後白河上皇(九)寺社勢力との争い

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こんにちは。左大臣光永です。

薄闇の夜の住宅街を歩いていると、個人経営の小料理屋があって、戸口から黄色い明かりが漏れていて、わっはっはっはと談笑する声が響くのは、なんとなく懐かしく、落ち着いた風情を感じます。

東京にいた頃は、雑司ヶ谷あたりの町並みにそういう風情があって、好きでした。京都なら北野界隈がよいです。住宅街を貫いて流れる紙屋川の水音も、ちろちろとわびしくて、よいです。

本日は「後白河上皇(九)寺社勢力との争い」です。

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前回は、後白河上皇が出家して後白河法皇となったいきさつ、後白河と平清盛の持ちつ持たれつの共存関係について語りました。

本日は第9回「寺社勢力との争い」です。

後白河五十の賀

安元2年(1176)3月4日、後白河法皇の五十の賀が開かれました。五十歳を祝い、さらなる長寿を祈願する宴です。後白河の今様への取り組みはいよいよ熱心になり、また今様熱心とかさなる形で、極楽往生をねがう菩提心も深まっていました。

あか月静かに寝覚めして、
思へば涙ぞ抑へ敢えぬ、
儚く此(こ)の世を過(すぐ)しては
何日(いつ)かは浄土へ参るべき(『梁塵秘抄』238)

我が身、五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。すでに半ばは過にたり。今はよろづを抛(な)げ棄てて、往生極楽を望まむと思ふ。たとひまた、今様を歌ふとも、などか蓮台の迎へに与からざらむ。

『梁塵秘抄口伝集』巻十一

わが身、五十余年を過ごし、夢のごとく幻のごとくだ。すでに人生半ば過ぎた。今はあらゆるもの(欲望)を投げ捨てて、極楽往生を望もうと思う。たとえまた、今様を歌っても、どうして浄土の迎えに預からないことがあろうか。

建春門院滋子、崩御

後白河五十の賀が行われて4ヶ月後の安元2年(1176)7月8日、後白河の最愛の妃、建春門院滋子が亡くなります。滋子は気取りなく、機知に富んだ「愛敬(あいぎょう)こぼるるばかりの」女性でした。ために後白河の寵愛篤く、滋子を失った後白河の悲しみは大変なものでした。

後白河が建春門院の一周忌にわが子高倉天皇と徳子にあてた書状が残っています。

わすれゆく人の
こゝろはつらけれど
そのをもかけは
なをそこひ
しき

かやうに心よはく候はんには
仏道をも行なり(ひ?)候ましきよと
つみふかくこそ覚候へく候
恐々謹言

七月二日 行真

両所御中

時がたつにつれて忘れてしまう人の心は薄情なものだが、
私はなお妻の面影を恋しく思っている。

このように心弱くあれば、仏道修行もおこたり、
罪深いことに思えます。

行真は後白河の法名です。

『平家物語』などに描かれた策謀家の後白河ではなく、妻の死をなげく一人の男としての後白河があらわれていて、胸を打ちます。

白山事件

さて後白河はじめ院近臣たちは、いつも寺社対策に頭を抱えていました。

中にも延暦寺は僧兵たちがたびたび平安京に降りてきては強訴を繰り返しました。

そのたびに後白河は平家に僧兵鎮圧を命じるも、平家一門は清盛が延暦寺の明雲座主を導師として出家したため、延暦寺とは親密でした。ために平家は僧兵に対して強くは出ない。形ばかりは兵を集結させるが、軍事行動は起こさない。僧兵たちはますます増長して、やりたい放題やる。そんなことが繰り返されました。

後白河はじめ院の近臣たちは話し合います。

「延暦寺への対策は、本気で考えないといけませんなあ」
「そうは言うがの…平家は延暦寺とのつながりがある。両者が手を結んでいるので、どうにも、むずかしい」
「なんとか平家一門と延暦寺を仲違いさせられぬものでしょうかなあ」

そんなことを話し合っている中、決定版というべき事件が起こります。

治承元年(1177)の「白山事件」です。

発端は、加賀国で、加賀守藤原師高(もろたか)とその弟で加賀国目代の師経(もろつね)が、白山神社領の涌泉寺(ゆうせんじ)の僧と争い、涌泉寺を焼き討ちにしたことでした。

白山事件
白山事件

白山神社のボスは近江坂本の日吉社(ひえしゃ。現日吉大社)であり、日吉社のボスは比叡山延暦寺です。延暦寺としては末寺がはずかしめられたので、黙っていられません。

「藤原師高・師経兄弟を処罰せよ!!」

例によって延暦寺は院に対してワアワア言ってきました。

後白河法皇にとって、これは厳しい要求でした。藤原師高・師経兄弟の父は院の近臣中の近臣、西光法師です。側近の息子たちを、厳罰に処するするわけはいかない。そこで後白河は、延暦寺にはいちおう謝り、弟の師経だけを流罪にするという形ばかりの処罰ですまそうとしました。

