後白河上皇(七)高倉天皇の即位

こんにちは。左大臣光永です。

梅雨が近づいていますね。私は大雨はともかく、ぱらぱら降るくらいの小雨は好きです。雨に濡れた神社仏閣は風情があります。白峯神宮の銅葺き屋根が、濡れたアメ玉のようにつややかに輝いているのは、神々しさを感じます。またあの景色がしょっちゅう見られる季節が来ると思うと、嬉しくもあります。

本日は「後白河上皇(七)高倉天皇の即位」です。

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前回は、後白河上皇と二条天皇の対立について語りました。平治の乱以降、後白河上皇・二条天皇父子の対立が深まっていった。しかしそんな中、幼帝六条天皇が即位し、ほどなく二条上皇がなくなった。これにより平清盛はいよいよ後白河に接近を強める、というところまで語りました。

本日は第7回「高倉天皇の即位」です。

立太子

幼帝六条天皇が即位した翌年の仁安元年(1166年)10月10日、後白河は妃の一人平滋子の生んだ6歳の憲仁(のりひと)親王を皇太子に立てます。3歳の天皇に対し6歳の皇太子です。異例のことでした。

さて系図をごらんください。後白河の妃平滋子の姉、平時子は清盛の妻です。


憲仁親王(=高倉天皇)

この関係により、平清盛はいよいよ後白河に取り立てられます。皇太子を補佐する春宮大夫(とうぐうだいぶ)(皇太子の後見役)に任じられ、平家一門、一丸となって皇太子をささえる体制となります。

二条天皇の生前、清盛は後白河上皇、二条天皇の間をわたりあい、双方のご機嫌をうかがうしかありませんでした。しかし今や誰はばかることなく、後白河に接近し、昇進を早めることができました。

この時期は平清盛と後白河上皇がもっとも接近した時期です。

平清盛は後白河の権威に守られて平家一門の地位を引き上げ、後白河は清盛の軍事力を背景に院政体制を強化していきました。まさに後白河上皇・平清盛、両者の蜜月時代であったといえます。

この年、清盛は従二位に叙せられ、内大臣に進みます。

新造法住寺殿

翌仁安2年(1167年)正月19日、後白河の御所、新造法住寺殿が完成します。はじめに作った法住寺南殿が手狭になったため、規模を拡張して新たな御所を作ったようです。

現 法住寺
現 法住寺

法住寺殿 概略図
法住寺殿 概略図

平清盛、太政大臣となる

仁安2年(1167年)2月11日、平清盛は左右の大臣を経ず太政大臣に至ります。時に清盛50歳。後白河上皇の強い後押しがあったとはいえ、平治の乱から8年で人臣として最高の位に至ったのは、異例のことでした。そのため、平清盛は白河法皇の御落胤なのでは…という説も出てくるわけです。

太政大臣を辞任

ところが、清盛はわずか三か月で太政大臣を辞任します。表むきの理由は病気ということですが…太政大臣はすでに単なる名誉職になっており、長く留まっている必要はないと考えたようです。

しかし、病にかかったこと自体は本当らしく、寄生虫によるものだったと伝えられます。清盛は病の床に延暦寺の明雲僧正を呼び、受戒・出家。法名を青蓮、後に浄海とあらためます。妻時子もいっしょに出家しました。仁安2年(1167年)2月11日のことでした。

「なに清盛が病。それはいかん」

後白河上皇は平清盛の病気平癒のためにさまざまの祈祷を行い、天下に大赦を行いました。

高倉天皇の即位

仁安3年(1168)2月19日、5歳の六条天皇は8歳の憲仁親王に譲位し、憲仁親王は高倉天皇となります。

わずか5歳で、元服も待たずに譲位した例は史上はじめてでした。こんなにも譲位を急いだのは、平清盛が病にかかったためか、後白河に反抗的だった二条天皇の子の六条天皇をかついで天皇親政派が盛り返すのを警戒したことなどが考えられます。いずれにせよ六条上皇は上皇といっても直系の子孫に譲位したわけではないので将来院政を行うことはできません。

後白河は二条天皇との確執がひきずっているせいか、六条天皇にはさほど愛着を感じていなかったようですね…六条天皇はこれより8年のちの安元2年(1176)7月、病を得て13歳で亡くなります。ここに鳥羽法皇の「二条の血筋を直系として立てよ」という遺言は潰えたことになります。

新帝高倉天皇はいまだ8歳。成人するまでは十分に時間がある。後白河はいよいよ水を得た魚のように、その院政体制を強化していきました。とはいえ自らの院政体制は、平家一門によって軍事面を支えられているのだと、後白河はじゅうぶんに理解していました。平家一門を欠けてはみずからの権力地盤は成り立たない。それを強く自覚していました。

よってしばらく、後白河と清盛はじめ平家一門の協力関係が続くことになります。

今様への熱意、衰えず

こうした慌ただしい情勢下においても、後白河の今様への熱意は少しも衰えませんでした。

遊びをせんとや生れけむ
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声きけば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ
(『梁塵秘抄』359)

現在、今様はいくつかの節回しで歌われていますが、中にも「越天楽今様(えてんらくいまよう)」が有名です。京都市東山区の法住寺では毎年10月第二日曜日に、「今様合の会」が開かれており、実際に聴くことができます。

高倉天皇即位の翌年の嘉応元年(1169)、後白河は『梁塵秘抄口伝集』の編纂を行いました。40年来の今様への没頭をつづったものです。

そのかみ十余歳の時より今にいたるまで、今様を好みて怠ることなし。遅々たる春の日は、枝に開け庭に散る花を見、鶯の啼き郭公(ほととぎす)のかたらふ声にもその心を得、蕭蕭たる秋夜、月をもてあそび、虫の声々にあはれを添へ、夏は暑く冬は寒きをかへりみず、四季につけて折をきらはず、昼はひねもすに歌ひくらし、夜(よ)はよもすがら歌ひ明かさぬ夜はなかりき。夜は明くれど戸・蔀を上げずして、日出づるを忘れ、日高くなるをしらず、その声小止まず。おほかた夜昼を分かず、日を過ぐし月を送りき。

『梁塵秘抄口伝集』巻第十

次回「後白河上皇(八)出家」に続きます。

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解説:左大臣光永