蒙古襲来(一)蒙古の使者

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本日から三日間にわたって「蒙古襲来」をお届けします。
いわゆる「元寇」です。

ただし「元寇」という名称は江戸時代に
あらわれたもので、鎌倉時代の文献には見えません。

現在、ほとんどの教科書では「元寇」ではなく
「蒙古襲来」と表記されています。

蒙古襲来というこの事件は、不明な点が多く、
さまざまな説が入り乱れています。

あなたが学生時代に習ったこととも、
だいぶ話が変わっているかもしれません。

本日から、最新の説を採り入れつつ、
蒙古襲来について3日間にわたって語っていきます。

モンゴルの状況

外モンゴルに台頭したモンゴル族の部族長テムジンは周辺の部族を制圧し、1206年、チンギス・ハンと名乗り即位しました。

チンギス・ハンは強大な武力により全モンゴルを統一。黄河の北側(河北)、山東地方。さらに西夏を滅ぼし金を攻め、西方のホラズムまで制圧。息子や孫の代には中央アジア・西アジアから南ロシアまにまたがるモンゴル帝国を築き上げました。

チンギス・ハンの跡を継いだ第三子オゴタイ・ハンは1234年、南宋と同盟して、女真族の国・金を撃破。ついで第四代モンケ・ハンは弟のフビライ・ハンと協力し、宿敵・南宋を滅ぼそうとしますが、その攻略の途中、モンケ・ハンは病に倒れます。

「ここはいったん退くのだ」

フビライは南宋攻撃を中断し、拠点である開平府(上都)に戻ります。そして自らクリルタイ(部族会議)を開き、大ハーンとして即位します。

「遊牧民を一つにまとめ、
海のかなたまでの大国家を建設するのだ!
どうか皆、力を貸してほしい!」

「おおお!大ハーン、フビライよ」
「大ハーン、フビライ万歳!」

第五代世租(せいそ)フビライ・ハンです。

「なにい、兄が大ハーンだと?認められぬ!!」

弟のアリクブケは、兄フビライの即位を認められぬと独自にクリルタイを開き、即位しました。しかしフビライはこれを軍事力で圧倒。「わかりました兄上が大ハーンです」「わかればよい」こうして、認めさせてしまいました。

1264年フビライは都を大都(北京)に移し、長年の宿題であった南宋の攻略に乗り出します。

「南宋攻略で気がかりなのは、高麗、そして日本である」

モンゴルは長年に渡り高麗への侵略を繰り返し、高麗の国土をさんざんに蹂躙しまくっていました。しかしフビライは即位後、早々に高麗と和睦します。南宋を孤立させるための策でした。そして日本にも友好の使者を送りました。

これも南宋を孤立させる策の一環でした。フビライは、南宋が高麗や日本と手を結ぶことを何よりも恐れていました。

最初の蒙古使 届かず

文永4年(1267)年、フビライは国書を持った使者を遣わしました。使者は高麗を経由して、日本へ向かう、はずでした。

しかし使者は対馬に相対する巨済島(きょさいとう)まで行くも出航を前に、

「なんという荒波でしょう!
これでは海を渡るなど、とても不可能……」

そう言って、戻ってきてしまいました。

巨済島
巨済島

高麗としては、モンゴルと日本が戦争になれば、多大な負担をしいられるため、国書が届くことを望まなかったのです。なにしろ長年にわたるモンゴル軍の侵略と、その後の占領軍の圧政により高麗の国土は疲弊し切っていました。この上日本遠征に手を貸せと言われたら、たまったものではありませんでした。

二度目の蒙古使

「しらじらしいウソをつきおって!下劣な!!」

激怒したフビライは、ふたたび高麗経由で日本への使者を送ります。
文永5年(1268年)正月、二回目の使者が対馬を経て大宰府に到着。国書は約40日後、鎌倉に到着します。

「ううむ…これはいったい、どうしたものか」

時の執権北条政村は、迷ってしまいました。

国書の内容は、ようするに「仲良くやりましょう」ということでした。この時の国書の写しは、東大寺に残っています。みずからを「蒙古国皇帝」とし日本国王を「小国の君」とする高慢さはありますが、ハツキリ侵略の意図が読み取れるような内容ではありません。

フビライは南宋を孤立させる作戦のうちに日本、高麗を組みこもうと考えていたのであり、当初、侵略の意図は無かったと思われます。

末尾にはこう結んでありました。

「兵を用いることは、誰が望むであろうか」

執権北条政村は、

「まあ、とにかく…鎌倉では何とも判断しずらいから、
朝廷の判断を仰ごう」

国書を京都に送ります。京都では、後嵯峨上皇のもと、院の評定が行われます。

「『兵を用いることは、誰が望むであろうか』…
これは威嚇ではないですか!なんたる破廉恥!
こんなもの、相手にすることは、ありません」

こう主張したのは関白近衛基平です。

「しかし…それでは蒙古が攻め込んでくるのではないか」
「ならば迎え撃つまでです!」

ざわざわ…

恐れおののく公卿たち。

ただし、これは日本側の過剰反応だったという見方が現在では主流です。国書を送った段階では、フビライはあくまで南宋の孤立化を目的としており、侵略の意図は無かったと思われます。

