後三年の役(三)雁の乱れ

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こんにちは。左大臣光永です。

今日は近くの大将軍八(だいしょうぐんはち)神社の例祭(天門祭)でした。大将軍八神社は桓武天皇が平安京遷都にあたって王城鎮護のため奈良の春日社を勧請した神社です。

神輿行列がホイットー、ホイットーの掛け声とともに町中を巡礼し、お旅所までを進むのです。よく晴れていたので、真っ青な空と一条通の向こうの丹波の山々を背景として、金色の神輿がよく映えて見えました。

祭りは、よいですね。

本日は「奥州後三年の役(三)雁の乱れ」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Go3_3.mp3

第一回・第二回もあわせてお楽しみください。
http://history.kaisetsuvoice.com/Go3_1.html
http://history.kaisetsuvoice.com/Go3_2.html

源義家像 府中
源義家像 府中

出陣

寛治元年(1087年)。

弟の新羅三郎義光が到着したことで、いよいよ義家軍は力を増していました。しかし義家は慎重でした。昨年の沼柵(ぬまのさく)の戦いでは寒さと飢えのため、多くの味方を死なせたのです。今度こそ、そんなことは避けないといけません。

春が過ぎ、夏が来て、秋九月。ようやく義家は出陣を決意します。

「兄上、いよいよケンカですな」

いきり立つ弟の新羅三郎義光。

義家の家来で80歳の大宅光任(おおやけみつとう)は、義家の馬に取りすがり、取りすがり、高齢のため戦いに加われない悔しさを切々とのべます。

「殿…口惜しゅうございます。口惜しうございます。」

「おお、おお、そちのぶんも戦ってくるからな」

それを見て回りの者も、みな涙に袖をぬらします。義家は、光任をいたわりながらも、気を取り直し高らかに宣言します。

「出陣じゃ」

時まさに九月。義家率いる数万騎の軍勢は馬もとどろに大地を踏み鳴らし、目指すは一路、敵のたてこもる金沢の柵…。

伏兵を知る

「ここから先は、よくよく注意してすすめ。どこに敵がひそんでいるかわからぬ」

義家率いる軍勢は、金沢の柵のふもとの野道を進んでいきました。その時、

はるかの空を雁の群れが飛んでいく…と見ていると、いきなり列が乱れ、雁は四方に飛び散っていきました。

「雁の列が乱れた…」

その時、義家は思うことがありました。

「大江匡房殿が教えてくださった『孫子』にはこうあった。雁の群が乱れるのは、伏兵がいる証拠だと。たれかある。そのあたりの草むらを、探索してまいれ」

「ははっ」

ザッ、ザッ、ザッ、ザザッ!

「ああっ!」「ぬおっ!」

草むらの中に三十騎ばかりの敵兵を発見しました。家衡・武衡が、あらかじめひそませておいたものでした。

「おのれ、なぜわかった」

「死ね」

ドス、ドスッ、ドス、ドスッ…

義家の部下は、たちまち伏兵を射殺してしまいました。

『孫子』と義家

義家が兵法を学ぶようになったことにはいきさつが伝えられています。若い頃、義家は関白藤原頼通の館に招かれて、貴族たちの前で先の前九年合戦での武勇を話していました。

階の下にひざまづいて、敵将・阿部貞任を攻めた時のことを生き生きと物語る、若き日の義家。ほう…ほうほう!集まっていた貴族たちは興味しんしんで聞き入っていました。義家も語っているうちに、興奮してきます。

その時、学者である太宰権師大江匡房がつぶやきました。

「義家殿はなるほどあっぱれ武勇の者じゃが…惜しいことに兵法というものを知らぬ」

義家の郎党がこれを耳にして、ムッとしてこの後すぐに義家に報告します。

「義家さまほどの武人に対して、学者風情がよくもああ言えたものですよ。戦のことなど何もわかっちゃいないくせに」

むこうは戦など経験もない学者。しかも義家より2歳年下です。義家の郎党が腹を立てたのも無理のないことでした。

しかし義家は思うところがありました。義家はその日の会合が終わるまで待ち、他の貴族たちと共に廊下をしずしずと渡っていく大江匡房の姿を認めると、階の下からはるかに会釈をします。

匡房は立ち止り、義家に会釈を返すと、にっこり笑って声をかけます。

「義家殿、兵法に興味があるかね」
「ございます」

こうして義家は大江匡房の門を叩き『孫子』をはじめとする兵法書を学び、武勇だけでなく兵法も身に着けた立派な武人となったという話です。もっとも説話に属することで、歴史的事実とは思えませんが…

源義家と雁の列

将軍のいくさ、すでに金沢の柵にいたりつきぬ。雲霞(うんか)のごとくして野山をかくせり。一行の斜雁(しゃがん)の雲上(うんじょう)をわたるあり。雁、陣たちまちにやぶれて四方(よも)にちりてとぶ。将軍、はるかにこれをみてあやしみおどろきて、兵をして野辺をふましむ。案のごとく、叢(くさむら)の中より、三十余騎の兵を尋(たずね)えたり。これ、武衡かくしをけるなり。将軍の兵、これをいるに、かずを尽して得られぬ。義家の朝臣(あそん)、先年宇治殿へ参じて貞任(さだとう)をせめし事など申けるを、江師(ごうのそつ)匡房卿たちきゝて、「器量はよき武士(もののふ)の、合戦の道をしらぬよ」と独ごち給けるを、義家が郎党等聞て、「わが主(しゅう)ほどの兵(つわもの)をけやけき事いふ翁(おきな)かな」と思つゝ、義家に此由(このよし)をかたる。義家、れを聞て、「さる事もあるらむ」とて、江師(ごうのそつ)の出られける所によりて、ことさら、会釈しつゝ、其後(そののち)、彼(かの)卿(きょう)にあひて文をよみけり。義家は「われ文のみちをうかゞはずば、こゝにて武衡(たけひら)がためにやぶられなまし」とぞいひける。兵、野に伏ときに、雁、つらをやぶるといふこと侍(はべる)とかや。

『後三年合戦絵詞』より

大江匡房は百人一首に歌を採られている歌人でもあります。

高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞たたずもあらなむ

兵糧攻め

こうして金沢柵にたてこもる清原家衡・武衡連合軍への攻撃が始まります。難攻不落の金沢の柵は簡単に落とせるものではなく、かなりの苦戦が予想されました。そこで吉彦秀武の提案により、兵糧攻めを行います。

金沢の柵
金沢の柵

義家軍と清衡軍は手分けして金沢の柵を取り囲みます。金沢の柵に立てこもる敵は兵糧攻めと見てしばしば出てきて挑発しますが、義家・清衡連合軍は軽く刃を交えるばかりで、相手にしませんでした。このまま包囲を続ければ戦わずして金沢の柵は落ちる。

しかし、義家には一つ心配がありました。雪がふることです。

次回最終回「金沢柵の戦い」です。お楽しみに。

京都講演のお知らせ

■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永

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