桓武天皇(ニ)長岡京から平安京へ
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本日は「桓武天皇(ニ)長岡京から平安京へ」です。
平安京遷都で有名な桓武天皇は母方が渡来系の血筋であり、本来は即位できるはずはありませんでした。
しかし父光仁天皇の後継種であった他戸親王が捕らえられて、死んだため、それまで日の当たらなかった山部親王=桓武天皇が皇太子として立てられたのです。
桓武天皇は即位後も母方の血筋が卑しいことにコンプレックスを抱き、そのコンプレックスをはねのけるような勢いで都作りと蝦夷との対外戦争に勢力的に取り組んでいきます。。。
長岡宮 朝堂院跡
氷上川継事件、反対勢力の排除
初期の桓武政権は反対勢力の排除にそのパワーが当てられました。母方が賤しい渡来系である桓武天皇の即位には反対勢力が多かったでのです。
即位翌年の782年には、さっそく事件が起こりました。大和乙人という者が宮中に武器を持って乱入しました。捕らえて尋問すると、主人の氷上川継(ひかみのかわつぐ)が、皇居の北門から乱入し、朝廷を倒そうとしていたという陰謀が発覚しました。
氷上川継は、天武天皇の孫・塩焼王を父とし、故井上皇后の妹・不破内親王を母にもちます。父母ともに天武系です。だから、光仁~桓武とつづく天智系の政権に強い反抗心を持っていたようです。
陰謀は未然に発覚。
氷上川継と一味は捕らえられ、氷上川継とその妻は伊豆三島に流されました。782年、氷上川継事件です。この時、万葉歌人の大伴家持なども連座して、官職を解かれています。
同782年、藤原北家の魚名が左遷されます。魚名も桓武天皇擁立に反対してきた人物でした。このように初期の桓武政権は反対勢力の排除にその力が注がれました。
長岡京遷都
784年、平城京から長岡京に遷都。遷都の理由はいろいろ説があります。しかし日本の都が遷された年については記録があるが、「なぜ遷されたか」は詳しい記録が無いので、後世の人は想像するしかありません。
長岡宮 朝堂院跡
平城京から長岡京へ
財政難の政府が、渡来系秦氏の財力を期待して、秦氏の根拠地である山背の地に遷都することにしたとか、仏教勢力の根強い平城京と縁を切りたかったとか、また桓武天皇は天智天皇の孫である白壁王を父に持つ天智系の天皇なので、聖武天皇以来の天武系の都である平城京を去りたかった、長岡京のある乙訓の地は桓武の母の実家で、桓武にとっては幼い頃過ごした懐かしい地であったなど、どれももっともな理由で一理あると思われます。
寺院抑制
桓武天皇は長岡京遷都にあたって、あらたに長岡の地に寺院を築くことを禁じました。藤原京から平城京遷都の時は、元興寺や薬師寺などの寺院は新都に移しました。
しかし長岡京においては認めませんでした。
「政治と仏教が結びつくと、ロクなことにならん」
そのことを桓武天皇は身にしみて実感していたのでしょう。
現在、長岡に寺院が少ないのは桓武天皇の寺院抑制政策のためです。その一方で「古都」奈良には多くの寺が現在も残っています。もし桓武天皇の寺院抑制政策がなければほとんどの奈良の寺寺が長岡に移っていたと思われます。
藤原種継暗殺事件
藤原式家の藤原百川の甥の種継が平安京の造営使に選ばれます。
「たのむぞ種継」
「ミカド、お任せくださいる必ずこの長岡の地に、
すばらしい都を築いてごらんに入れます」
藤原種継は桓武天皇の絶大な信頼を得て、長岡京造営を進めていきました。
しかし長岡京の工事は遅々として進みませんでした。
工事の人員が逃げ出したり、放火が相次ぎました。
「どうもおかしい」
延暦4年(785)9月23日、造営使藤原種継は長岡京嶋町(現乙訓郡島坂)で工事現場を視察していました。賊がいたら捕まえてやるぞと。そこへひょうと矢が放たれ、
ドスッ…
「うっっっ」
ドサッ…
「あっ…種継さま!種継さま!」
造営使藤原種継は何者かに矢を放たれて殺害されます。
種継が暗殺された時、桓武天皇は皇女・朝原(あさはら)内親王が伊勢の斎宮として下るのを見送るため、平城京へ行幸している所でした。
種継を厚く信頼していた桓武天皇は、怒りにふるえます。
「おのれどこの誰が。
犯人を見つけ出し、種継の墓の前で首をはねるのじゃ」
そこで藤原氏と権力争いを続けていた大伴氏に目がつけられ、
大伴継人(おおとものつぐひと)をはじめ数十人が捕縛されます。
継人は訴えました。
「犯行はすでに亡くなった大伴家持の指示です。
家持が、桓武天皇の弟早良親王の指示を受けてやったことです」
「なに家持が。許さぬ!」
桓武天皇はすぐに家持の墓をあばかせ、その官位を停止します。『万葉集』の編者として知られる大伴家持ですが、政治的には不遇で死後までもこのような辱めにあいました。
ようやく家持の罪が許され従三位の位が返されたのは21年後の大同3年(806年)のことです。
一方、黒幕とされた桓武天皇の弟早良親王は淡路島に流されることとなりました。
「そんな、私は無実だ…」
早良親王は乙訓寺に幽閉されると一切の飲食を拒み、無実を訴え続けました。そして淡路へ護送される途中、無念のうちに亡くなったと伝えられます。
早良親王の屍はそのまま淡路に送られて埋葬されました。
主犯は早良親王を担いだ連中だったと思われます。桓武の嫡子安殿親王が成長するに従って、早良親王の皇太子としての地位は危なくなりました。
かつての大海人皇子・大友皇子の対立という壬辰の乱の時の記憶もあります。早良親王をかつぐ者たちは危機感を感じたのではないでしょうか。
