承久の乱

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承久三年(1221年) 5月15日、後鳥羽上皇は京都南方城南宮に
武士たちを集め院宣を下します。

「執権北条義時を討て」

「なっ…!」

集まった武士たちはあまりの事に驚きますが、
西国では鎌倉幕府の横暴に日ごろから不満が高まっており、

「そうだ!北条義時を討て!」
「鎌倉幕府を倒せ!」

ワアーーッと、盛り上がりました。

すぐさま上皇方は京都守護長を殺害。
親鎌倉派の公卿・西園寺公経(さいおんじきんつね)を拘束。

鎌倉と戦う構えを取ります。

しかし殺された京都守護長も、拘束された西園寺公経も、
事前に鎌倉に使者を飛ばしていました。

「上皇御謀反」

その知らせは数日後に鎌倉に届きます。
「承久の乱」の始まりです。

荘園問題

話は実朝暗殺から35年ほどさかのぼります。

1185年、源頼朝は全国に守護・地頭を設置しました。名目は逃亡した源義経をとらえることを目的としていましたが、真の目的は鎌倉の支配力を全国に及ぼすことにありました。

それまで院や朝廷・大寺社が所有していた荘園にも、地頭は乗りこんできます。地頭の中には独自に年貢を徴収したり、土地をうばったり、勝手に人民を使役する者もありました。

院の所有している荘園であっても、鎌倉から派遣された地頭によって税をかすめ取られ、民衆はまいってしまいます。院と鎌倉から、二重に支配されるわけです。踏んだり蹴ったりです。

「もう無理です。差し出すものは、ありません」

こうして院の領民であっても、院に年貢を納めない。納めたくても納められないという問題が生じます。院や朝廷にとっては大損害です。

また、それまでは武士や有力農民が土地を院や朝廷・大寺社に寄進していました。土地の権利を守っていただくことを条件に、年貢を差し出しますよ、という形です。これも院や朝廷・大寺社にとって大きな収入源でした。

しかし、鎌倉に幕府ができました。より有力な土地の守り手があらわれたわけです。何しろ鎌倉幕府は戦のプロ集団です。いざとなったら、こっちのほうが守ってくれそうです。

武士や有力農民は、こぞって鎌倉に土地を寄進するようになります。

こうして幕府への土地の寄進は増え、院や朝廷への土地の寄進は減りました。院や朝廷にとっては大損害です。

後鳥羽上皇は、日に日に幕府への反感をつのらせていきます。

多芸多才 後鳥羽上皇

後鳥羽上皇は多芸多才な人物でした。歌も詠めば楽器もかなで、双六にも強く、蹴鞠の名人でもありました。

『新古今和歌集』をみずから中心となって編纂したことも有名です。武芸にも熱心で、狩りや流鏑馬に励まれます。また白河上皇の時に設置された北面の武士に加えて西面の武士を創設し院の軍事力の強化に努めました。

このように能力が高く、精力的で、しかも「治天の君」として絶対権力者の立場にある後鳥羽上皇。日に日に、幕府に対する怒りをたぎらせていきます。日本で一番偉いのは私だ。なのに鎌倉ごときが、めざわりだと。

奥山の おどろが下も 踏み分けて
道ある世とぞ 人に知らせん

後鳥羽上皇のこの歌には、今の乱れた世にも、天皇を中心とした道理ある社会を示すのだという、後鳥羽上皇の強い意志が読み取れます。

そんな中、決定的な出来事が起こります。

交渉決裂

1219年(建保7年)正月、将軍源実朝が右大臣拝賀の夜、鶴岡八幡宮にて甥の公暁に暗殺されます。
「どうしたものか。これでは将軍家の血筋が途絶えてしまう」
「いっそ朝廷から、新しい将軍をお迎えしましょう」

北条政子と執権の北条義時が御家人たちと話し合います。結果、後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(まさなりしんのう)を将軍として鎌倉へ迎えようということになりました。すぐさま京都へ使者を立てます。

