北条政子の死と三代執権北条泰時
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承久3年(1221年)承久の乱は鎌倉幕府の大勝利に終わりました。以後、鎌倉幕府は京都の朝廷を圧倒して、全国的にその影響力を及ぼしていくこととなります。
そして承久の乱の勝利を見届けるかのように、1224年、二代執権・北条義時が息を引き取ります。
北条義時が死ぬと、その妹・北条政子は義時の子であり自分の甥にあたる北条泰時を次の執権に立てるため、鎌倉に呼び戻します。泰時の気性はおだやかで質素倹約でした。そんな泰時を政子は気に入っていました。将来、執権に立てるには、この泰時以外に無いと、政子は考えていました。
しかし、ここに一つの陰謀が進んでいました。
北条義時の後妻である伊賀の方が、息子である北条政村を執権に立て、娘婿である一条実雅を将軍に立てる、クーデターを画策していたのです。
このクーデーターが成功するためには、鎌倉の最大勢力である三浦一族を味方に引き入れることが、ぜひとも必要でした。
三浦一族が伊賀の方・北条政村方につくのか。それとも北条政子・北条泰時方につくのか。それによって鎌倉の運命が決まるという状況です。どちらにしても、戦は避けられない空気となってきました。
そんな中、ある晩北条政子が突如、女房一人だけを伴って、三浦義村の屋敷を訪ねます……
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北条義時 逝去
1224年(元仁元年)六月、北条義時が危篤状態に陥り、
陰陽師らを読んで占わせると「すぐに良くなるでしょう」ということでした。
とはいえ心配なので平癒を願って祈祷を行わせます。
13日。義時はすでに臨終に近づいていました。
北条重時を使者として若君三寅のもとにつかわし、報告します。
「おお、義時が!」
三寅はすぐに北条邸にかけつけます。
「若君、もったいのうございます」
「何か望は無きか」
「ただ出家しとうございます」
「うむ。出家か。許す。今すぐ出家せよ」
丹後律師を師として義時は出家し、
念仏数十回の後に死去しました。
北条義時の墓は静岡県伊豆の国市
南江間の北条寺と鎌倉の法華堂跡にあります。
享年62。承久の乱から3年目のことでした。
死因は脚気によるものと『吾妻鏡』にはありますが、
部下に殺害されたとも、
後妻である伊賀氏に毒殺されたとも伝えられます。
毒殺というのは、承久の乱で京方に加担した
二位法印尊長という僧がいました。
この僧が鎌倉方の手を逃れまくっていましたが、
三年目でついに捕まり、六波羅探題に引っ立てられます。
その時尊長は言いました。
「早く殺せ。北条義時の妻が
北条義時を殺したのと、同じ薬を飲ませて」
「こやつっ…何を言うか」
「ふはは。隠しても真実は隠し切れぬぞ。
北条義時は、その妻に毒殺されたのだからな」
「ええい、だまれーーっ」
そんなことが、あったのでした。
その死因は何だったとしても、
頼朝公の旗揚げに父時政とともに参加し鎌倉幕府草創期を支え、
執権体制を盤石なものにした北条義時の功績は大きなものでした。
北条泰時の鎌倉帰還
同六月末、承久の乱以来、六波羅探題として
京都に駐留していた北条泰時が、鎌倉へ下ってきます。
北条政子が、泰時を次の執権に立てるべく呼び寄せたのでした。
「ああ父上…死に目にお会いすることもできず、
泰時、親不孝の極みです。久しぶりの鎌倉だというのに…」
鎌倉に戻った北条泰時を、
継母である伊賀氏が冷たく迎えます。
「なんじゃ泰時、今ごろ来て。まあ
華やかな京の都に比べて鎌倉はさぞつまらなかろうからのう」
「義母上!なにもそんな言い方なさらずとも」
伊賀氏の陰謀
しかし、伊賀氏の北条泰時に対する反感は本物でした。
北条義時の前の妻との間に生まれた子が北条泰時なのです。
後妻である伊賀氏としては、なんとしても
泰時に執権の位を継がせたくはありませんでした。
「そうじゃ。泰時などを執権にしてなるものか。
次期執権はわが子政村。そして次期将軍は、
娘婿の一条実雅こそふさわしい」
伊賀氏の陰謀
伊賀氏は自分の血をわけた、実の息子である