「話にならん!」
「院がそういう考えなら、延暦寺にも考えがあるぞ!」

延暦寺大衆は怒って、日吉社・白山社の神輿をかついで都に押し寄せ、強訴におよびました。

「ぬう…延暦寺め。いつもいつも要求が通ると思うなよ」

後白河は平重盛(40歳)に都の警備を命じました。しかし…

「ざけんなクソ坊主ども!!」

どすううううっ

ぐはははあああぁぁぁぁぁぁ

重盛の軍兵が、延暦寺大衆の多くを射殺し、さらに郎党の一人が放った矢が、

びいいいいいぃぃぃぃぃん

「ああっ、神輿を!!」
「神輿を射たぞ!!」

あろうことか、延暦寺大衆の掲げていた神輿を射抜きました。

さすがにこれはやりすぎであろうと、都の貴族たちから非難の声が上がりました。平家と、院と、両方に対して非難の声が上がりました。

後白河はやむをえず、加賀守師高を尾張に配流しました。

面目を失ったのは、西光法師です。

「師高が流罪なんて、ひどい!この事件の張本は、天台座主明雲であります!明雲をこそ処罰すべきです!」

西光はしきりに後白河に訴えます。ほかの院の近臣たちも、

「私も西光殿と同じ意見です。延暦寺は増長しすぎました」
「明雲にキツい処罰を!」
「それに明雲を処罰すれば、平家一門への打撃にもなります」

「うむ…平家一門に打撃か」

日に日に勢いをます平家一門に対して危機感を強めていた後白河は、明雲への処罰が平家一門に打撃になるという意見に動かされます。こうして、

明雲は天台座主の職を解かれ、還俗させられた上で伊豆に流されました。また所領の39箇所が没収されました。

「ゆるすまじ!!」

延暦寺大衆は黙っていませんでした。伊豆に送られる明雲を琵琶湖のほとり粟津で待ち伏せ、これを奪い去り、叡山に連れ戻しました。

後白河は激怒しました。

「院宣に背くとは、けしからぬ!」

延暦寺の末寺、荘園を没収するため、各国国司に調査を命じ、平経盛(清盛弟)に延暦寺への総攻撃を命じました。

しかし平経盛が平家一門と延暦寺のよしみを考えて出兵を断ったので、経盛ごときでは話にならんと、今度は福原で隠棲中の平清盛を呼び寄せ、延暦寺攻撃を命じました。

平清盛は延暦寺との長年のよしみを考えれば何のトクにもならない話でしたが、仕方なく後白河の命令を承諾しました。

治承元年(1177)5月28日、平清盛による延暦寺総攻撃が決定します。

ついに後白河は、平清盛に延暦寺を総攻撃させる、一歩直前まで追い詰めたのでした。わが事なれり!ほくそ笑んだことでしょう!

しかし。

鹿ヶ谷事件

3日後の治承元年(1177)6月1日、後白河の近臣・西光法師が逮捕されました。

平清盛の指示でした。

そして西光法師を取り調べた結果、院近臣らによる平家打倒計画が明るみに出ました。院近臣ら、特に西光法師とその兄成親、平康頼らは、日に日に勢いをのばす平家一門に反感を懐いていました。

法勝寺の僧都俊寛の所領である東山鹿ヶ谷に、平治の乱で非業の死をとげた信西の息子、静賢(じょうけん)法師の山荘がありました。院近臣らはこの山荘に夜な夜な集まり、打倒平家の計画を話し合いました。そしてこの会合には後白河もたびたび参加したというのです。

俊寛僧都鹿谷山荘跡
俊寛僧都鹿谷山荘跡

俊寛僧都鹿谷山荘跡
俊寛僧都鹿谷山荘跡

この年の6月、祇園会(現祇園祭)のさなかに六波羅を攻撃しようということまで話が進んでいました。

しかし、同士の一人、摂津源氏の多田蔵人行綱が、とちゅうで恐ろしくなって清盛に密告したことにより、事があかるみに出ました。

「許しがたい!」

清盛は激怒して、まず西光法師を捕らえ、西光法師の自白からイモヅル式に、関係者を次々と捕らえていきました。西光法師と大納言成親は殺され、俊寛僧都と丹波少将成経(成親の子)、平康頼の三人は鬼界が島に流されました。

以上が『平家物語』などにある、鹿谷陰謀事件のあらましです。

しかし実際にこのような陰謀があったのかは疑問が残ります。平清盛は後白河から不本意な延暦寺攻撃を命じられていました。苦しい立場でした。そこでこのような事件をでっち上げて、院近臣を一網打尽にした、つまり清盛の自作自演だったという説も有力です。

清盛は後白河の御所に軍兵を差し向けます。しかし後白河はしらを切りました。清盛も、証拠がふじゅうぶんな状況でこれ以上府追求できないと考えたのでしょう。後白河の逮捕は断念しました。

しかしこれまで共存してきた後白河と平清盛の関係に、たしかに亀裂が入ったことでした。

次回「後白河上皇(十)治承三年の政変」に続きます。

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解説:左大臣光永

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