舒明天皇

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628年推古天皇が75歳で崩御します。この時すでに聖徳太子も蘇我馬子も世を去っていました。蘇我の家督は馬子の息子蝦夷がついでいました。

推古天皇は亡くなる前に田村皇子と山背大兄王を召し出し、遺言しました。田村皇子は30代敏達天皇の孫です。一方、山背大兄王は聖徳太子の息子です。

田村皇子(舒明天皇)と山背大兄王
田村皇子(舒明天皇)と山背大兄王

まず推古天皇は田村皇子に、「帝位につくというのは大変なことです。軽々しく考えず慎重に考えよ」と。

次に山背大兄王には「一人であれこれ言ってはならない。必ず群臣の意見に従って背かないことです」と。それぞれに遺言しました。普通に考えると田村皇子を後継者に指定しているようですが、そうハッキリ言っているわけでもありません。この曖昧さが、推古天皇崩御後にややこしい問題を引き置きします。

推古天皇が崩御すると、蘇我蝦夷は群臣たちに意見を求めます。

「さて田村皇子と山背大兄王。どちらにご即位していただくべきか」「それは大君のご遺言ですから、田村皇子でしょう」「いや、待たれよ。私は山背大兄王を推します」異議を唱えたのは境部摩理勢でした。

蘇我蝦夷は「うむむ」困ってしまいました。その上、当の山背大兄王自身が、「大君は私をこそ後継者にと指示していたのです」と言い始めます。「それ見たことですか。次期大君には山背大兄王こそ」境部摩理勢もワアワア騒ぎ始めます。それで、蘇我蝦夷と衝突があり、蘇我の墓所を遺恨により壊したりしました。

そういう衝突が重なり、ついに蘇我蝦夷は境部摩理勢のもとに軍勢を差し向け、館を取り囲み、攻め滅ぼしてしまいました。

こうして田村皇子が即位して第34代舒明天皇となります。即位の翌年、宝皇女、後の皇極天皇を后とします。舒明天皇と宝皇女との間には皇子二人、皇女一人が生まれます。上から、葛城皇子(中大兄皇子)、間人皇女(はしひとのひめみこ)、大海人皇子(おおあまのみこ)です。

舒明天皇の皇子たち
舒明天皇の皇子たち

舒明天皇の時代で大きな出来事は、初の遣唐使を送ったことです。630年(舒明2)中国では隋に替わって唐が起こっていました。そこで、かつて遣隋使の経験のある犬上君御田鍬(いぬがみのみたすき)と渡来人の薬師恵日(くすしのえみし)を初の遣唐使として送りました。

他には飢饉や火事で皇居が遷ったこと、また朝鮮の情勢などで『日本書紀』に大きな記事はありません。舒明天皇でもっとも有名なのは『万葉集』にある望国の歌でしょう。

天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

語句

■とりよろふ とりわけよい。またはすべてのものがよりそっている。宮の近くにある。■天の香具山 大和三山の一つ。持統天皇の歌や『古事記』天の岩戸の話でも有名。 ■望国 為政者が山の上など高い所に立ち、四方を見渡す宗教的・政治的行事。 ■煙 仁徳天皇が高台に登ると民の家々から煙が上がらないので、民は貧しいのだと見て三年間租税を免除した故事を思わせる。 ■立ち立つ あちこちに立つ。 ■かまめ かもめの古い言い方か。 ■うまし 素晴らしい、見事だ。 ■あきづ島 大和の枕詞。「あきづ」は蜻蛉。『日本書紀』では神武天皇が大和の丘に登って国見をした際に、蜻蛉が交尾しているようだと発言したとされる。『古事記』では雄略天皇の腕をアブが噛んだが、トンボがアブを捕えて飛び去ったので雄略天皇がトンボをほめたたえたとある。

現代語訳

大和にはたくさんの山があるが、とりわけ素晴らしい天の香具山に登り立って国見をすれば、陸地からは家々の竈の煙があちこちで立ちのぼり、海原ではカモメがあちこちで飛び交っている。素晴らしい国だよ大和の国は。

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解説:左大臣光永

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