厳島神社と平家納経
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清盛と厳島神社
平清盛は久安2年(1146年)に安芸守となってから保元元年(1156年)に播磨守に任じられるまで、10年間安芸国を知行していました。そして厳島神社を信仰し、保護につとめてきました。
『古事談』には、清盛が厳島信仰にめざめたきっかけが語られています。
清盛が、安芸守であったころ、高野山の大塔の修理を命じられまし。この時清盛自身も高野山におもむき、材木を運んでいました。そこへ独りの老人が近づいてきて、言います。
「日本で大日如来を本地とするのは伊勢神宮と厳島神社だけである。このうち伊勢神宮は皇室のまつる神社であるから、安芸守であるあなたは厳島神社をまつるといい」
「ちょ…なんですいきなり。あなたは、何者ですか」
「奥の阿闍梨…とだけ名乗っておきましょう」
そして老人は姿を消しました。
大日如来は密教がもっとも重んじた仏。本地とは仏の本質が神の形となってあらわれることです。高野山の奥にいる阿闍梨といえば…弘法大師しか考えられません。
「これは…お大師さまのお告げ!さっそく厳島神社へ参詣するのだ!」
ただちに厳島神社へ飛ぶ清盛。
そこで、
「汝は従一位太政大臣にまで出世するであろう」
巫女からそう告げられ、実際その予言は的中することになった…という話です。
平家と厳島神社が結びつきを強めていったことから、さかのぼって、このような伝説も生まれたのでしょう。
実際には、平家は瀬戸内海で貿易を行ったので、海上交通の守り神としての厳島神社を信仰したのでしょう。
また清盛が厳島神社を信仰した背景には、皇室や藤原氏への対抗意識もあったと思われます。皇室には伊勢神宮があり、藤原氏には春日社と興福寺があります。成りあがり者の平家には、そのような寄って立つ所が無いので、厳島神社を平家にとっての伊勢神宮や興福寺、春日社にしようという考えだったかもしれません。
厳島神社の由来
厳島神社は推古天皇の元年593年、佐伯鞍職(さえきのくらもと)という人物によって創建されました。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、
田心姫命(たごりひめのみこと)、
湍津姫命三柱(たぎつひめのみこと)
の三女神をまつります。
「厳島」という名前は「けがれを避け神に仕える」という意味の
「斉(いつ)く」という語に由来します。
現在「厳島神社」といって誰もがイメージする朱塗りの大鳥居、海に張り出した社殿と回廊は平安時代の寝殿造りの様式を海の上にあらわすという発想に基づき清盛と当時の神主佐伯景弘(さえきかげひろ)が修築させたものです。
ただし清盛の時代の社殿はすべて焼失してしまい、現在の厳島神社は鎌倉時代から江戸時代にかけて再建されたものです。
平家納経
長寛2年(1164年)平清盛は平家一門の繁栄を願って、厳島神社に『法華経』二十八巻、『無量義経』一巻、『観普賢経』一巻、『般若心経』一巻、『阿弥陀経』一巻、そして自筆の願文(がんもん)一巻、あわせて三十三巻を奉納しました。平家納経です。
清盛はじめ嫡子重盛、弟経盛、教盛、頼盛など一門の一人が一巻を担当して、写経したものです。
一巻ごとにすべて装飾や神、文様が違い、巻物に用いられる金具には精巧な透かし彫りがあり、各巻の見返しには、綺羅をつくした絵や文様が施されています。
京都周辺の平家の遺物はことごとく燃えてしまい、現在残っているものは、ほとんどありません。しかし都に遠い厳島神社に、平家一門は、その栄華の跡を残したのです。何とも感慨深いものです。
残念ながら、当面一般公開の予定は無いということです。
つづき「平家の日宋貿易」