後鳥羽上皇はそれを受けて、

「実朝の死は心苦しい限りじゃ。鎌倉には弔問の使者を送ろう。
しかしわが皇子を将軍としていただきたいとは…
今まで院をさんざんないがしろにしておいて、虫がよすぎではないか?」

そこで後鳥羽上皇は、鎌倉へ使者を立て、
皇子の鎌倉下向については一切触れずに、
摂津国の長江(ながえ)・倉橋(くらはし)の
二つの荘園の地頭を変更するよう要求をつきつけてきます。

摂津の守護は北条義時。そしてこの二つの荘園は後鳥羽上皇の
寵愛する白拍子・亀菊の所領地だったのです。

「上皇様は交換条件をつきつけてきたのだ。
親王を下してほしくば、地頭職を取り下げろと」

「うむむ」

幕府首脳部は話し合いの結果、後鳥羽上皇の条件は飲めない、という結果となり、
すぐに北条時房を使者として京都に送り、その由を伝えます。

「そうか。ならば親王下向もできぬな」

こうして親王下向の交渉は決裂しました。幕府主脳部は困ってしまいます。

「上皇さまはよほど鎌倉をお嫌いのようじゃ。
義時、どうしたものか」
「仕方がございません。摂関家から将軍をお迎えしましょう」

こうして、摂関家の九条道家の三男、三寅が京都から鎌倉へ迎えられることとなります。後の四代将軍九条頼経です。九条家は保元の乱で勝利した藤原忠通の息子、兼実(九条兼実)が起こした家です。兼実→良経→道家→三寅と続きます。一方、藤原忠通の嫡男基実は近衛家を起こしています。

九条道家の妻は頼朝の姪の子であり、わずかながら頼朝の血を引いていることも、三寅が次期将軍として選ばれた理由でした。

九条頼経
九条頼経

この時、三寅わずか二歳。藤原氏から迎えた将軍ということで、藤原将軍といわれます。そして執権北条義時と姉の政子が幼い三寅を補佐して政治を執り行うこととなります。
しかし、将軍後継者問題の結果は、幕府にも院にもいまひとつ納得できない内容で、双方に不満が残りました。

義時追討の院宣

1221年5月14日。後鳥羽上皇は流鏑馬をするのだということで、京都南方の城南宮(じょうなんぐう)に諸国の武士1700名あまりを招集します。がやがやと集まった武士たちに、御簾の奥から後鳥羽上皇は、院宣を下されます。

「朝敵北条義時を討つべし!」
「な!!」

ざわざわ…

集まった武士たちは、何も聞かされていなかったので一瞬戸惑います。しかしすぐに

「北条義時を討つべし!」「北条義時を討つべし!」
「もう鎌倉の好きにはさせないぞ!」

ワーーッ

大半が賛同しました。

後鳥羽上皇は有能な人物だけあって、自分の能力、そして院の権限には絶対的な自信がありました。ひとたび院宣を下せば諸国の武士がこぞって集まると確信していました。

「すすんで朝敵になりたい者などいません。
鎌倉につく者など、1000人にも満たないでしょう」
「そうであろう。そうであろう」

ほくそ笑む後鳥羽上皇。しかし、その読みがまったく方向違いであったことを、すぐに思い知らされることになります。

京都の親幕府派

後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を下すと同時に、親鎌倉派の公卿・西園寺公経の舘に武士団を差し向けます。

「上皇さまの御命令です。しばらく自宅でおとなしくしていていただきます」
「なに?では上皇さまはついに鎌倉と事をまじえようと…。無謀な…」

西園寺公経は京都にありながら鎌倉幕府と親しく、将軍実朝が暗殺された際には摂関家の三寅を鎌倉へ下らせる運動の中心となった人物でした。百人一首に歌を採られる歌人でもありました。

