平安京遷都(二)千年の都

こんにちは。左大臣光永です。

本日は「平安京遷都」について語ります。延暦十三年(794)十月二十ニ日、桓武天皇は長岡京から平安京に遷都しました。

なぜ今、この話をするかというと…十月二十ニ日が迫っているからです。そしてこの日は京都では、平安京遷都を記念して、時代祭が開催されます。

というわけで、むこう一週間ほどは、平安時代初期の話をしていきます。

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京都アスニー 平安京模型
京都アスニー 平安京模型

遷都の理由

延暦13年(794)10月22日。

桓武天皇は皇太子安殿親王以下百官を引き連れて長岡京を後にし、新しい都たる葛野郡宇陀村に入ります。

長岡京から平安京に遷都するに至った理由は、何も早良親王の怨霊だけではありません。それは消極的な理由の一つではありましたが…

より積極的な理由は和気清麻呂が進言したことによると思われます。

「長岡京は水害が多くネズミの害も相次いでいます。
いっそ遷都をお考えになっては…」

「うむ…」

桓武天皇はいっこうにうまく運ばない長岡京造営を見て、和気清麻呂の意見を容れました。では場所はどこにするか?渡来人の秦氏からの誘致があり、秦氏の本拠地といえる山背国葛野(かどの)の地に都をうつそうと決めたようです。

長岡の新都、十載を経て未だ功成らず。費(ついえ)、勝(あ)げて計(かぞ)う可(べ)からず。清麻呂潜(ひそか)に奏して、上(しょう)をして遊猟に託して、葛野(かどの)の地を相せしめ、更に上都(じょうと)に遷す。

『日本後紀』延暦十八年二月二十一日条

長岡京は十年経ってもいまだにうまくいかない。出費がかさむばかりである。清麻呂ひそかに奏上して、天皇は狩猟に託して葛野の地を視察し、その結果遷都した。

渡来系の秦氏とのつながりは特に重要な理由だったようです。葛野の地は長岡以上に渡来人の勢力の強い場所でした。平安京以前からあった太秦広隆寺や嵐山の葛野大堰(かどのおおい)跡はその名残をしめします。

また平安京は天智天皇の遷都した大津京や、天智天皇の陵のある山科に近く、天智系天皇の都であることが強く意識されていました。

遷都

遷都はあわただしいものでした。

延暦12年(793)正月15日、桓武天皇は大納言藤原小黒麻呂(おぐろまろ)・左大弁紀古佐美(きのこさみ)の両名を山背国葛野郡宇太村に派遣し、その地を「相」させています。

「相す」とは、単なる視察でなく、陰陽道からいって方角はどうか?鬼門はどうか?といった、土地の吉凶をみるのである。6日後の正月21日には桓武自身が内裏を出て、新都の造営が開始されている。異常なスピードといえます。

