潔好きであること。清潔なところに神さまは宿ること。つくづく実感させられます。

本日は「江戸城、開城」について語ります。

慶應4年(1868)4月11日、江戸城が新政府に明け渡されます。江戸の町は戦火から免れました。それに先駆け、駿府で西郷隆盛と山岡鉄舟が会見し、ついで江戸で勝海舟と西郷隆盛が会見したことに加え、さまざまな交渉・根回しを経ての結果でした。

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山岡鉄舟・益満休之助 東海道を行く

慶應4年(1868)3月5日、勝海舟は江戸赤坂の屋敷に、山岡鉄舟を招きました。

家の者が出てみると、見るからに乱暴な面構えであるので、先生を殺しにきたのに違いない。こりゃあ大変だ。

「先生はご不在です」

「いつごろ帰られる。俺は呼ばれてきたのだ」

などとモメているうちに、おおあんたが山岡さんか、お入んなさいと、中に招き入れます。

この日、勝海舟は山岡鉄舟にはじめて会いました。下級の幕臣ながら、剣術の使い手で、禅の心得もある、気骨のある男だと聞いていました。

勝は一見して、山岡鉄舟の人となりの非凡なることを見抜きます。

「山岡さん、あんたを見込んで頼みたいんだ。駿府へ行って、西郷隆盛に慶喜公の真意を伝えてくれねえか…一緒にこの男を連れて行くといい」

勝が山岡に紹介したのは、薩摩藩士・益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)でした。

益満休之助は昨年末の三田の薩摩藩邸焼き討ち事件の際に捕らえられ、小伝馬町かどこかの牢屋に入れられていましたが、二三日前から勝が何かの役に立つだろうと預かっていた男です。

「薩摩人がいっしょなら、何かと都合がいいだろう」

「益満です。よろしく」

山岡鉄舟と益満休之助はすぐに駿府に向けて出発します。

品川を過ぎると、もう官軍がひしめいていました。山岡は益満を先に立て、「薩摩藩、益満休太郎」と名乗らせました。その後に山岡がついていきます。これで難なく、敵中突破できました。

山岡と益満は官軍ひしめく東海道を駿府めざして進んでいきます。

もっとも難関とおもわれた箱根の関所では、

「やあ、益満さんでしたか、どうぞお通りください」

と、スンナリ通れました。番人が益満の顔見知りだったためです。。

ただし益満は箱根の関所で病気で倒れてしまい、あとは清水次郎長一家が山岡を駿府まで送ったという説もあります。

山岡鉄舟・西郷隆盛 駿府の会見

3月9日、山岡と益満は駿府に着き、松坂屋源兵衛宅(料亭)で西郷隆盛と会います。現在、静岡駅近くに「西郷・山岡会見の跡」の碑が立っています。

勝の西郷に当てた手紙には、徳川慶喜の真意が代弁してありました。

「無偏無党、王道堂々たり。いま官軍鄙府に逼るといえども、君臣謹んで恭順の礼を守るは、我徳川氏の士民といえども、皇国の一民たるを以てのゆえなり。かつ皇国当今の形勢、昔時に異なり、兄弟牆(かき)にせめげども、外の侮(あなどり)を防ぐの時なるを知ればなり」

私は偏りなく、どの党にも属さない。ただ王道を堂々と守る者である。いま官軍が江戸に迫っているのに、君臣謹んで恭順の礼を守っているのは、わが徳川の臣民も、同時に天皇の民であることを知っているからだ。かつ日本国の現状は、昔とは異なる。内では日本人同士争っているが、外国からの侮りを防ぐべき時であることを知っているからである」

さらに手紙は続きます。

どう処理するかは、あえてこっちでは言わない。好きなようにやってくれ。その行動が正しいなら日本国にとって大いに幸いごととなろうし、間違ってるなら、日本国は瓦解し、民を乱した賊徒の名は千年も消えないだろうと。

徳川を助けてくれとは一言も言わず、相手に判断をゆだねている点に勝海舟の交渉力が見えます。

さらに山岡鉄舟が、徳川の立場を涙ながらに訴えます。

「あんたらは自分が正義のつもりで、我々の殿様が腹切られるところをいい気分で見ている。だが西郷さん、あんたとこの島津公が腹を切られるとなったら笑って見ていられるかね。そういう話だ」

