一休宗純の生涯(ニ)骸骨を包む

こんにちは。左大臣光永です。

以前、横須賀に行った時、戦艦三笠をたずねたんですよ。戦艦三笠。日露戦争日本海海戦の、東郷平八郎元帥の旗艦です。戦後、GHQに接収されて、パーティー会場にされてたらしいんですが、その後、復元したそうです。

艦橋に登ってきました。高いです!下から見上げるだけで足がすくみました。甲板がそもそもだいぶ高い位置にあるのに、そこにさらに艦橋が立っている。いわば、海の上にマンションが建ってるようなもんですからね。

ましてそれが波にゆられて、ドーンドーンと、敵から攻撃される。考えただけで目がしぱしぱして、足がすくみました。やはり軍人さんは、すごいなと実感しました。

本日は「一休宗純の生涯」の第二回目です。

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前回は一休の出生について語りました。一休は応永元年(1394)、北朝の後小松天皇のご落胤として生まれたといいます。母が南朝方の貴族の血筋であったことから宮廷を終われ、洛西の嵯峨で一休を出産したといいます。

6歳で母と引き離され、京都の安国寺に入り、13歳で建仁寺に入ったところまで前回語りました。

本日は第二回「骸骨を包む」です。

一休宗純の生涯(一)出生
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五山に嫌気

一休が生きた室町時代、天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺の5つの禅寺=五山は、幕府からの援助を受け、豪壮華麗な伽藍を築き、大いに繁盛していました。知識をもてあそび、名利におぼれ、本来の禅宗の教えからはずれ、ハデハデしさを競うようなありさまでした。

一休(周建)はそのような禅寺のありように、がまんできませんでした。

一休16歳の時、建仁寺で法会がありました。

多くの僧たちが集まっていました。

「ひゃあ、立派なお召し物ですなあ」
「いひひ、今度将軍家から招かれるんですらね。これくらいはやらないと」
「やはり名門のご出身となると違いますなあ」
「ははは、やはり何といっても、家柄がものを言いますからな」

「くだらない!」

一休は耳を覆って堂から駆け出し、怒りをニ首の偈(げ。仏教の教えを詩にしたもの)にあらわし、師である募喆龍攀(ぼてつりゅうそう)に提出しました。

説法説禅挙姓名
辱人一句聴呑声

法を説き禅を説きて姓名を挙ぐ
人を辱むるの一句、聴きて声を呑む

法を説き禅を説く者がわが姓名をほこり、他人を侮辱しているのを聴いて、声が出なかった。

姓名議論法堂上
恰似百官朝紫宸

姓名を議論す法堂(はっとう)の上
恰(あたか)も百官の紫宸に朝するに似たり

身分や出身のことを議論している。あろうことか、法堂という厳粛な場で。
まるで役人たちが朝廷にこびへつらって仕えているのと同じだ

宗教というのはどんな素晴らしい理念から始まっても、アッという間に腐りますからね。一休の憤慨が、伝わってくるようです。

アカンベをする

一休が18歳の時、一休がいた壬生の宝幢寺(ほうどうじ)に、突如将軍足利義持(四代将軍)が来訪することになりました。義持が寺に到着すると、一休は玄関先に出迎え、絹の掛け物を手に、高台から将軍に差し出しました。

「なっ、この坊主め無礼な」

将軍のそばに控えていた赤松満祐(後に、嘉吉の政変をおこす)がそれをさえぎって、自分が受け取ろうとしました。すると一休は

アッカンベー

をして、掛け物を引っ込めてしまいました。将軍も赤松もあっけに取られて、一休をとがめることもなく、用事をすませると帰っていったという話が伝わっています。

謙翁宗為の下で修行

応永17年(1410)17歳の周建は、さらによき師を求めて西山西金寺(さいこんじ)の為謙宗為(いけんそうい)をもとを訪ねます。

為謙宗為は幕府に保護された五山とは距離を置いていました。世俗の名声をもとめず、清貧に徹し、ほんらいの禅のありようを追求していました。

妙心寺の無因禅師を師としましたが、やがてその禅のすぐれていることを認められ、左券(印可状)を与えられそうになりました。

印可状とは、悟りを開いたことを証明するための文書で、以後は自分で寺を開けるようになります。しかし為謙宗為は

とんでもない。印可状など受け取れませんと、断ったほどの人物です。

一切名利をもとめぬ謙譲の精神から、「謙翁」と呼ばれていました。

17歳の一休(周建)は為謙宗為の下で修行します。この時、師より一字いただいて「宗純(そうじゅん)」の名を得ました。

西金寺での修行は厳しいものでした。

荘園もなければ檀家からの寄進もない。住職である為謙宗為みずからスキをとって耕すというありさまでした。

その清貧ぶりはテッテイしていました。建仁寺で過ごした子供時代とは、まったく違っていました。

(このお方こそ、師とするにふさわしいお方だ。一生このお方についていこう…)

