平清盛 太政大臣に至る
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平清盛 公卿となる
平治の乱から半年後、平清盛は正四位下から二階級特進して正三位となり、ついで参議に列せられました。清盛は武士としてはじめて公卿になったのです。公卿とは、大臣以下・大納言・中納言・参議の、国政の中心をになう人々のことです。
これら平清盛の昇進は、後白河上皇の強い後押しによるものでした。平治の乱終結後も、二条天皇親政派と後白河上皇院政派の争いは続いていたのです。
平清盛はどちらかというと二条天皇親政派に近い立場にいましたが、かといって後白河院政派と敵対するでもなく、両者の間でバランスをたもっていました。
後白河上皇は、二条天皇親政派をおさえるために平清盛の武力があてになると見ました。逆に、平清盛が二条天皇派に味方すれば、やっかいなことになる。ならばできるだけ恩を売って、清盛を取りこんでおこうというわけです。
親政派への牽制
永暦元年(1160年)2月、後白河上皇は清盛に命じて、親政派の藤原経宗・藤原惟方両名を逮捕させました。きっかけは、ささいなことでした。
後白河上皇が、八条堀川の藤原顕長(ふじわらのあきなが)の館に行幸し、桟敷をしいて、下々の者を見物していました。桟敷とは風景を見物するために一段高く作った台のことです。
「おお…いろいろな格好の者がおるのお」
興味深く眺める後白河上皇。それを見ていた藤原経宗・藤原惟方両名は、
「なんとはしたない!」
バカッ、バカカッ、
桟敷の、通りに面したところを板でふさぎ、見えなくしてしまいました。
「な…これでは、景色が見えんではないかッ無礼なッ」
藤原経宗・藤原惟方両名としては、後白河上皇の下品な行いをとがめるつもりでしたが、後白河上皇はこれを反逆である、といって平清盛に逮捕を命じました。
まあ、言いがかりもいいとことですね。
清盛も困ったことでしょう。
「上皇さま、よろしいのですかそのようなことで」
「構わぬ。やれッ」
結局、藤原経宗は阿波へ、藤原惟方は長門へ、流罪となりました。
二条天皇のもっとも有力な近臣であった藤原経宗・藤原惟方が失脚したことで、一気に二条親政派は衰え、後白河院政派が勢いをのばすこととなります。
後白河上皇は清盛に二条親政派の逮捕を命ずることで、旗色のいまいちハツキリしなかった清盛を後白河院政派にひきこもうという意図があったのでしょう。
翌年の応保元年(1161年)正月、検非違使別当(長官)に就任。検非違使とは平安京の治安維持をになう警察組織です。
憲仁親王の誕生
こうして平清盛は後白河院上皇にしだいに接近していくこととなります。
もう一つ、平清盛と後白河上皇との関係を深めた原因がありました。清盛の妻時子の妹滋子が後白河上皇の寵愛を受けていましたが、応保元年(1161年)皇子を生んだのです。憲仁親王(のりひとしんのう)。後の高倉天皇です。
憲仁親王=高倉天皇
こうした背景の中にあって、清盛は権大納言となり、応保2年(1162年)従二位に叙せられます。
摂関家との婚姻
一方、清盛は摂関家ともつながりを築くことに成功します。
長寛2年(1164年)前関白藤原忠通が没すると、忠通の子の近衛基実が清盛に接近してきました。
「摂関家と平家、末永くうまくやっていくためにも姻戚関係を結びましょう」
「おお、それはこちらからもお願いしたいこと」
こうして清盛は、娘の盛子を時の関白藤原基実に嫁がせました。摂関家は昔日の勢いは失ったといっても、やはり貴族の頂点に立つ、一つのブランドでした。平家一門の貴族化を進める清盛にとって、摂関家と姻戚関係を持つことはきわめて重要でした。また摂関家が平家一門に敵対せぬようにとの考えもありました。
摂関家と平家の姻戚関係
蓮華王院
長寛2年(1164年)12月。清盛は後白河上皇よりかねて命じられていた蓮華王院を完成させ、これを上皇に献上します。後白河上皇が院の御所の跡地に建てた法住寺の一角で、今日、その本堂は三十三間堂の名で今日有名ですが、建物は鎌倉時代に再建されたものです。
蓮華王院の落慶供養には後白河上皇ご自身が臨席なさいました。しかし、息子の二条天皇の姿はそこにありませんでした。後白河上皇と二条天皇父子の関係は、かくまで隔絶していたのです。「ああ…なぜそこまで」さしもの後白河上皇も、これには肩を落とされたことでしょう。
世の人々も言い合いました。「今上帝は名君であらせられるが、親への孝という一点だけは欠けておられる」と…。
二条天皇崩御・六条天皇即位
永万5年(1165年)
清盛にとって重要な転機となる、ある事件が起こります。
長い間後白河上皇と対立し、親政派のよりどころとなっていた二条天皇が病を理由に譲位し、息子の六条天皇が即位したのです。六条天皇はわずか2歳でした。そして、二条天皇は譲位の翌月、崩御します。
この直後の永万元年(1165年)8月、清盛は権大納言に任じられます。
摂関家の領土を奪う
さて、清盛の娘盛子の摂関家の近衛基実に嫁いでいましたが、基実は父忠通のあとをついで二条天皇の関白、六条天皇の摂政を努めました。しかし基実は仁安元年(1166)7月、24歳の若さで亡くなってしまいます。
基実の息子の基通はまだ幼いので、基実の弟の松殿基房が摂政となりました。
近衛基実
この時清盛は、かつて藤原忠通につかえていた藤原邦綱の助言に基づき、摂関家の土地を奪うべく策謀を行います。