京都守護伊賀光季(いがみつすえ)の館には武士800騎が押し寄せます。京都守護は鎌倉から京都へ送られた言わば監視機関でした。たちまち舘は火の海に包まれます。突如襲われた伊賀光季は抵抗する間もなく、息子とともに自害しました。

しかし、幽閉された西園寺公経も、殺された伊賀光季も、ひそかに鎌倉に使者を放っていました。

鎌倉に届いた知らせ

西園寺公経と京都守護伊賀光季の使者は、5月19日、鎌倉に届きます。

「なんですって。上皇さまが挙兵!!」
「すでに京都守護伊賀光季さまは、上皇方によって殺害されました」
「なんということ…」

北条政子、執権の北条義時以下、驚きを隠せませんでした。

少し遅れて、上皇方の挙兵をよびかける使者が鎌倉に到着し、警戒していた鎌倉方によって捕えられます。これで上皇挙兵は事実だと、はっきりわかりました。同じ頃、幕府御家人三浦義村のもとに、上皇方についている弟の胤義から文がとどきます。こう書かれていました。

「勅命に応じて執権北条義時を誅殺せよ。
そうすれば、恩賞は思いのままぞ」

「ふん!けがわらしい」

三浦義村は使者を追い返し、その書状を執権北条義時のもとに届けます。

「私は、弟の反逆には加担しません。
鎌倉方として、並びない忠節を尽くします」

「うむ、義村。よく言ってくれた」

北条政子の演説

北条政子は、御所の庭に御家人たちを集めました。
御家人たちの間には動揺が広がっていました。

「おい、上皇さまと戦だとよ」
「ええっ。じゃあ俺たちは朝敵じゃねえか」
「どうなっちまうんだ」「逃げたほうがいいかなあ」

そこへ、北条政子が縁側に歩み出て、言います。

「皆、心を一つにして聞きなさい。これが私の最後の言葉です。

亡き頼朝公が朝敵を滅ぼし、関東に政権を築いてから、
お前たちの官位は上がり禄高もずいぶん増えました。

お前たちはかつて平家のもとでどう扱われていましたか?
犬のように召し使われていたではないですか!
しかし今は京都へ行って無理に働かされることもなく、
よい暮らしができるようになりました。

すべてこれ、亡き頼朝公の御恩。その御恩は、
海よりも深く山よりも高いのです。

今、逆臣の讒言によって、理に反した綸旨が下されました。

今こそ頼朝公へのご恩を返す時。

名を惜しむ者は、逆臣を討ち取り、三代にわたる将軍家の恩に報いよ。
ただし朝廷側につこうという者があれば、それは構いません。
早く行きなさい」

二品(にほん)、家人等(けにんら)を簾下(れんか)に招き、秋田城介景盛(あきたのじょうすけかげもり)を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉(たてまつ)るべし。是(こ)れ最期の詞(ことば)なり。故右大将軍(こうだいしょうぐん)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩 既に山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝(ほうしゃ)の志浅からんや。而(しか)るに今逆臣の讒(ざん)に依りて、非義の綸旨(りんじ)を下さる。名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)・胤義(たねよし)等を討ち取り、三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。但(ただ)し院中(いんちゅう)に参らんと欲する者は、只今申し切る可(べ)し者(てえ)り。群参(ぐんさん)の士(し)悉(ことごと)く命に応じ、且(か)つは涙に溺(おぼ)れ申す返報 委(つまびら)かならず。只命を軽んじて恩に酬いんことを思ふ

『吾妻鏡』承久三年(1221)五月十八日辛丑

現代語訳

従二位の北条政子は、家人たちを簾の下に招き、安達景盛に示し含めて言うことに、「皆心を一つにしてお聞きなさい。これが私の最後の言葉である。

故右大将軍(源頼朝公)が朝敵(平家)を征伐し、関東(鎌倉幕府)を草創してから、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山よりも高く海よりらも深いのだ。

