継体天皇の倭(やまと)入り

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こんにちは。左大臣光永です。あなたは学生時代、アルバイトはしてましたか?

私はいろいろやってたんですが、今朝、喫茶店でバイト募集の貼り紙を見て、思い出してしまいました。あーあー…何をやっても役に立たなかったなあと!特に喫茶店とか、飲食系はてんで使えませんでしたね。今思い出してもお店に対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。特技は何ですか?はっ、漢詩とか歴史の話ができます…とかいって、ハンバーガー一枚まともに焼けませんからね。こんな使えない人間でも食べていけるんだから、世の中甘いもんです。

さて本日は、「継体天皇の倭(やまと)入り」です。天皇家の血筋は、25代武烈天皇と26代継体天皇の間で大きく断絶があります。武烈天皇が跡取りの無いまま亡くなったため、ずっとさかのぼって15代応神天皇の五世の孫である継体天皇が即位しました。

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天皇系図天皇系図

しかし、応神天皇と継体天皇の間の4代の血筋があやしいため、つながってないのではないか?武烈天皇以前と継体天皇以後はまったく別の王朝ではないのか?継体天皇こそ初代天皇ではないのか…などとも言われています。そうすると現在の皇室が神武天皇につながらないことになり、大スキャンダルですね。

継体天皇像
継体天皇像

506年、暴君として知られる25代武烈天皇が跡取りの無いまま亡くなりました。武烈天皇は『日本書紀』に「一つもよい行いをなさなかった」と書かれている天皇です。妊婦の腹を裂いて胎児を見たり、人の爪をはいで芋を掘らせたなどの悪行が伝わっています。

その武烈天皇が、跡取りの無いまま亡くなったことで、仁徳天皇以来の血筋が途絶えてしまいました。

天皇系図天皇系図

臣下の大伴金村(おおとものかなむら)は役人たちを前に言います。

「まさに今、皇統が途絶えてしまった。天下万民はどこに心をつなげばよいのか。災いのもとはここから起こる。今、仲哀天皇の五世の孫であらせられる倭彦王(やまとひこのおおきみ)が、丹波国(たにはのくに)にまします。試みに軍勢を整え、車を護衛して、行って迎え奉り、君子としてお迎えしようではないか」

こうして仲哀天皇の五世の御孫・倭彦王をお迎えに上がりましたが、倭彦王ははるかに軍勢が迫ってくるのをご覧になり、

「うわあ、えらいことになった。私は面倒ごとはごめんだ」

真っ青になって山の中に逃げていき、行方不明となりました。

翌年の正月、大伴金村連は、ふたたび百官を前に提案します。

「応神天皇の五世の孫・男大迹王(おおどのおおきみ)は人柄もよく慈悲深く、帝位を継ぐにふさわしいお方である。なんとかしてお迎えしたい」

天皇系図天皇系図

物部麁鹿火(もののべのあらかい)・許勢男人(こせのおひと)らも同意しました。

「皇孫の中で選ぶとしたら、男大迹王(おおどのおおきみ)ただ一人です」

正月6日、役人を遣わして、御旗をかざして御車を用意して、越の国にお迎えに行きました。その時、男大迹王が落ち着き払って床机にすわり、役人たちを整然と従えるさまは、すでに帝王の威厳がありました。

「ああ…やはり、この人しかいない」

御旗をもっていた使いの者たちはかしこまり、つくづく心打たれ、忠誠を尽くそうと願うのでした。しかし男大迹王は、なお疑いのお気持ちもありました。

「私に天皇になれ…いかにも急な話だ。もし安易に受けたら、反逆だなどといって、殺されてしまうのではないか…」

そのまま、数日が経過します。河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)という者が使者を遣わして、皆が男大迹王をお迎えしようとしている真意を切々と説きます。

「武烈天皇の崩御により、皇統が断絶し、天下の危機です。皇孫の中に君子としてお迎えするとなると、その人柄のすぐれていることは、あなた以外にありません。どうか天下のために、立ち上がってください」

「うむむ…」

二日三夜の後、ついに男大迹王は出発することにしました。

「馬飼首(うまかいのおびと)よ、よく使者を送ってくれた。あのまま断っていたら、天下の笑いものにされるところであった」

それで即位された後も、馬飼首を厚く用いました。こうして新しい帝王をお迎えします。26代継体天皇です。御年58歳。武烈天皇の姉(または妹)・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とします。

即位

507年正月24日、河内の樟葉宮(くずはのみや)に、継体天皇が到着なさいました。

「ようこそはるばるいらっしゃいました」
「どうか君主として、我らを治めてください」
「うむ…」

2月4日、大伴金村連はひざまづいて、皇位継承の証である剣と鏡を捧げ持って差し上げようとします。そこで改めて事の重さに討たれた天皇は、躊躇なさいました。

「民を子として国を治めることは、重いことである。私には才能が足りない。どうか、考えなおして、賢い人を選んでくれ。私はふさわしくない」

「そんな、わが君、なにとぞ、なにとぞ。あなた以外にありません」

大伴金村連は地面に頭をこすりつけて、願い申し上げます。

「どうか、どうか」

天皇は南に向かって二度、西に向かって三度、ご辞退されました。しかし、大臣・連らは皆、

「どうかお願いします。天下の大事を、我々は軽い気持ちで言ってるのではございません。どうか、なにとぞ、帝位におつきください」

「ううむ…皆がそこまで言うなら…。もはや断ることはできぬ」

「おお」「では!」

天皇は帝位継承の証たる剣と鏡をお受けになり、その日のうちに帝位につかれました。

こうして河内で即位した継体天皇でしたが、なかなか倭に入ることはできず、山代の筒木、弟国と転々とします。ようやく倭の余磐宮(いわれのみや)に入ったのは、20年経ってからでした。

なぜ20年かかったかは、諸説ありよくわかりません。新しい君主を迎えることをよしとしない反対勢力によって倭に入ることをはばまれていた、新しい政治を行うため、あえて倭と距離を置いたなど、いろいろ言われています。

武烈天皇の残虐性が『日本書紀』の中でこれでもかと描かれているのは、皇統が切り替わって継体系に移ったため、その正当性を強調するためだ、という説もあります。

次回「磐井の反乱」お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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