西郷は返事に困りました。

「しばし待たれよ」

山岡を待たせておいて、ただちに参謀会議を開きます。そして総裁有栖川宮熾仁親王の承諾を得てから、慶喜助命の条件七か条を示します。

第一、慶喜を備前藩に預ける
第二、江戸城明け渡し
第三、軍艦いっさいの引き渡し
第四、兵器いっさいの引き渡し
第五、江戸城内の家臣は向島に移り謹慎する
第六、慶喜の妄動を助けた者に謝罪させる
第七、幕府に従わず暴挙を起こすものがあれば官軍がこれを討伐する

「この条件が容れられれば、江戸城総攻撃は中止いたしましょう。徳川の家名も残しましょう」

「…だいたいの所はいい。だがこの第一条だけは承服できぬ。慶喜公を備前に預ける?じゃあ後はどうなるのか。おおかた死刑だろう。謹慎先は水戸藩に変えてください」

「それは…」

「慶喜公はすでに謹慎している。謹慎している主を、他藩に引き渡すなど、道理が通らぬ。あくまでこの条件を通すなら、私をふくめ多くの旗本・御家人が決起するであろう」

山岡はすごみをきかせましたが、それ以上強くは言わず、いったん退きます。

3月10日、山岡鉄舟は早馬を飛ばして江戸に帰還し、事の次第を勝海舟に報告しました。

「ううむ…」

西郷隆盛の出した条件に、勝海舟は不満でした。なにより勝が第一に置いているのは「徳川慶喜の身を守る」こと。もっとも大事なその一点が、通っていませんでした。

「こりゃあ西郷と直接話す必要があるな。うまくいくか…」

焦土作戦

勝海舟はいざ交渉決裂の場合、江戸に火をかけることを想定していました。ナポレオンのロシア侵攻に対してモスクワを焼き払った「焦土作戦」を、日本でもやろうとしていました。

それで、ヤクザやテキヤ連中、火消しに声をかけていました。指示が出たらいっぺんに燃やしてくれと。

同時に行徳や市川の船頭衆に声をかけ、江戸湾にありったけの船を集めるよう手配していました。江戸市民を逃がすためにです。

だからドラマなどで描かれるように、勝海舟は江戸市民の命を第一に考えていた。勝のすばらしい人道精神によって、無血開城が成し遂げられた、というのはちょっと違うと思います。

勝が第一としていたのはあくまで「主君徳川慶喜の助命」であって、主君徳川慶喜の助命がならない時は江戸に火をかけることもやむなしと覚悟していました。むしろ勝がそこまでの覚悟でのぞんだからこそ、結果的に無血開城が成し遂げられたのだと私は思います。

もちろん、勝は長年暮らした江戸の町と江戸の人々に深い愛情を持っていました。江戸に火をかけるのはギリギリ最後の手段でした。

こんなエピソードがあります。

大鳥圭介が麹町に番所を作って軍事演習をしているところに、勝海舟がフラッと訪ねてきた。

「大鳥さん、あんたいざという時はどうするつもりかね」

「江戸の町に火をつけても戦うよ」

「へえそうかい。ナポレオンがロシアに攻め込んだ時、ロシアではモスクワの街をぜんぶ焼いたが、その時指揮を執ったのはよその国の人間なんだってさ。だから平気でやれたんだ。あんた江戸の町を焼き払うことができるかね」

大鳥圭介は言葉に詰まったことでしょう。

西郷隆盛・勝海舟の会見

3月11日、西郷隆盛は駿府をたって江戸に向かいます。

3月12日、池上本門寺に入ります。勝はすぐに使いを出し、西郷に会いたいと伝えました。

池上本門寺 大堂
池上本門寺 大堂

前の山岡鉄舟との会談があったので、話はすんなり通りました。すぐに西郷から返事がきて、会見実現への運びとなります。

3月13日、江戸高輪南町の薩摩藩下屋敷で西郷隆盛・勝海舟が会見します。

「いよう西郷先生、元気そうじゃねえか」
「勝先生もお変わりなく…」

などと挨拶を交わした後、

静寛院宮の処遇について、徳川の処置について質疑応答が行われました。この日はいわば下交渉であり、たいした内容はありませんでした。

翌3月14日、芝田町の薩摩藩蔵屋敷で、再び会見が持たれます。現在、田町駅に近いビル街の一角に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見之地」の碑が立っています(ただし交渉場所には諸説あり)。