北条政村に執権をさせたいのです。
そして娘婿の一条実雅を将軍にしたいのです。
そこで伊賀氏は、有力御家人三浦義村を抱き込みます。
「もし政村が執権となり、
一条実雅殿が次の将軍となった曙には、
三浦殿にもそれなりの処遇を考えております」
「へへ。へっ、任せてください。
私、ご協力しますよ」
北条政子 三浦義村に詰め寄る
翌7月。
北条政子は女房駿河局のみを伴い、
突如三浦義村の邸宅を訪れます。
「政子さま、前もっておっしゃってくださればよろしいのに。
ろくな歓迎もできませんで」
などと言う義村に愛想笑いもせず、
政子はずばり切り出します。
「そなた、世を乱すつもりか」
「な!」
「そなたの館に北条政村や伊賀光宗らが出入りして、
よからぬ企みを語らっているという噂じゃ。
北条政村を新しい執権に立て、世を奪おうという腹であろう。
何たることか。理解しがたい。去る承久の乱の折、
鎌倉を勝利に導いたのは、亡き義時の功績である。
そして義時の後継者として、泰時こそがふさわしい。
無駄な企てはやめるよう、そなたから北条政村らに言っておきなさい」
「はっ…そんな、政子さま、
私はそんなこと、まったく存じません」
「とぼけるでない。政村を打ち立てて世を乱すのか、
それとも無益な戦を避けるため
北条政村や伊賀光宗らを説得するのか。どちらかを選びなさい」
ズバリ詰め寄られて、三浦義村は言いました。
「北条政村には逆心は無いと思います。ただし、
伊賀光宗は何事か考えているようです。
それがしから、説得しておきましょう」
「よろしく頼みますよ」
そう言ってその日は政子は帰っていきました。
子尅(ねのこく)、二位家(にいけ)、女房 駿河局(するがのつぼね) 計(ばか)りを以て御共(おんとも)と爲(な)し、潜(ひそか)に 駿河前司(するがのぜんじ)義村 宅于(よしむらたくへ)渡り御(たも)う。
義村(よしむら)殊(こと)に敬屈(けいくつ)す。二品(にほん)仰せて云(い)はく。奥州卒去に就き、武州(ぶしゅう)下向(げこう)之後、人 群を成し、世靜ま不(らず)。
陸奥四郎(むつのしろう)政村(まさむら)并(なら)びに 式部丞(しきぶのじょう)光宗等(みつむねら)、頻(しき)りに義村之許(よしむらのもと)へ出入し、密談の事有る之由(よし)風聞す。是(これ)何事哉(なり)。其の意を得不(えず)。若(も)し武州(ぶしゅう)を相度(あいはか)り、獨歩(どっぽ)を欲する歟(か)。去る 承久の 逆乱(ぎゃくらん)之時、關東の治運(ちうん)、天命爲(なり)と雖(いえど)も、半ばは武州之功に在る哉(なり)。
凡(およ)そ奥州數度(すうど)の烟塵(えんじん)戰(いくさ)を鎭め、干伐(かんばつ)を靜謐(せいひつ)令(せし)め 訖(おわんぬ)。 其の跡を継ぎ、關東の棟梁爲可(たるべ)き者(は)、武州也(なり)。武州無く也(なれ)ば、政村(まさむら)与(と)義村(よしむら)、親子の如き。何ぞ談合之疑い無からん乎(や)。
兩人(りょうじん)無事之樣(よう)、須(すべから)く諷諌(ふうえん)を加へれ者(ば)、義村(よしむら)不知之由(しらざるのよし)を申す。諸人(しょじん)久運を爭う哉。二品(にほん)猶(なお)用不(もちいず)。政村を扶持(ふち)令(せし)め、濫世(らんせ)の企て有る可きや否や、和平の計りを廻らす可きや否や、早く申し切る可き之旨、重ねて仰せ被(られ)る。
義村云(い)はく。陸奥四郎(むつのしろう)全く 逆心無き歟(か)。光宗等者(みつむねらせは)用意の事有りと云々(うんぬん)。尤も(もっと)禁制を加へる可(べ)き之由(よし)、誓言(せいげん)に及ぶ之間(あいだ)、還(かえ)ら令(せし)め給ふと云々(うんぬん)。
『吾妻鏡】貞應三年(一二二四年)七月大十七日壬子
幕府草創期から主にその軍事面を支えてきた三浦一族の、さしもの家長たる三浦義村も、尼将軍たる政子に詰問されると、冷や汗もので、立つ瀬無しという感じですね。
翌日、三浦義村は北条泰時の館に行って申し上げます。
「私は平和を望みます。四郎殿を執権に立てて世を乱そうなど、
思いもよらないことです。泰時殿と政村殿が争うことなど、