ただし早良親王自身が陰謀に加担したとは考えにくく、あくまで「担ぎ上げられた」という形と思われます。
もう一つ不自然なところがあります。真の黒幕が誰かはともかく、藤原種継暗殺後、何の動きもしていないことです。本来、クーデーターを起こすなら種継事件を火種に次々と騒ぎを大きくしなければいけない所ですが、そういう工作の跡は見られません。
種継暗殺事件の真相は、現在でも謎に包まれたままです。
紀古佐美の失敗
桓武即位以前から、陸奥では蝦夷との戦いが続いていました。特に780年(宝亀11)に多賀城を蝦夷に焼き払われたことは、朝廷権威の失墜といえました。
即位早々、桓武天皇は蝦夷征伐に力を入れます。788年(延暦7)、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使に任じ、蝦夷征伐に向かわせます。しかし紀古佐美は肝沢の首長アテルイに大敗北を喫しました。
桓武政権最初の蝦夷征伐は大失敗に終わったのです。しかし桓武天皇は紀古佐美の過去の功績を鑑み、処罰はしませんでした。
相次ぐ不幸
弟の早良親王が無実の罪で捕まり、亡くなってからというもの、桓武天皇のまわりでは不幸が相次ぎました。。
まず延暦7年(788年)桓武天皇の夫人旅子が没し、翌延暦8年桓武天皇の生母・高野新笠(たかののにいがさ)が没します。
さらに翌790年には安殿親王(あてしんのう。後の平城天皇)と神野親王(かみのしんのう。後の嵯峨天皇)の母である皇后乙牟漏(おとむろ)が没します。
加えて790年には長岡および畿内で天然痘が流行し、多くの人の命を奪いました。翌791年には伊勢神宮に泥棒が入り建物に放火しました。桓武天皇はすぐに勅旨を伊勢に派遣し、奉幣をささげ、できるだけ早い伊勢神宮の再建を約束します。
ついで皇太子に立ったばかりの安殿親王、後の平城天皇が心の病にかかってしまいます。
「ああ…叔父上、叔父上、許してくだされ。ああっ、あそこに叔父上の影が。じいっとこちらを見ている…はあっ、恐ろしい恐ろしい」
「なんということだ。たのみの安殿までおかしくなってしまうとは。
やはり怨霊のしわざなのか。弟よ。いまだに私のことを
恨んでいるのか…」
陰陽師に占わせたところ、「間違いなく、早良親王の怨霊がたたっています」「やはりそうか…」
ここに至り桓武天皇は確信しました。早良親王の怨霊が、すべての不幸の元凶だと。
「弟よ。どうか怒りを鎮めてくれ」
桓武天皇は、淡路に勅旨を遣わし早良親王の霊を祭りました。そして早良親王に「崇道天皇」の号を送りました。が、怨霊への恐れが消えることはありませんでした。
「どうしたらよいのだ。早良親王の怨霊は、どうすれば許してくれるのだ」
和気清麻呂の提案
問題は早良親王の怨霊だけではありませんでした。
長岡京には水害が多く、ネズミの害も多発していました。長岡京の造営は、思ったように進みませんでした。そこで和気清麻呂が桓武天皇に進言します。
「いっそ遷都をされてはいかがですか?」
「遷都を!だがどこに」
「葛野(かどの)の地はいかがでしょう?葛野は交通の便もよく、肥沃な地です」
「よし。さっそく狩猟にかこつけて、視察しよう」
葛野の地に新しい都を建設するにあたり、各国から31万4千人の労働者を徴発します。
「また遷都かよ!」
「遷都はこないだやったばかりじゃないか。
いったい、どうなっているんだ!」
駆り出される民衆にとっては、たまったものではありませんでした。しかも長岡京に遷都してからまだ7年。長岡京の都づくりも完成していないのに、です。
長岡の新都、十載を経て未だ功成らず。費(ついえ)、勝(あ)げて計(かぞ)う可(べ)からず。清麻呂潜(ひそか)に奏して、上(しょう)をして遊猟に託して、葛野(かどの)の地を相せしめ、更に上都(じょうと)に遷す。
『日本後記』延暦十八年二月二十一日条
長岡京は十年経ってもいまだにうまくいかない。出費がかさむばかりである。清麿ひそかに奏上して、天皇は狩猟に託して葛野の地を視察し、その結果遷都した。
平安京の築かれた葛野の地は長岡以上に渡来系秦氏の勢力の強い場所でした。そこで秦氏の経済力をあてにしたことも遷都の大きな理由だったようです。
平安京以前からあった太秦広隆寺や嵐山の葛野大堰(かどのおおい)跡は渡来系秦氏の名残をしめします。
大内裏が置かれた場所は、かつて秦野河勝の屋敷だったという説もあります。
また平安京は天智天皇の遷都した大津京や、天智天皇の陵のある山科に近く、天智系天皇の都であることが強く意識されていた。
もろちん早良親王の怨霊問題も、遷都の一つの理由と考えられます。
次の章「桓武天皇(三)平安京遷都」
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第一部「飛鳥時代篇」は、
蘇我馬子や聖徳太子の時代から乙巳の変・
大化の改新を経て、壬申の乱まで。
第二部「奈良時代篇」は、長屋王の変・
聖武天皇の大仏建立・鑑真和上の来日・
藤原仲麻呂の乱・
桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。
教科書で昔ならった、あの出来事。あの人物。
ばらばらだった知識が、すっと一本の線でつながります。
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