恩に報いようという志が浅くはありませんか。

しかるに今回、逆臣の讒言によって、道義に反した綸旨(天子の命令)が下された。名を惜しむ者は、早く藤原秀康・三浦胤義(上皇方の首謀者)らを討ち取り、三代将軍の眠る、この鎌倉の地を守りなさい。

ただし院方に参ろうとする者は、ただ今申し出るとよい」

たくさん集まっていた武士たちは、ことごとく命に応じ、かつ涙に溺れ、申し上げる返事もはっきりと言葉にならない。ただ命を軽んじて恩に報いんことを思うのだった。

■二品 従二位の政子のこと。 ■秋田城介景盛 安達景盛。 ■故右大将軍 頼朝。

以下は、『承久記』の書き下し文です。『吾妻鏡』とはだいぶ言葉が違います。

二位殿 仰せられけるは、「殿原(とのばら)、聞きたまへ。尼、加様(かよう)に若(わかき)より物思ふ者候(そーら)はじ。一番には姫御前(ひめごぜん)に後(おく)れまいらせ、二番には大将殿に後れ奉り、其後(そののち)、又打ちつづき左衛門督殿(さえもんのかみどの)に後れ申(もーし)、又程無く右大臣殿に後れ奉る。四度(しど)の思(おもい)は已(すで)に過ぎたり。今度、権太夫(ごんのだいぶ)打たれなば、五(いつ)の思(おもい)に成ぬべし。女人五障(にょにんごしょう)とは、是(これ)を申すべきやらん。殿原(とのばら)は、都に召上げられて、内裏大番(だいりおおばん)をつとめ、降(ふる)にも照(てる)にも大庭に鋪皮布(しきがわしき)、三年(みとせ)が間、住所(すむところ)を思遣(おもいやり)、妻子を恋(こいし)と思ひて有しをば、我子の大臣殿(おとどどの)こそ、一々、次第に申止(もーしとどめ)てましましし。去(さら)ば、殿原は京方に付(つき)、鎌倉を責給ふ(せめたもー)、大将殿、大臣殿(おとどどの)二所の御墓所を馬の蹄(ひづめ)にけさせ玉ふ者ならば、御恩(ごおん)蒙(こーぶり)てまします殿原、弓矢の冥加とはましましなんや。かく申(もーす)尼などが深山(みやま)に遁世して、流さん涙をば、不便(ひぶん)と思食(おぼしめ)すまじきか。殿原。尼は若(わかく)より物をきぶく申(もーす)者にて候(そうろう)ぞ。京方に付て鎌倉を責(せめ)ん共、鎌倉方に付て京方を責んとも、有のままに仰せられよ、殿原」とこそ、宣玉ひけれ。

『承久記』より

現代語訳

従二位の北条政子が仰せられることに、「お前たち、聞きなさい。私は、これほど、若いころから物思いの絶えない者はございません。

一番には姫御前(=長女大姫)に死に遅れ、二番には大将殿(=夫源頼朝)に死に遅れ、その後、また続いて左衛門督殿(=長男・二代将軍頼家)に死に遅れ、またほどなく右大臣殿(=次男・三代将軍実朝)に死に遅れました。

四度もの辛い思いに、私はもういっぱいです。

今度、権大納言(北条義時)が打たれれば、五度の辛い思いをすることになる。「女人五障」ということが『法華経』にあるが、これを言うのであろう。

お前たちは、都に召し上げられて、内裏大番(宮中の警護役)をつとめ、雨が降っても日が照っても、清涼殿の前庭にしき皮をしいて、三年の間、故郷を思いやり、妻子を恋しく思っていたのを、

我が子である大臣殿(三代将軍実朝)が、ひとつひとつ、じょじょに、おつとめが免除されるようにしてくださった。

であれば、お前たちが京方について鎌倉をお攻めになることは、大将殿(頼朝)、大臣殿(実朝)二人の御墓所を馬の蹄に蹴らせなさるものであるので、

御恩を受けていらっしゃるお前たち、武士の道において神仏の加護がありましょうか(あるわけがない)。

かく申す私などが深山に隠棲して、流す涙を、不憫とはお思いにならぬのか。

お前たち、私は若い頃から物の言い方がきつい者でありますぞ。京方について鎌倉を攻めるのも、鎌倉方について京方を攻めるのも、思うままに仰せられよ、お前たち」とおっしゃった。

