蒙古襲来(二) 文永の役

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二月騒動

蒙古襲来という未曾有の国難を前に、国内では北条氏同士の争いが起ころうとしていました。

北条時輔は執権北条時宗の腹違いの兄で、六波羅探題南方を勤めていました。時輔は、弟である時宗に深い憎しみを抱いていました。

北条時宗と北条時輔
北条時宗と北条時輔

「おのれ時宗…本来であれば私が執権になっていたものを…」

時輔は正妻の子でないので父時頼に憎まれ、京都に追いやられたのでした。一方、正妻腹である時宗は幼い頃から父に可愛がられ、執権になるべく帝王学をしこまれてきました。時輔の中では長年にわたる恨みが蓄積されていました。

そんな折、長年にわたって院政を行ってきた後嵯峨上皇が病の床につかれます。後嵯峨上皇は幕府のおかげで天皇になれたので、幕府には頭が上がりませんでした。なので、たびたび蒙古からの書状に返書を送ろうとしながら、幕府から「その必要無し」と言われると、「そ、そうか」と、言いなりでした。

もし今、後嵯峨上皇が崩御すれば…反幕府的な亀山天皇が親政を行うことになる…

「やるなら、今だ!!」

北条時輔は鎌倉への謀反を企てます。しかし、執権北条時宗は、これを見抜いていました。

「六波羅探題南方・北条時輔に謀反の疑いあり!!」

「うむ」

文永9年(1272年)2月15日。

鎌倉からの使者が京都に届き、北条時輔邸を襲撃せよとの指令を、六波羅探題北方・北条義宗(よしむね)に伝えます。

「謀反人、北条時輔を滅すべし!!」

ひゅん、ひゅんひゅん…

ぼ、ぼわ

燃え上がる、北条時輔の館。

「おのれ時宗、先に手を打ちおったかーーーーッ」

キン、カカン、キン

ずば

「ぐっはあああ。父上…」

炎の中で北条時輔は斬り殺されました。

これを二月騒動といいます。もちろん執権北条時宗が、潜在的な敵を排除したものです。以後、北条得宗家の権力はいよいよ不動のものとなります。

高麗の苦悩

「何度も国書を無視しおって。もうヨウシャはせぬ。
日本を叩き潰せ!!」

文永11年(1274年)正月。フビライは日本攻略のため、高麗に造船を命じます。

「そら来た。やっぱりロクでもないことになった」
「いつも俺たちは、トトホな目にあうんだ」

嘆く・高麗の民。

3万五千名が徴収され、その食料も、船の造営費も高麗の自腹でした。中国式の船を造営していては遠征に間に合わないので、簡略な高麗式の船を造らされることになりました。

そしていざ出発という矢先、高麗国王元宗が亡くなります。そのため、予定の7月から大幅に遅れ、10月の出発となりました。

対馬

「お、なんだありゃあ」
「え、おあっ、あれは」

「蒙古だーーーっ!蒙古が来たぞーーーッ!!」

文永11年(1274)10月5日午後。

対馬の西の海に、無数の蒙古の船があらわれました。

文永11年(1274年)文永の役
文永11年(1274年)文永の役

「すわ、敵襲!!」

対馬の地頭宗助国(そうのすけくに)は80騎余りを率いて海岸に駆けつけると、蒙古側は7,8艘の船から1000人ばかりが海岸に降り立ちます。

ひゅんひゅんひゅん…

矢戦となりますが、多勢に無勢でどうにもならず、ぐはっ、ぎゃあ。日本側はバタバタと倒されていきます。

ひゅん、ひゅんひゅん
ぼわわーーーー

蒙古は、対馬の村に火を放ちます。辛くも生き残った者が博多に事の顛末を伝えました。

壱岐

9日後の10月14日午後。

蒙古は壱岐を襲います。

二艘の船から四百人ばかりが上陸。

「ひ、ひるむな!!」

守護代平景隆(たいらのかげたか)は百騎余りを率いて城に立てこもりますが、

びょーーーーう、

ズバッ

「ぐはああーっ」

元軍の矢は射程が長く、はるかの距離から味方が射ぬかれます。たちまち攻め込まれ、ついに一同城の内で自害に追い込まれます。

捕えられた百姓は男は殺され、または生け捕りにされ、女は手に穴を空けて綱を通して船につないで、生け捕りにされた…日蓮の書状にはそう記されています。

もっともこの時日蓮は甲斐の身延山にいるはずで、対馬や壱岐のことを直接見ているはずは無いんですが…。

博多湾

壱岐を襲った蒙古はその後、平戸・高島を襲いながら同19日午前8時頃、博多湾に姿を現します。

博多湾
博多湾

「来たかッ…!!」

陸地には、すでに報告を受けた日本軍がかなりの数、集結していました。しかしこの日蒙古は上陸せず、翌朝。

東の箱崎からはモンゴル軍主力部隊が、中央の百道原(ももぢばる)からは高麗軍が、西の今津からはモンゴル軍別動隊が、それぞれ上陸してきます。

ここは博多湾に面した多々良浜。

砂浜をはさんで向かい合う蒙古と日本軍。

「いざ」

総大将少弐景資(しょうにかげすけ)が、鏑矢を引きしぼり、

ひょーーーーーっ

と空に放つと、

どおっ

蒙古は大笑いしました。日本では合戦の前に鏑矢を射合う風習がありましたが、蒙古にそんな作法は通用しませんでした。

「我こそは、肥後国の住人、竹崎季長(たけざきすえなが)ー!
いざ尋常にーーー」

名乗ろうとするとワッと襲い掛かる蒙古にわっ、わああっーと取り囲まれ、あちらでも、こちらでも、さんざんに斬り殺されます。

「これはっ!戦い方が違いすぎる!」

ドコドコドコドコドコドコ…
バアアン!!

蒙古は太鼓を鳴らし撥を打つので、その音に驚いた馬が

ヒヒヒィーーーーン

どたああっ

ひっくり返ります。

ひゅん、ひゅんひゅん、ひゅん

どすっ。どすっ。

ぐはーーっ

弓矢もまるで違いました。蒙古の弓矢は遠くからすごい速度で飛んできて、しかも先端に毒が塗ってあるので、転げまわるほどの激痛を与えました。

さらに。

ドガーーーーン

ひひぃぃぃぃーーーん

ぎゃああ、
ひいい、

ぱらぱらぱら…

「鉄炮(てつほう)」です。

鉄の玉に火薬をつめたものを投石器のような装置で空中に打ちだし、爆発させるものです。日本にはまったくの未知の兵器で、人も、馬も、仰天しました。

「こ、こんなものと戦えるか!!」
「退け、退けーーっ」

日本軍はなすすべもなく後退に後退を重ね、水城まで引き退きました。水城はかつて天智天皇が異国の襲撃に備え、大宰府の守りとして建造した人口の濠と土塁です。

ごっ、ごおーーーーー

蒙古は博多の家々に火を放ちます。戦の神たる筥崎八幡宮も燃やされました。

翌朝

ところが翌朝、海岸に出てみると、

「あ、あれえーーーっ??」

蒙古の船はほとんど、いなくなっていました。

「どういうことだこれは!?」

ほんとに、どういうことなのか?

現在でも諸説あって、よくわかりません。

副元帥の劉復亨(りゅうふくこう)が負傷したためとか、船が急ごしらえの脆いものだった所へ嵐が吹き付けたとか、単なる威力偵察だったとか、さまざまに言われています。

とにかく、いったんは日本は助かりました。しかし、フビライはあきらめてはいませんでした。

次回「弘安の役」に続きます。

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解説:左大臣光永

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