しかし。

応永21年(1414)12月、一休21歳の時、為謙宗為は亡くなりました。

入水自殺をはかる

「いまや師はいない。私はどうすればよいのか…!!」

茫然自失とする一休。ふらふらと足の向くままに、清水寺を、ついで石山寺を訪れ、石山寺は7日間参籠しますが、観音菩薩の救いは得られない。

瀬田橋の上で、一休、つくづく考えました。

「すべて観音菩薩にゆだねよう。もし生きろというなら助かろうし、死ねというなら魚の餌となってもかまわない」

瀬田川に身を投げようと体を乗り出したその時、背後から、

「なりません!!」

背後から引き止められました。

引き止めたのは母からの使いの者でした。

母は一休を心配して、それとなく跡を追わせていたのでした。

ひたすら純粋に、真実を求めた一休。だからこそ苦悩も、絶望も、大きかったのでしょう。

世の中はまどろまでみる夢なれば みてやおどろく人のはかなき

(世の中はまどろまずに見ている夢であるので、その夢から覚める時が、人が死ぬ時だ)

なにごとも夢幻とさとりてはうつつなき世のすまひなりけり

(何事も夢幻とさとってしまうと、なにも現のないこの世のすまいであるなあ)

一休の法語『骸骨』には、

そもそもいづれの時か夢のうちにあらざる、いづれの人か骸骨にあらざるべし。それを五色の皮に包みてもてあつかふほどこそ、男女の色もあれ、いきたえ身の皮破れぬれば、その色もなし、上下のすがたもわかず。ただ今かしづきもてあそぶ皮の下に、この骸骨を包みて、うち立つとおもひて、この念をよくよく更新すべし。

そもそもいづれの時が夢のうちでないことがあろうか。いずれの人が骸骨でないことがあろうか。それを五色の皮に包んで扱う間は、男女の区別もつこうが、死んで身の皮が破れてしまえば、その区別もつかない、身分の上下もわからない。ただ今かぶってもてあそんでいる皮の下に、この骸骨を包んで立っているのだと思って、この念をよくよく日々新たにすべきだ。

ご用心

こんな話も伝わっています。

正月。人々が長寿を祝い、華やかに楽しんでいる折、一休は墓場からひとつの髑髏を拾ってきて、竹の先に貫き、家々の門に立って、

「ご用心、ご用心」

と言ってまわったと。

正月早々、なんて不吉な!
とんでもないクソ坊主だ…門を閉じて無視していよう

すると一休は門のすきまから髑髏をすーーと差し入れて、

ぎゃあ!

ご用心、ご用心

「なんでこんなことするんですか。せっかく目でたい正月に、髑髏なんて。縁起でもない」

「ほう、目でたいと。ならばこの髑髏こそ目でたいぞ。ほれこの通り、目が出た穴のみ残っておる。これを目でたいというのである」

その時詠んだ歌が、

門松は冥土の旅の一里塚
目出度くもあり目出度くもなし

だったと伝わります。

次回「一休宗純(三)悟りを得る」に続きます。

youtubeで配信中

大原問答
https://youtu.be/-5fVjsIVES0

文治2年(1186年)秋、天台宗の僧顕真が、浄土宗宗祖・法然はじめ各宗派の碩学を洛北大原の勝林院にまねき、300人の聴衆の前で法論が行われました。これを大原問答といいます(8分)。

明治の廃仏毀釈
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc

慶応4年(1868)明治政府が出した「神仏分離令」を発端として、神社関係者や民衆によって、仏教弾圧・仏教排斥の嵐が全国で吹き荒れました(24分)。

終了直前

紫式部の生涯 オンライン版
https://sirdaizine.com/CD/Murasaki-OL2.html

『源氏物語』の作者。一条天皇中宮彰子に仕えた女房。紫式部の生涯を語る。

受付開始

『徒然草』全243段 オンライン版
https://sirdaizine.com/CD/TsurezureInfoOL2.html

兼好法師『徒然草』の全243段を原文と現代語訳で朗読し、解説を加えています。

詳しくはリンク先まで!

解説:左大臣光永

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