■姫御前 大姫。頼朝・政子の長女。 ■大将殿 頼朝。 ■左衛門督殿 二代将軍頼家。頼朝・政子の長男。 ■右大臣殿 三代将軍源実朝。頼朝・政子の次男。 ■女人五障 『法華経』堤婆達多品による。女人は梵天王・帝釈・魔王・転輪聖王・仏身になれないこと。■大庭 清涼殿の前庭。 ■きぶく きつい調子で。

慎重論と出撃策

幕府首脳部は、その日のうちに軍議を開き、おおまかな軍団編成を整えました。そして上皇軍を迎え撃つ基本方針が決まりました。

「箱根と足柄山で上皇軍を迎え撃つ」

いわば自分からは攻めない、慎重論でした。しかし、幕府長老・大江広元(おおえのひろもと)が反論します。

「東国武士が心を一つにしなければ、この戦には勝てぬ。
運を天に任せて、京都に攻め込むべきである」

執権北条義時は、姉の政子に意見を求めます。政子は言います。

「京都に攻め上らなければ、けして勝つことはできません。
すぐさま攻め上るべきです」

所詮(しょせん)、足柄、箱根の両方の道路を関固(せきがた)め相待(あいまつ)可(べ)き之由(のよし)と云々(うんぬん)。 大官令(だいかんれい) 覚阿(かくあ) 云(い)はく、群議之趣(ぐんぎのおもむき)、一旦は然る可(べ)し。

但(ただ)し東士(とうし)一揆(いっき)不ん者(せずんば)、関を守るは日を渉(わた)る之條(のじょう)、還(かえっ)て敗北之因と爲(な)す可き歟(か)。

運を天道に任せ、早く軍兵(ぐんぴょう)を京都へ発遣(はっけん)被(せら)る可(べ)き者(てえ)り。

右京兆(うけいちょう)両議(りょうぎ)を以て、二品(にほん)之處(ところ)へ申す。二品云はく、上洛せずんば、更に官軍を敗り難き歟(か)。

『吾妻鏡』承久三年(1221)五月大十八日辛丑

三手に分かれての進撃

こうして出撃策が決定されます。すみやかに兵力を招集。5月22日、全軍を三手に分けて京都めざして出発します。政子が演説をしてから、わずか3日目のことです。すばやい行動でした。

東海道を北条泰時・時房らが、東山道を武田信光らが、北陸道を北条朝時らが、それぞれ進みます。

承久の乱
承久の乱

東海道を進む北条泰時軍は、はじめわずか18騎だったといいます。

それでも、途中の国々で味方をかきあつめ、いつしか幕府軍は19万騎に膨れ上がります。

幕府軍19万騎が大挙して押し寄せてくる!!

