『万葉集』の成立
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因幡の大伴家持
759年正月、大伴家持は因幡守として因幡国(鳥取)の国庁にいました。
「おめでとうございます」「おめでとうございます」
しんしんと降るしきる雪の中、因幡国庁には新年の祝いに、たくさんの人が訪れます。しかし大伴家持の心は晴れませんでした。
(もう30年か…)
家持は13歳で大伴家の家督を継いで以来、名門大伴家の家名を再興するために努力を重ねてきました。
しかし時は藤原氏の全盛期。どうあがいても大伴氏にかつての勢いは戻りませんでした。その上家持が親しくしていた橘諸兄が失脚し、かわって藤原仲麻呂による専制がはじまりした。
すると家持は政界から遠ざけられ、因幡国に左遷されてしまいました。
(晩年になって大宰府に流された父も…
今の私と同じような気持ちだったのだろうか…)
家持は父旅人のことをあまり覚えていません。しかし、残された歌から、父のことが偲ばれるのでした。とにかく父はお酒が好きで、いつも酔っぱらっていたようです。
(酒か…)
家持は縁側に立つと、ふりしきる雪を眺めながら、詠みました。
新(あらた)しき年のはじめの初春の
今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)
新しい年の初め、初春の今日。ふりしきる雪のように、
良いことよ、もっともっと重なれ。
家持は杯を手に、振り返り、集まった人たちに向かって、杯を掲げて、言います。
「みなさま、新年おめでとう。今年もよい年でありますように」
「おめでとうございます」「今年もよろしく」
ワーーッ
新(あらた)しき年のはじめの初春の
今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)
新しい年の初め、初春の今日。ふりしきる雪のように、
良いことよ、もっともっと重なれ。
これが『万葉集』の巻末を飾る歌となりました。
『万葉集』という歌集
今日なお多くの人に読まれていて、各地で勉強会や講演会が開かれている「万葉集」ですが、その正確な成立時期、編纂者はわかっていません。
少しずつ修正を重ねながら整えられていき、最終的に大伴家持によって完成したと考えられています。
全20巻、4500首の大ボリュームです。しかも歌の作者は天皇から庶民まで、さまざまな階層に及び、その出身地もいろいろです。
『万葉集』という書名のゆらいは諸説ありますが、万(マン、ヨロズ)の字を「たくさん」と見て、「葉」の字を「ことのは」「ことば」と見て、
たくさんの豊かな言葉がつまっている、という説が有力です。
『万葉集』が取扱う時代は長いので、一般に四期に分けて考えます。ここでは第一期から第四期まで、それぞれの代表的な歌と歌人を見ていきましょう。
第一期
舒明天皇の即位(629年)から大化の改新(645)をへて壬申の乱(672)にいたるまで約40年間、天皇中心の国家の基礎がつくられていった時期をもって万葉集の第一期とします。おおらかでのびのびとした歌いっぷりの歌が詠まれました。額田王や有馬皇子が活躍しました。
額田王は主に斉明天皇の時代に活躍した女流歌人です。鏡大王の娘であり、大海人皇子との間に十市皇女を生んだといいますが、『日本書紀』に記されているのはそれだけです。
【額田王】
(天武)天皇、初めが鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田王をめして、十市皇女(とをちのひめみこ)を生しませり
その後額田王は中大兄皇子に召されたといいます。そのため弟大海人皇子と兄中大兄皇子との間で三角関係だったのでは無いか、それが後の壬申の乱を引き起こしたのではないか、などとも言われますが…、事実はどうだったのか。
【額田王、中大兄皇子、大海人皇子】
君待つと我が恋ひ居ればわが屋戸の
簾動かし秋の風吹く
(あなたを恋しくお待ちしていると、戸口の簾がゆれるので「あっ、いらしっしゃった」と見ると秋風に簾がゆられただけだった)
第二期
