阿倍比羅夫の蝦夷征伐

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大化の改新によって中央集権国家としての礎が築かれていきましたが、地方にはまだまだ従わない勢力がありました。その筆頭が蝦夷でした。

当時、朝鮮の情勢が不安定で、いつ日本にその影響が及ぶかもしれませんでした。万一そうなった場合、国内に不平分子がいて統一を欠いていては、とてもまずいです。

そこで、658年、阿部比羅夫による数度にわたる蝦夷征伐が行われます。ちょうど有馬皇子の変が起こった年です。『日本書紀』には遠征回数は3回とありますが、遠征回数については1回説、2回説があります。

以下、『日本書紀』の記述にしたがって語ります。

658年(斉明4)、越国の国主・阿倍比羅夫が第一回の遠征に向かいました。そして粛慎(みしはせ)を討ち、ヒグマ二頭、ヒグマの皮70枚を朝廷に献上しました。

粛慎とは何なのか?不明です。蝦夷の同族とも。アイヌとも。ツングース系の異民族とも言われ、現在でも判明していません。

翌659年、阿倍比羅夫は180艘の船を率いて再度蝦夷征伐に向かいました。飽田・淳代(ぬしろ)の二郡の蝦夷241人、その捕虜31人、津軽の蝦夷142人、その捕虜4人、肝振%#37455;(いふりさへ)の蝦夷20人を一か所に集めて、大いに酒や料理をふるまいました。

そうして船一艘と五色の幣帛を供えて、その地の神をまつりました。

肉入籠(ししいりこ)に至った時、二人の蝦夷が名乗り出て、後方羊蹄(しりべし)を政庁となさいと申し出ます。「おおそうか」阿倍比羅夫は蝦夷の言葉に随い、後方羊蹄(しりべし)に役人を置いて帰還しました。

肉入籠の場所は、北海道説と津軽半島説があります。

第三回の遠征は660年(斉明7)。陸奥の蝦夷を水先案内人として渡島(わたりのしま)まで進み、粛慎(みしはせ)を討ちました。

渡島は津軽半島説と北海道説があります。結局、阿倍比羅夫は北海道まで進んだのか、津軽どまりだったのかは、説が分かれています。

こうして3回にわたって蝦夷を討伐したのですが、討伐したといっても、不十分なことでした。朝廷の支配権が及んだのは日本海側の拠点を中心とした地域のみで、東北全体に及ぶにはもっと時間がかかりました。

≫次の章「斉明天皇の遠征」

解説:左大臣光永

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