その知らせを受けて、後鳥羽上皇はあわてふためきます。

「なぜじゃっ!!
鎌倉につくのは1000騎に満たぬのでは、なかったのか!!」

「落ち着いてください上皇さま。とにかく、敵を迎えうちましょう」

上皇軍は藤原秀康1万7500騎が美濃と尾張の国境を流れる尾張川に布陣し、幕府軍を迎え撃ちます。6月5日夜、東山道を進んできた武田信光らが上皇軍に襲いかかります。

「か、かなわぬ!!」

上皇軍大将藤原秀康は早々に撤退し、宇治・瀬田に最終防衛ラインをしきます。

一方、北陸道を進んだ北条朝時は砺波山に上皇軍を撃破。加賀に入り京都を目指します。

宇治川を渡る

次々と届く負け戦の報告に、朝廷は大騒ぎになっていました。後鳥羽上皇は真っ青になっていました。

「ええい、こうなったら、最後の守り」

「宇治と瀬田に全兵力を集中せよ」

6月13日、宇治川をはさんで上皇軍と幕府軍は向き合いました。しかし折からの豪雨で、

ザアアーーー、ザバザバザバザバ…

宇治川は水かさを増し、ただでさえ激しい宇治川の流れはさらに激しく、幕府軍は足止めを食らっていました。

翌14日、晴れます。

「一気にわたせーーッ」
「おおおーーっ」

ざばざばざばざばーーっ

幕府軍の中に佐々木信綱が一族郎党率いて馬に乗って宇治川に乗りこみます。源平合戦の時代、信綱の叔父佐々木高綱は源義経の配下にあって木曽義仲を攻める際、ここ宇治川で味方の梶原景季と先陣争いをしました。

宇治川。佐々木一族にとっては因縁浅からぬ場所です(川だけに浅からぬ場所です)。その宇治川を、今、高綱の甥である信綱が渡っていく。思えば不思議な歴史のめぐりあわせです。

しかし宇治川は昨夜の雨の名残とて強烈な流れです。

ゴオオーーッ

「ぷはあっ」「大丈夫かーーっ」

すーと下流まで押し流される馬あり、対岸から放たれる矢で射殺される者あり。佐々木信綱は、なんとか中島までたどりつきます。しかし味方の多くが流されていました。対岸からはひょうひょうと矢が飛んできます。

「しかし、引き返すことはできぬ。渡せーーっ」
「おおおおーーっ!」

佐々木信綱はじめ幕府軍は強引に宇治川をわたりきり、対岸に躍り上がり、上皇軍の中にドカドカドカと駆けこんでいきます。

「ひ、ひいいい」
「やられる」

上皇軍は総崩れとなって逃げ散っていきます。宇治川さえ渡ってしまえば、戦のプロである幕府軍にとって、上皇軍は敵ではありませんでした。19万の幕府軍が京都になだれこみます。

後鳥羽上皇、味方を見捨てる

幕府軍に破られた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは院の御所高陽院(かやのいん)に駆け付けますが、門は固く閉じられたままでした。門番が言います。「お引き取りください」

「なぜです!これから最後の一戦をしようと。
われらはその覚悟で、御所に参ったのです」

「とにかく、上皇さまはお会いにならないとおっしゃっています」

何度言っても、中に入ることは許されませんでした。山田重忠は吐き捨てるように言いました。

「臆病者の君主に、騙されたわい!」

後鳥羽上皇の御所高陽院(かやのいん)(洞院大路の西・大炊御門大路の北。現丸太町通堀川東入ルにあるマンションの一角に「高陽院邸跡」の碑)

後鳥羽上皇、保身をはかる

6月15日、後鳥羽上皇は幕府方の北条泰時の陣に使者を送ります。使者は樋口河原で泰時と会います。院宣にはこう書かれていました。

「この合戦は上皇の意志ではじめたことではなく、臣下にそそのかされたのだ。北条義時追討の院宣は、取り消す」

さらに後鳥羽上皇は藤原秀康、三浦胤義らを逮捕する院宣を下します。これまで上皇のために戦った藤原秀康、三浦胤義らを、後鳥羽上皇は切り捨てたのです。幕府方も朝廷方も、驚きあきれ空いた口がふさがらなかったことでしょう。

京都に乱入する幕府軍

後鳥羽上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠らは東寺にたてこもり、徹底抗戦を決め込みます。京都へはすでに次々と東国武者が到着していました。東海道を進んできた北条泰時・時房らは六波羅に入ります。