「万葉集」の第二期は、壬申の乱(672)から、平城京への遷都(710年)まで。みずみずしく力強い歌が詠まれました。表現技法が発達し、長歌・短歌の形式が整ったのもこの時期です。柿本人麻呂・高市黒人・大津皇子らが活躍しました。
柿本人麻呂は、歌の神様のように言われますが、有名ながら謎の多い人物です。持統天皇の時代を中心に宮廷詩人として活躍したようです。
東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
(東の野を見ると朝日の光が輝いており、振り返って西を見ると月が沈みかけている)
10歳の皇太子・軽皇子が、藤原京東の阿騎野(あきの)で狩りをされた時に、お供をした柿本人麻呂が詠んだ歌です。
【阿騎野】
ただし、これはただの狩りではありませんでした。
28歳の若さで亡くなった軽皇子の父・草壁皇子を追悼する意味をもった狩りでした。亡くなった草壁皇子も、昔この阿騎(あき)の野で狩りをされたことがあったのでした。
この人麻呂の歌は早朝の狩野の雄大な景色を描きながら、景色だけではなく、そこに亡くなった草壁皇子への哀悼の気持、そして来るべき軽皇子の世を祝福する気持を詠み込んでいます。
沈んでいく月を亡くなった草壁皇子に、のぼってくる太陽を軽皇子にたとえているのです。
この阿騎野の狩りから5年後、15歳の軽皇子は持統天皇からの譲位を受け、文武天皇として即位しました。
第三期
第三期は平城京遷都(710年)から山上憶良が没したあたり(733年)まで。山上憶良、大伴旅人、大伴坂上郎女・山部赤人など個性豊かな詠み手があらわれ、多彩な歌が詠まれます。
山上憶良は702年、30年ぶりに復活した遣唐使に加わり、帰国後はその学識を買われて当時首皇子(おびとのおうじ)といった聖武天皇の教育係を務めたりしました。
その後、筑前守として大宰府に赴任します。ちなみに憶良に遅れて上司として赴任してきたのが大伴旅人です。
憶良らは今は罷らむ子泣くらむ
それその母もわを待つらむそ
(私憶良めはもうおいとまいたしましょう。家では子が泣いております。
その母も私の帰りを待っているんです)
宴会を中座する言い訳の歌です。ある時、どこかの館で宴会を開いていました。ワイワイと盛り上がって、大宰府の夜はしんしんと更けていきます。
宴もたけなわになった時、山上憶良やおら立ち上がり、
「では、私はそろそろお暇いたします」
そこで大伴旅人が(…とは書かれていませんが、イメージ的には大伴旅人が)、
「ええっ!憶良ちゃん。そんな、帰るなんて、ありえないよね。
憶良ちゃん、ちょ…憶良ちゃんて!まだ夜は…、長かですばい!
帰しませんよ。ぜったい帰しませんよ!!」
ガバッとしがみついて、帰そうとしません。
そこで山上憶良、苦笑しつつ詠みました。
憶良らは今は罷らむ子泣くらむ
それその母もわを待つらむそ
(私憶良めはもうおいとまいたしましょう。家では子が泣いております。
その母も私の帰りを待っているんです)
本当に子とその母がいたのか、あるいはそういう設定の下に詠んだのかわかりませんが…
「あっ…こいつはうまいこと言った。
こう言われちゃかなわない。こっちも風流人をもって自任するはしくれだ。
帰って家族円満してこい」
ドーンと背中を押されて、トトトトトッと面に駆けだしたという…
山上憶良。宴会を中座する歌です。
第四期
『万葉集』第四期は山上憶良が没したあたり(733年)から大伴家持によって最後の歌が詠まれる759年まで。天然痘の流行(737年)や橘奈良麻呂の乱(757年)、聖武天皇による四度の遷都、大仏建立による財政の疲弊など、相次ぐ社会不安を反映して、繊細で感傷的な歌が増えました。
うらうらに照れる春日に雲雀あがり
情悲しも独りしおもへば
(うららかに照る春の日の中、雲雀があがっていく。
私は独り物思いに沈み、心は悲しいのだ)
この歌は北陸での任期を終え、奈良に戻ってきたころの作品です。
五月病というか、春のゆううつがあふれている感じです。
この頃大伴家持が親しくしていた左大臣橘諸兄が失脚し、かわって藤原仲麻呂による専制がはじまりました。
この後、家持は因幡国に左遷されることになります…。