誰が望むでしょう。しかし伊賀光宗は何か
よからぬ考えをいだいているようですから、
私からそんなことはよすように、言っておきました」
すると泰時も、
「私は政村に対して何の意趣も懐いていない。
争うなど、考えられない」
三浦義村は一切を白状し、伊賀氏とその兄光宗、
一条実雅の三人が島流しとなりました。
しかし北条泰時の意向により、北条政村と三浦義村には
何の咎めもありませんでした。また流罪になった伊賀光宗も
すぐに赦されています。
三代執権 北条泰時
こうして反対勢力が排除されると、
北条泰時は叔母北条政子の後見により
父の跡を継いで三代執権に就任しました。
「祖父と父の偉大な功績を考えると、
私などに何ができるのかと茫然とするばかりだ。
だが…やらねばならぬ。それに鎌倉には、
大江殿や伯母上がおられる。わからないことは
何でも聞いて教えを乞おう」
北条泰時が三代執権に就任するにあたって、
反対勢力を排除することが、
叔母である北条政子の、最後の仕事となりました。
さて北条義時が亡くなったことで、兄弟の間で
遺領配分が行われました。
その時北条泰時は、弟たちには多くの領土を
取らせ、自分は少なく取りました。
それを見て北条政子が言います。
「泰時。これでは少なすぎます。
もっと多く取ってよいのですよ」
「いえ。伯母上。私は執権ですから」
そう言って辞退したと伝えられます。
このように、総じて泰時は質素で謙遜だったようです。
新時代の始まり
翌1225年(嘉禄元年)年6月。
幕府宿老大江広元が亡くなり、
続いて7月、北条政子が亡くなります。
政子が亡くなったことについて『吾妻鏡』は語ります。
これ前大将軍の後室(こうしつ)、二代将軍の母儀なり、前漢の呂后に同じく、天下を執り行はしめたまふ、若(もしく)はまた神功皇后再生せしめ、我国の皇基を擁護せしめたまふかと云々(うんぬん)
『吾妻鑑』嘉禄元年(1225年)7月11日
「これでは私は、だれを頼みとすればよいのですか。
私一人では、何ができるものでもありません。
私一人では、無理です」
泰時は集団の合議による幕府の運営をめざしていました。
何でも一人で決めてしまう独裁者ではありませんでした。
泰時は、六波羅探題として京都で苦楽を共にしてきた
叔父の時房を京都から鎌倉に呼び寄せます。
「叔父上、久しぶりの鎌倉はいかがです」
「空気の感じが、やはり京とはだいぶ違うなあ。
それで今回の用とは?」
「叔父上に、執権に就任していただきたいのです」
「な!なにを言う。執権はそなたであろうに」
「執権が一人でなければならないとは、
決まってませんよ」
「はあ…?」
こうして、北条泰時は叔父の北条時房をもう一人の執権に就任させます。
「両執権」と呼ばれる複数執権時代の始まりです。
後には二人目の執権は「連署」と呼ばれます。
署名をする時に、執権に連なって署名するための呼び方です。
さらに泰時は、三浦義村をはじめとする有力御家人十一人からなる
「評定衆」を選び、これに執権二人を加えた「評定会議」を新設し、
これを幕府の最高機関としました。
以後、幕府の人事や政策、訴訟はこの評定会議によって
決められていきます。
また八歳になったばかりの三寅を元服させ、「頼経」を名乗らせます。
三寅あらため頼経は九条家の三男であり
源氏の血はわずかしか引いていないものの、
頼朝公の正式な後継者という意味合いで「頼」の字を入れたのでした。
また御所を新しい場所に遷します。
鎌倉幕府の御所は大倉御所が承久元年(1219年)に火事で燃えてしまい、
以後再建されず、北条義時邸を仮御所として使っていました。
しかし北条泰時は考えました。
「いつまでも仮の御所というわけにはいかない。
新しい時代にふさわしく、御所も一新するのだ」
宇都宮辻子幕府
若宮大路の東側、これまでの大倉御所や
北条義時邸の仮御所よりずっと海よりの位置に
新しい御所を築きました。
宇都宮辻子幕府です。
現在、宇都宮辻子幕府跡には宇都宮稲荷神社が鎮座し
その面影を伝えています。
宇都宮稲荷神社
宇都宮稲荷神社
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