延暦13年(794)10月22日、「車駕、新京に遷る」とのみ記されています。遷都の具体的状況はわかりません。

平安京の造営

平安京は、唐の都長安をモデルに都作りが進められました。
また、近い過去に長岡京の建設を経験したことであり、
その経験はそのまま平安京の造営に活かされました。

平安京の置かれた葛野の地は東に鴨川、
西に桂川に挟まれ、鳥羽のあたりで
鴨川と桂川が合流し、淀川に流れ込みます。

平安京
平安京

鴨川と桂川にはさまれた盆地に、
南北三十八町(5.3キロ)、東西三十二町(4.5キロ)の都が造営されました。
平城京より、南北に長い都です。

唐の都長安に習い、整然と碁盤の目状に区画されました。

淀川を通じて、瀬戸内海にも出やすく、水運のよい地です。

平安京の南の入り口となるのが羅城門です。

平安京
平安京

羅城門跡
羅城門跡

今、こころみに皆様と平安京遷都直後の羅城門をくぐってみましょう。

すると、道幅85メートルの朱雀大路がはるか
3.7キロ先の朱雀門まで続いています。

朱雀大路跡は現在、千本通りと名を変え、その面影もありません。

千本通り
千本通り

朱雀大路の両側には柳が立ち並び、その浅緑が
目にまぶしく飛び込んできます。

左右を見ると、まだ建設中の館が多いですが、
日々人が増え、活気が高まっています。

京都アスニー 平安京模型
京都アスニー 平安京模型

この朱雀大路を中心に東を 左京、西を右京といいます。
朱雀大路の両側には東寺・西寺が建てられ、
それぞれに五重塔が建てられました。

東寺・西寺
東寺・西寺

東寺 五重塔
東寺 五重塔

西寺跡
西寺跡

西寺跡
西寺跡

西寺は鎌倉時代に廃れてしまいますが、
東寺は嵯峨天皇により弘法大師空海に与えられ、
現在も五重塔が京都の町のシンボルとなっているのは、
ご存知の通りです。

朱雀大路の東には東市(ひがしのいち)、西には西市(にしのいち)が、それぞれ月の前半・後半に
開かれ、さかんに物の売り買いが行われました。

朱雀大路を北へ北へ進みます。はるかに見えてくるのが、
大内裏の入り口・朱雀門です。

朱雀門跡
朱雀門跡

朱雀門跡
朱雀門跡

しかし朱雀門をくぐる前に、
大内裏を隔てて二条大路(現御池通)の南側を御覧ください。

神泉苑です。

神泉苑
神泉苑

神泉苑
神泉苑

神泉苑
神泉苑

桓武天皇によって造営された、天皇家禁制の庭園(禁苑)です。

もともとこの地にあった湧き水に手を加えて池とし、
その池を中心に南北500メートル、東西240メートル。
3万坪の広さがありました。

1603年(慶長8年)徳川家康によって二条城が築かれた際に縮小され、
現在に到ります。

二条城 二の丸御殿
二条城 二の丸御殿

さて再び朱雀門の前に立ち返ります。

大内裏は平安京の北方に位置し、
南北1.4キロ、東西1.2キロの領域です。

大内裏
大内裏

朱雀門をくぐり、さらに正面の応天門をくぐると、

平安神宮に復元された応天門
平安神宮に復元された応天門

役人たちが儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)、
その西には饗応、宴会などを行う豊楽院(ぶらくいん)、

京都アスニー 豊楽殿 模型
京都アスニー 豊楽殿 模型

豊楽殿跡
豊楽殿跡

豊楽殿跡
豊楽殿跡

それらを取り巻いて、太政官院はじめさまざまな役所がありました。

朝堂院の奥には天皇が儀式を行う大極殿。

大極殿跡
大極殿跡

大極殿跡
大極殿跡

大極殿跡
大極殿跡

大内裏中央ほぼ東よりの位置に天皇が
すまわれる内裏がありました。

平安宮 建礼門跡付近
平安宮 建礼門跡付近

平安京内裏 承明門跡
平安宮内裏 承明門跡

平安宮内裏図
平安宮内裏図

平安京の都市機能は10年かけて、
少しずつ整えられていきました。

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勘解由使(かげゆし)

桓武天皇は平安京の都づくりを進める一方、政治改革をおし進めます。

この頃、不正を働く国司が多くありました。国司とは中央の貴族が朝廷に任じられて地方に赴任する者です。その任期は6年でした。

国司の中には強力な権力をかさに着て不正を働く者がありました。政府の米を法外な利息をつけて貸し出して私腹をこやしたり、領民を勝手に使役する者もありました。

まったく国司というやつは、ロクでもない。ああ憎たらしい俺たちが汗水たらして働いてるのに国司はぶらぶらして、いい暮らししやがって!

領民は国司を憎み嫌います。しかし逆らうこともできず、国司の専横に対しては泣き寝入りするほか、ありませんでした。事態をみかねた桓武天皇がおっしゃいます。

「これでは朝廷の信用そのものの、失墜となる。
国司の不正をやめさせるのだ」

国司の不正がもっとも表面だって現れる場面が、国司の引継ぎです。

国司の引継ぎをする際、新しく赴任した国司から前の国司に、引継ぎの書類を渡していました。これを解由状(げゆじょう)といいます。しかし、解由状の引渡しは、スムーズに運ばないことが多くありました。

それは、前の国司がいろいろと不正を行ってるので、帳簿のつじつまがあわないため、事務手続きに何日もかかったためです。

そこで桓武天皇は、新任者から一定期間解由状をもらえない者は任期中に不正を働いたとみなして禄を採り上げると決定します。ちゃんと見ているぞ。不正はできないぞ、というわけです。

「これでは、うまい汁が吸えなくなる」
「とほほ…国司になるうまみがなくなってしまった」

そして解由状の引渡しを監督する、勘解由使(かげゆし)という役所を創設しました。ただし、勘解由使が国司の不正を減らすにどれほど役に立ったかは、わかりません。おそらく、期待したほどは機能しなかったんじゃないでしょうか…。

≫次の章「アテルイと坂上田村麻呂(一)巣伏(すぶし)の戦い」

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解説:左大臣光永

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