摂関家所領のうち、殿下渡料(でんわのわたりりょう)といって摂政・関白の地位に付随するわずかな土地を基通に渡し、残りの大部分の氏長者領(うじのちょうじゃりょう)を、未亡人である盛子に管理させるというものです。基実の息子が成人したら引き渡すという名目でしたが、実際は盛子の後見人である清盛のものになるに決まっていました。
「ペテンだ!清盛に、土地を奪われた!」
基通は飛び上がって怒り狂ったでしょうが、後白河上皇の寵愛篤い清盛のことで、どうにもなりませんでした。
清盛はこのように、ペテンのようなやり方で摂関家の所領地を平家の土地としてしまいました。こういうことをしても咎めることができないほど、清盛の勢いは、誰にも止められないものがありました。
そして後白河上皇も、清盛の強引な摂関家からの土地奪取を黙認しました。心から賛同していたのか、仕方なくかはわかりませんが…いずれにしても後白河は清盛のやり方に反対はしませんでした。
太政大臣に至る
翌仁安元年(1166年)
清盛は、妻時子の妹、滋子と後白河上皇との間に生まれた憲仁(のりひと)親王を皇太子に立てます。立太子の儀が盛代に行われます。三歳の天皇と、六歳の皇太子です。
憲仁親王(高倉天皇)
清盛は皇太子を補佐する春宮大夫(とうぐうだいぶ)(皇太子の後見役)となり、平家一門、一丸となって皇太子をささえる体制となります。
憲仁親王の立太子により、後白河上皇の慈子への寵愛はいっそう深まります。
「今やお前は皇太子の母だ。将来の国母ぞ。
体を大事にしてくれよ…」
「私…しあわせです…」
そのような感じだったでしょうか。後白河上皇は慈子に従三位の位を授け、女御に格上げします。これによって、後白河上皇と平家一門のつながりはいよいよ強くなりました。
この年、清盛は従二位に叙せられ、内大臣に進みます。
さらに翌年の仁安2年(1167年)左右の大臣を経ず太政大臣に至ります。時に清盛50歳。後白河上皇の強い後押しがあったとはいえ、平治の乱から8年で人臣として最高の位に至ったのは、異例のことでした。そのため、平清盛は白河法皇の御落胤なのでは…という説も出てくるわけです。
太政大臣を辞任
清盛は太政大臣に就任すると、すぐに厳島神社に赴き報告します。潮風にふかれながら、ようやくここまで来たと、清盛は感慨にふけったことでしょう。ところが、清盛はわずか三か月で太政大臣を辞任します。表むきの理由は病気ということですが…太政大臣はすでに単なる名誉職になっており、長く留まっている必要はないと考えたようです。
しかし、病にかかったこと自体は本当らしく、「素白」寄生虫によるものだったと伝えられます。清盛は病の床に延暦寺の明雲僧正を呼び、受戒・出家。法名を青蓮、後に浄海とあらためます。
「明雲殿、今度ばかりは清盛も実感しました。
この世の権勢など、はかないもの。
私のような者でも御仏を思う心が出てきたようです」
「…尊いことです」
この時、妻時子もいっしょに出家しました。仁安2年(1167年)のことでした。
この時、後白河上皇は熊野詣の帰り道に、知らせを受けました。
「なに、清盛が!早く六波羅へ!」
すぐさま後白河上皇は京都に戻り、六波羅に清盛をみまいます。
「清盛、大丈夫か」
「上皇さま、もったいないのうございます…ごほっ、ごほっ」
「無理をするな、そのままでよい。
それで…憲仁の件であるが。今上帝には近々、
ご譲位をしていただこうと思う」
「やはり、上皇さまも同じお考えでしたか」
そんなやり取りがあったかわかりませんが、後白河上皇は清盛の病気平癒のためにさまざまの祈祷を行い、天下に大赦を行いました。
高倉天皇の即位
もちろん、後白河上皇の清盛への親身さは、情によるものだけでは、ありませんでした。
今清盛が死んだら、天皇親政派に対する抑えがきかなくなり、彼らが六条天皇を担ぎ出し、面倒なことになる。だから、清盛が死ぬ前に、後白河上皇はご自分の御子である憲仁親王に譲位させておく必要がありました。
こうして後白河上皇の発議により、4歳の六条天皇は譲位させられ、8歳の憲仁親王が高倉天皇として即位します。後白河上皇が熊野からもどってわずか4日目のことでした。
少し先になりますが、3年後の承安元年(1171年)高倉天皇のもとに清盛と妻時子の娘・徳子が入内しました。これは高倉天皇の実母であり時子の妹である慈子のはからいによるものでした。徳子の高倉天皇入内により、平家と天皇家の結びつきはいよいよ強まることとなります。
高倉天皇と平徳子と言仁親王
言仁親王の誕生
そして治承2年(1178年)、高倉天皇と徳子の間に言仁(ときひと)親王が生まれます。高倉天皇は病弱であったため、徳子はなかなか懐妊しませんでした。そんないきさつもあり、清盛の喜びようは大変なものでした。言仁親王は誕生の翌月には皇太子に立てられます。
翌年の12月、満一年になった言仁親王は母徳子に連れられて祖父清盛の館を訪れます。その時の清盛の感激ぶりが記録されています。
おお言仁や、言仁や、ぶちゅーー
一日中、親王を抱いてかわいがり、そして清盛は障子の前で言仁親王に、いいかいおじいちゃんのやることを、マネしてみなさい。指をなめて、ぷすっ。
ダア。
言仁親王が指をなめて、ぷすっとやると、おおーー上手だねえ、えらいえらい。清盛は大喜びして、障子を取り外させて、倉の中に大切に保管させた、ということです。
つづき「厳島神社と平家納経」