後白河上皇(八)出家
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こんにちは。左大臣光永です。
コロナ騒動はおさまってきたとはいえ、まだまだ油断できませんね。外出する時はかならずマスクをつけています。完全に収束したとしても、しばらくマスクなしでは落ち着かない気がします。マスクをつけて外出することがすっかり板についてしまいました。
本日は「後白河上皇(八)出家」です。
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前回は、後白河上皇と平滋子との間に生まれた憲仁(のりひと)親王が、8歳で高倉天皇として即位するまで語りました。その間、平清盛は後白河の引き立ててで昇進をかさね、ついに太政大臣に至りました。
本日は第8回「出家」です。
熊野参詣
後白河上皇が今様とならんで熱心に取り組んだのが、仏教の信仰でした。最盛期は年に2、3度のペースで、生涯33回(もしくは34回)もの熊野詣を行っています。
熊野那智大社
後白河の熊野詣は約一ヶ月にわたって行われ、それに伴する人員、費用も莫大でした。こうしたことが可能になったのは後白河院政が安定し、世の中が平和になってきたことを示しています。
熊野詣ばかりではありません。後白河は石清水八幡宮、賀茂社、仁和寺、法勝寺、四天王寺、延暦寺、高野山など、参詣を繰り返しましました。
後白河はこのように神仏を篤く敬いましたが、一方で迷信やまじないのたぐいは一切信じない合理性を持っていました。そして平清盛も、都に強訴してきた日吉社の神輿に矢を射たり、祇園社(現八坂神社)と対立したりと、迷信を信じなかったので、その点、後白河と清盛は気があったようです。
出家
寺社参詣をかさねることで、後白河の菩提心もいよいよ深まったのでしょう。
嘉応元年(1169)6月、出家し、法皇となります。
我等は何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の、弥陀の誓ひを念ずべし(『梁塵秘抄』235)
時に後白河43歳。園城寺の長吏覚忠より戒を受け、法名は法真とします。翌嘉応2年、東大寺でも授戒しました。東大寺の授戒式には、平清盛も列席しました。
「清盛、やや遅れを取ってしまったが、御仏の道においても、よろしく頼むぞ」
「法皇さま、こちらこそ、今後もいっそうのよしみを…」
なんてことも言い合ったでしょうか。
最勝光院
同年、皇太后滋子に対して建春門院の院号が下されます。この時後白河は、建春門院滋子の御願として(建春門院滋子の名で)最勝光院という寺院を造営します。最勝光院は後白河の御所・法住寺の一角に建てられ、承安3年(1173)10月、完成しました。
最勝光院跡
宇治の平等院を模した華麗な寺院でしたが、鎌倉時代に火事で焼けてしました。現在の京都市立東山泉小・中学校あたりが最勝光院の跡地です。
宋人を引見
嘉応2年(1170)9月、後白河は平清盛の福原の別邸に招かれ、そこで宋人を引見します。当時、外国人は汚れているとされ、しかも皇族が外国人を引見するなど、前代未聞のことでした。
九条兼実の日記『玉葉』には、
我が朝、延喜未曾有の事なり。天魔の所為か。
しかし後白河も清盛も、そうした慣習に一切とらわれず、むしろ貴族たちの保守的なことをバカにしていました。こういうところも二人は気があったのでしょうね。
2年後の承安2年(1172)9月、宋国より後白河と太政大臣清盛に対する供物が送られてきました。書状には後白河のことを「日本国王」としてありました。
「日本国王」は高倉天皇なのに…この書状は無礼すぎると貴族たちは反発しました。。しかし翌3月、宋国に返礼が送られ、宋国との間に貿易関係が結ばれました。寛平6年(894)菅原道真によって遣唐使が廃止されてからも、中国との間に私貿易は続いていましたが、公の貿易再開は279年ぶりでした。
殿下乗合事件
平家一門は後白河法皇の権威に守られて勢いを伸ばし、後白河法皇は平家の軍事力を頼みとして院政体制を強化していきました。両者は持ちつ持たれつの関係でした。
しかし飛ぶ鳥を落とす勢いの平家一門には、驕りも出てきたようです。
嘉応2年(1170)7月、「殿下乗合(でんかののりあい)事件」が起こります。
清盛の孫である資盛が、往来で摂政藤原基房の車と行きあったのです。本来なら資盛は道を譲らねばならない所ですが、そこは勢い盛んな平家一門。のぼせ上がっています。ふん、摂政がどれほどのものか。そのまま車を押し通そうとします。「無礼な!」怒った基房の供の者が、ワッとつかみかかり、さんざんに暴行を加えます。
ドカーーッ
ついに、資盛の乗った車を、摂政藤原基房の手の者が打破りました。
摂政藤原基房は恥辱を加えた相手が平家と後で知り、あわてて資盛の父・重盛に謝罪してきます。しかし、重盛は許しませんでした。
「たとえ摂政でも、わが子にこのような仕打ち。目に物見せてくれる」
重盛は、摂政藤原基房の車を待ち伏せし、武士をもって襲わせ、殴る蹴るの暴行を加えた挙句、基房の手勢のもとどりを切り落としました。
いかに摂関家の勢衰えたといっても、一臣下にすぎない平家一門が摂政さまに対して恥辱におよぶ。前代未聞のことでした。
「ううむ…清盛め、ここまで増長したか…」
後白河上皇は平治の乱の勝利以後、ずっと清盛とは協力体制を築いてきました。清盛は後白河の権威をかさに平家一門の勢いをのばし、後白河は清盛の軍事力をあてにしてきました。しかしここに到り、後白河は平家一門とくに清盛に警戒を強めます。
「いずれは治天の君たるわしにも口出ししてくるのではないか…。それはいかにも許しがたい」
平徳子入内
しかし、まだまだ後白河と清盛の協力体制は続いていました。
承安元年(1171年)12月、清盛の娘・徳子が高倉天皇の女御として入内しました。後白河は徳子を猶子とした上で、わが子高倉天皇のもとに入内させたのでした。
これで清盛は天皇家の外戚となりうる地位まで来ました。後に高倉天皇と徳子の間に言仁(ときひと)親王(安徳天皇)が生まれ、実際に清盛は天皇家の外戚となるわけです。
徳子の高倉天皇入内により、平家と天皇家の結びつきはいよいよ強まることとなります。
次回「後白河上皇(九)寺社勢力との争い」に続きます。
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