藤原広嗣の乱
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左遷
天然痘の流行で藤原四兄弟が亡くなると、政治の実権は橘諸兄が握り、橘諸兄の下で遣唐使帰りの吉備真備や玄ボウらが重用されました。
それに対して藤原氏は、わずかに武智麻呂(南家)の子、豊成(とよなり)が参議に進んだだけで、政権から遠ざけられてしまいました。
【藤原広嗣と藤原豊成】
「ちっ…おもしろくも無い」
藤原宇合(式家)の長男・藤原広嗣は、不満をたぎらせます。
「吉備真備は学者、玄ボウは坊主ではないか。
どうして学者や坊主に政治のことがわかろう。
戦にでもなったら真っ先に逃げ出すんじゃないか」
「何なら俺がやってやろうか」
「広嗣殿、あまり過激な発言は控えたほうが…」
「豊成殿。参議のあんたがそんな弱気でどうするか。あんたが
もっとしっかりしていれば!」(グワッとつかみかかる)
「うわわ、広嗣殿、乱暴はやめてください」
…こんな調子でしたから、広嗣は橘諸兄政権下で孤立するのみならず、藤原氏内部ですら孤立していきました。とうとう太宰少弐に左遷され、九州に飛ばされます。都から遠く離れた九州の地で、広嗣はいよいよ不満をたぎらせます。
「なぜだ!!」
「なぜ俺が左遷されねばならぬのだ。
俺は何も悪くない。吉備真備、玄ボウ。
あの二人こそ悪の元凶ではないか」
決起
740年8月、藤原広嗣は「君側の奸」吉備真備と玄ボウをのぞくことを要求する上表文を、朝廷に提出します。
そして太宰小弐の権限を活かして兵力を集め、朝廷からの返事が届く前に挙兵に踏み切りました。
広嗣は全軍を三手に分けて北九州の登美・板櫃(いたびつ)・京(みやこ)の三鎮を目指します。
【藤原広嗣の乱01】
藤原広嗣率いる本体5000人は筑前から、
広嗣の弟の綱手(つなて)率いる5000人は豊後から
側近の多胡古麻呂(たこのこまろ)は筑前から田河道を通って
三方から軍勢を進めます。
朝廷軍の反撃
一方、朝廷軍は全国から1万7,000人の兵士をつのり、大野東人(おおののあずまびと おおののあずまんど)を大将軍に任じ、九州へ派遣します。
【藤原広嗣の乱02】
9月21日、朝廷軍は関門海峡を突破。
翌22日、広嗣軍が拠点とする北九州の板櫃鎮を攻撃します。結果は広嗣軍の惨敗。広嗣軍は大損害を被り、士気の低下著しいものがありました。
「もうやめた。こんな戦い、無理だったんだ」
「俺もやめた」
「広嗣さま、わが軍を離脱するものが増えています」
「くっ…臆病者どもが。逃げる奴は逃げればよい。一気にカタをつけてやる」
板櫃川の戦い
10月9日、体制を立て直した広嗣軍は板櫃川の西岸に進出。対する東岸には勅使佐伯常人、阿倍虫麻呂率いる朝廷軍6000人が布陣していました。
【藤原広嗣の乱03】
勅使佐伯常人が川のなかほどまで馬を進め、藤原広嗣に呼びかけます。
「私は朝廷から派遣された勅使だ。藤原広嗣とはそのほうか」
「いかにも私が広嗣です。誤解があるようです。私は朝廷に逆らっているのではありません。君側の奸吉備真備と玄ボウを除いてほしいと、平和的にお願しているのです」
「ふん、何が平和的か。ではこの軍勢は何じゃ。それ、射殺せ」
ひゅうひゅうひゅう…
「うわああっ」
朝廷軍が矢を射かけると、広嗣軍は総崩れとなって退却していきます。もはや広嗣についてくる者はわずかでした。
藤原広嗣の最期
「兄上、こうなったら海に逃げましょう」
「そうだな…。まだ負けたわけではない」
【藤原広嗣の乱04】
藤原広嗣は弟の綱手ととも博多から舟に乗り、肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に至ります。さらに新羅まで行こうしていた時、朝廷軍が追ってきて、広嗣を捕えました。
「観念しろ!」
「くっ…」
広綱・綱手兄弟は肥前の唐津に引っ立てられ、斬られました。こうして藤原広嗣の反乱はわずか2か月ほどで鎮圧されました。