しかし日本側ではそんなことは露知らず、

「異国人が攻めてくるぞーー!!
異国人が攻めてくるぞーー!!」

国書を無視した以上、戦は避けられぬと危機感が高まります。朝廷では伊勢神宮はじめ二十二社に奉幣がなされ、異国降伏の祈祷を行わせました。

北条時宗 執権就任

幕府では西国の御家人たちに、蒙古襲来に備えるようにお達しを出します。同年3月5日。高齢の北条政村にかわり、18歳の北条時宗が連署から格上げされて執権となります。

「さあ、これでいつでも蒙古を迎え撃てるぞ」
「私は連署として、誠心誠意補佐いたしまする」
「うむ、頼むぞ政村」

時宗の執権就任に際し、それまで執権だった64歳の北条政村は、連署として時宗の補佐に当たることとなります。

一方、蒙古の使いは大宰府でさんざんまたされた挙句、返書も得られず、わけのわからないまま帰っていきました。

(いったい何なんだこの国は…ぶつぶつ…)

三度目の蒙古使 届かず

翌文永6年(1269年)3月、モンゴルの使者がふたたび対馬に到着します。この時同行していた高麗人がよからぬことを思いつきます。

「島民をさらっちまいましょう。交渉に有利です」

塔二郎・弥三郎という二人の島民を拉致します。使者はそのまま高麗に戻りモンゴルに向かい、フビライに二人の島民を差し出します。

四度目の蒙古使

フビライは二人の島民を手厚くもてなしました。モンゴルの国力を見せつけて、日本に伝えさせようしたのです。モンゴルと戦っても損だぞと。

同年7月、国書を持った使者に同行させ、二人の島民を日本に戻します。一行は対馬を経て大宰府に到着しました。

後嵯峨上皇以下、院の評定が行われます。

「今度こそ返書を送りましょう」
「うむ。何と書く」
「日本は神国だから、威しには屈しないと!」
「な!」

一方、幕府の判断は…

「返書など必要ない。あくまで、無視を貫くのだ!」

幕府にこう言われると、幕府の力で即位した後嵯峨上皇は何も言い返せませんでした。

こうして二通目の国書も無視されました。

九州の守りを固める

「こうなっては蒙古襲来は時間の問題である。
九州に所領を持つ御家人たちは九州に下り、
海岸の守りを固めよ!」

文永8年(1271年)執権北条時宗の命により、九州に所領を持つ御家人たちは九州に下り沿岸の守りにつくこととなりました。

直後の9月15日、モンゴルの使者趙良弼(ちょうりょうひつ)が国書を持って筑前今津に上陸しました。今度の国書はただごとでない感じでした。

「今まで何度も国書を送ったが返答が無い。
来る11月までに返答が無い場合、兵船の準備にとりかからねばならない」

すぐさま大宰府から鎌倉を経て京都へ伝えられます。朝廷では今度こそ返書を送りましょうといいましたが、幕府は相変わらず無視の一点張りでした。幕府がそうである以上、朝廷ではどうにもなりませんでした。

もはや外交権は朝廷ではなく幕府が握っていました。

異国警護番役

また同じ頃、幕府は異国警護番役という制度を始めました。九州の御家人の大番役としての働きを免除するかわりに、北九州沿岸の警護にあたるというものです。大番役とは京都や鎌倉に出て一定期警護するものです。そのかわりに沿岸警備に当たれというわけです。

危機感に欠けた、のんびりした制度ですね。幕府にも、御家人たちにも外敵に対する危機感が欠けていたことがわかります。実際に蒙古が襲来した時でさえ出勤するのをしぶる者もありました。

日蓮

「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…!!」

この頃、日蓮が鎌倉の松葉ケ谷(まつばがやつ)に庵を結び、幕府に近い小町大路で辻説法をしていました。その主張は、過激でした。

「念仏、禅、真言、律…これら邪宗を信じていると、無間地獄に落ちる。今こそすべてを捨てて、法華経を信じよ、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…」

幕府の公式の宗教は禅宗でした。北条時頼は南宋から蘭渓道隆を招き、建長寺を建立しました。

浄土宗も大人気でした。北条一門の中に念仏の信奉者は多かったのです。北条実時が武蔵国金沢に建てた称名寺は、現在も金沢文庫と並び、有名です。

また鎌倉には鶴岡八幡宮寺や勝長寿院・永福寺など天台宗や真言宗の寺も多くありました。律宗も巻き返しを狙っていました。

日蓮はこれらさまざまな宗派をことごとく攻撃しました。当然、さかんな反発を食らいます。お前がおかしいんだ!ゴチンと石を投げつけられました。

しかし。「迫害は経典に予言されていること」日蓮は主張をやめませんでした。そのうちに信者も増えていきました。

この頃鎌倉では地震・火事・流行病・暴風雨などが続き、人々は不安にさいなまれていました。

日蓮は、こうしたことは人々が法華経以外の邪宗を信じているからである。今すぐ考え直さねば、外国の侵略を受け、内乱が起こるであろうと予言し、これを『立正安国論』にあらわし、時の執権北条時頼(時宗の父)に献上しました。

「なにい!蒙古の書状が届いた!」

そして今こそ、日蓮の予言が本当のこととなったのです。日蓮は前執権北条時宗と寺寺に書状を送り、公の場で法論を戦わせるよう、強く求めます。法華経がいかに正しいか。法華経以外を信じるために、国難を招いたのだ。それを教えてやるというわけです。

ちなみに、日蓮が蒙古を追い払うために祈祷をささげた、そのために「神風」が吹いたというイメージがありますが、事実はまったく異なります。日蓮は幕府や民衆が禅や念仏という邪教を信じているから天罰として蒙古の来襲を招いたのだ、と考えていました。

そして、邪教を信じるこの国は、蒙古よって一度徹底的に破壊されるべきだ。その上で、自分が法華経の教えを広めるのだと考えていました。

だから日蓮にとって、蒙古の襲来はむしろ歓迎すべき事態でした。

次回「文永の役」に続きます。

解説:左大臣光永

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