この日、勝海舟は羽織袴で馬に乗り、従者一人だけを連れて薩摩藩蔵屋敷に出かけました。まず一室に案内されて待っていると、西郷隆盛が庭のほうから平気な顔でやって来た。古い洋服に薩摩風の引切下駄をはいて、熊次郎という下僕を従えて、これは遅刻しましたと挨拶しながら座敷に通る。その様子は少しも一大事を前に控えたふうには見えなかったと、勝海舟は『氷川清話』に書いています。

西郷は開口一番、

「戦は好んでするものではなかですから、明日の総攻撃はひとまず中止いたしましょう」

そう言って、脇に控えていた村田新八と中村半次郎に、明日の攻撃中止を指事しました。

勝海舟はすかさず、西郷から出された条件への修正案を出しました。

慶喜公は備前藩に預けるのではなく、水戸藩お預けとすること

江戸城は明け渡すが、即日、御三卿の田安慶頼(御三卿田安家 五代当主)に引き渡すこと

武器・軍艦は、徳川家で必要なものは残して引き渡す

慶喜の妄動を助けた者への処分は死罪でなく寛大なものにしてほしい

「これは…」

西郷隆盛の出した条件にくらべて、幕府側にそうとう有利な条件でした。

しかし西郷は即座に断りませんでした(イギリス公司パークスから圧力がかかっていたためという説もあり)。

「それがしの一存では何とも…いったん駿府に帰って、大総督のご意見を伺います。駿府でわからなければ京へ参ることにもなりましょう」

「お願いしますよ西郷先生。こっちは江戸で、おとなしく待っていますから」

こうして会見はお開きとなりました。

その後、西郷隆盛は駿府で、京都で、ふたたび駿府で新政府に話を通すのですが、煩雑になりすぎるのではしょります。

最終案

4月4日、新政府より徳川家に最終的な決定が伝えられます。

徳川の家名存続は許す
慶喜は死一等を減じ、水戸へ謹慎とする
江戸城は明け渡し、尾張徳川家預かりとする
軍艦・武器は没収し、追って相当分を差し出す
江戸城内の家臣は城外で謹慎とする
慶喜の妄動を助けた者は死一等を減ずるが、ふさわしい処分を行う

はじめの案からすると、ずいぶん寛大な条件になっていました。しかも、勝海舟らがもっとも通したかった「慶喜の死一等を減じ、水戸へ謹慎とする」がちゃんと通っていました。幕府方にとって、大成果といえました。

江戸城明け渡し

慶応4年(1868)4月11日、東征軍参謀・海江田信義に率いられた薩摩・長州・尾張・熊本・岡山・大村・佐土原の七藩の藩兵が江戸城桜田門から入り、城内を点検。城郭は尾張藩の預かりとなり、武器と兵士は熊本藩が接収しました。


桜田門

しかし接収できた武器はわずかでした。武器の多くは江戸城明け渡し前に、武装解除に反発する兵士らによって持ち出されていたためです。

陸軍歩兵奉行・大鳥圭介は徹底抗戦を主張し、開城の当日、江戸城を脱出。宇都宮に向かいました。宇都宮から、徳川家の聖地・日光に入り、新政府軍に抵抗するつもりでした。

海軍副総裁・榎本武揚は八隻の軍艦を率いてが安房の館山沖に向かっていました。彼らはあくまで新政府軍と戦う構えでした。

以後、戊辰戦争は関東一円へ、さらに東北へ飛び火していきます。

徳川慶喜、水戸へ

徳川慶喜は実家である水戸藩にお預けと決まりました。江戸城開城当日の4月11日早朝、慶喜は寛永寺を出ます。これまで慶喜を警護していた幕臣200人あまりが護衛にあたります。

「上様…なんとお痛ましい…」

慶喜の姿を見て、涙を流す者が多くありました。

慶喜は憔悴しきって、髭はのび、黒木綿の羽織に小倉の袴をつけ、麻裏の草履をはいていました。

一行は日光街道を千住まで進み、千住からは水戸街道を進みました。彰義隊が千住まで警護し、頭取の渋沢成一郎は松戸まで付き添いました。

慶喜は水戸に到着すると、藩校の弘道館で謹慎生活に入ります。

4月21日、東征大総督・有栖川宮熾仁親王が江戸城に入ります。以後、江戸城に新政府の総督府が置かれることとなります。

次回「五条誓文」に続きます。

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解説:左大臣光永

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