坂東方の兵(つわもの)ども、深草・伏見・岡屋・久我(こが)・醍醐・日野・勧修寺(かじゅうじ)・吉田・東山・北山・東寺・四塚(よつづか)に駈散(かけち)り駈散り、或(あるい)は一二万騎或は四五千騎、旗の足を翻して乱入す。三公・卿相(けいしょう)・北政所(きたのまんどころ)・女房局(にょうぼうつぼね)・雲客(うんかく)・青女(せいじょ)・官女(かんじょ)・青侍(せいし)・遊女以下に至るまで、声を立ておめきさび立まよふ。天地開闢より王城洛中のかゝる事、いかでか有し。彼(か)の保元のむかし、又平家の都を落(おち)しも、是ほどにはなかりけり。(中略)いつ馬にものり軍(いくさ)したるすべもしらぬ者どもが、或は勅命に駈催(かけもよお)され、或は見物の為に出来(いでく)る輩ども、坂東の兵に追つめられたる有様は、唯(ただ)鷹の前の小鳥のごとし。射殺し切ころし首をとる事若干(そこばく)なり。坂東の兵、首一つづつとらぬものこそなかりけれ

『承久記』より

北条泰時率いる幕府軍は敵の宿所、宿所に火をかけながら進み、上皇軍のたてこもる東寺に押し寄せます。

ワアアー、ワアアー、

ひゅんひゅん、ひゅんひゅん

東寺の境内になだれこむ幕府軍。上皇軍は射殺され、斬り殺され、さんざんに破られます。藤原秀康・山田重忠は敗走し、三浦胤義は自害しました。こうして承久の乱は終結します。

戦後処理

戦後処理は容赦無いものでした。事件の首謀者たる後鳥羽上皇は隠岐島に流され、順徳上皇は佐渡島に流されます。順徳上皇の兄、土御門上皇は戦には積極的でなかったので軽い罪とされ土佐に流されます。その後幕府の配慮で、より都に近い阿波に遷されました。

後鳥羽、順徳、土御門 三上皇
後鳥羽、順徳、土御門 三上皇

さらに気の毒だったのは4歳の仲恭天皇でした。即位してわずか70日ほどで退位させられ、かわって高倉天皇の第二皇子守貞親王の皇子が後堀河天皇として即位します。退位した仲恭上皇は都で17歳まで生き、失意のうちに崩御します。

幕府軍総大将北条泰時・時房らはそのまま京都に留まり、鎌倉から京都の動きを監視する機関として、京都守護にかわって六波羅探題が設置されます。

院の膨大な荘園は没収されます。これまで地頭が置かれていなかった西国の各地にも地頭が置かれ、幕府の権限が強化されます。また上皇方に捕えられていた親幕府派の公卿・西園寺公経が政界に復帰し、以後朝廷は幕府よりの路線になります。

承久の乱の戦後処理により、ただでさえ力を失っていた朝廷は、完全に無力化されました。以後、明治時代まで朝廷に権限が戻ることはありませんでした。

つづき 「三代執権 北条泰時」

開催します

5月21日(土)静岡市マイホテル竜宮にて静岡同志社クラブ主催による、「新選組~池田屋事件 界隈を歩く」を開催します。

私左大臣光永が、池田屋事件当日の模様を、地図をたどりながら、詳しく語ります。静岡近郊の方はぜひ聴きにいらしてください。
http://shizuoka-doshishaclub.canariya.net/

5月27日(金)東京多摩永山公民館にて、「鎌倉と北条氏の興亡」第二回「北条泰時と北条時頼」を開催いたします。
http://www.tccweb.jp/tccweb2_025.htm

また、歴史・古典関係の解説音声をとりそろえて発売中です。無料のサンプル音声もございますので、ぜひ聴きにいらしてください。

現代語訳つき朗読『おくのほそ道』
http://hosomichi.roudokus.com/CD/

中国語朗読つき 李白 詩と生涯
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中国語朗読つき 杜甫 詩と生涯
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聴いて・わかる。日本の歴史 飛鳥・奈良
http://sirdaizine.com/CD/AsukaNara.html

本日も左大臣光永がお話いたしました。

解説:左大臣光永

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