後三年の役(一)八幡太郎義家

こんにちは。左大臣光永です。

先日は久々に晴れたので、泉涌寺に行ってきました。泉涌寺は京都駅の南にある、皇室の信仰篤い寺です。手前から仏殿・舎利殿という二つの建物が並ぶんですが、その舎利殿のほうで、なにか近代アート?の展示会をやってました。

ちょっとよくわからない絵とか彫刻がたくさん展示してありました。古い襖絵や雲龍図と共に、そういった現代アートが並んでいるのが、妙な感じでした。

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源義家像 府中
源義家像 府中

本日から四回にわたって、奥州後三年の役についてお話しします。

後三年の役は、平安時代後期の永宝3年(1083)から寛治元年(1087)に奥羽で起こった戦いです。奥羽の豪族・清原氏の内紛に陸奥守・源義家が介入したことにより戦乱は5年間に及びました。

義家は清原氏を激戦の末に滅ぼしますが、朝廷からは私の戦いとみなされ、義家は何の恩賞も得ることはできませんでした。一方、義家に協力した藤原清衡は、戦後、奥州藤原氏の初代となり、以後4代にわたる繁栄の礎となりました。

奥州の覇者・清原氏

11世紀。

陸奥国の俘囚の長・阿部氏が陸奥の国司と対立し、前九年の役とよばれる戦いが始まりました。戦いは十二年間に及びますが、源頼義・義家ら朝廷軍が、出羽国の豪族清原氏の助けを得て、阿部氏を滅ぼしました。

この戦いの後、清原氏惣領・清原武則(きよはらのたけのり)は阿部氏を亡ぼすに力を貸した功績により、鎮守府将軍に任じられます。

また、これまでの山北三郡(せんぽくさんぐん)に加え、阿部氏が所有していた広大な奥六郡(おくろくぐん)の領土を与えられます。こうして、清原氏は奥州の広大な地域を所有する大豪族として君臨することとなりました。

前九年合戦・後三年合戦 関係地図
前九年合戦・後三年合戦 関係地図

それから20年。

武則の孫の真衡(さねひら)が清原氏惣領の地位に立っていました。真衡は先祖伝来の地盤を受け継ぎ、四方に名をとどろかせていました。しかし真衡には子がありませんでした。そこで、陸奥国南部に勢力を持つ海道平氏の平成衡(なりひら)を養子として迎え、源頼義の娘をその妻として迎えることになりました。

清原氏
清原氏

後三年合戦の始まり

『奥州後三年記』によれば…

永保3年(1083)、清原氏長老・吉彦秀武(きみこのひでたけ)は、清原氏惣領・真衡の館の庭先で怒りをたぎらせていました。

「ええい。いつまで待たせる気じゃ。人を舐めくさりおって…」

この日、吉彦秀武は真衡の養子・成衡が結婚するというので、引き出物として砂金を持ってきたのでした。朱塗りの盆に砂金を盛って、頭の上に掲げてきました。すぐに座敷に通されるかと思いきや、吉彦秀武は何時間も無視され、待たされることとなりました。

その頃、奥の座敷では。

「真衡さま、さきほどから吉彦秀武さまがお待ちです。そろそろお目通りのほどを」

「ううん?ああん、今大事なところだ」

パチリ…パチリ…

真衡は大の囲碁好きでした。

この日も知り合いの坊主と囲碁に興じていたのでした。

「ええいもう。やっておれんわ!!」

ドザァッ

引き出物として持ってきた砂金を庭にぶちまけて、帰ってしまいました。

「なに?ワシの息子のめでたい結婚だというのに。なんたる無礼。そのような者、ほっておくとロクなことにならんわ!攻め滅ぼしてくれよう」

…これが『奥州後三年記』の伝える後三年合戦の始まりです。

しかし実際には砂金をひっくり返しただけで戦が始まったのではないでしょう。清原の棟梁たる真衡の養子成衡は平氏の子です。そこに源氏の娘と結婚させることによって、将来清原氏の血筋が完全に途絶えてしまう。それに反発した清原氏同士の争いから起きたことでしょう。

清原氏の内紛

「たたっ…大変です。真衡が軍勢を率いて攻め寄せてきます!」

「ぐぬぬ…。真衡に攻められれば非力なわがほうは、とうてい耐えられぬ。ここは、家衡殿と清衡殿にお味方を頼もう」

ドカカッ、ドカカッ、ドカカッ

吉彦秀武はすぐさま、家衡・清衡のもとに密書を送ります。

家衡・清衡は真衡の兄弟で、日ごろから真衡のわが物顔なふるまいに我慢ならぬものがあったようです。そこで、吉彦秀武は、家衡・清衡ならば味方となって、真衡と戦ってくれると、ふんだのでした。

清原氏
清原氏

「どうか私と共に、戦ってくだされ」

書状を受け取った家衡と清衡は、

「うむむ。同族の危機。捨て置けぬ」

すぐさま兵を挙げます。

真衡が吉彦秀武の館に攻め寄せた留守を、家衡と清衡が襲います。

ヒュン、ヒュン、ヒュン

ゴオーーー

燃え盛る真衡の館。

「館に敵に攻め込まれました!!」

「ぐぬうう…クズ同士手を結びおったな」

地団太をふむ真衡。

真衡は、出羽に秀武、陸奥に家衡と清衡。両面から敵に囲まれ、身動きが取れなくなってしまいました。

源義家の着任

そんな中、陸奥の新国守として源義家が赴任し、多賀城に入りました。

源義家像 府中
源義家像 府中

多賀城阯
多賀城阯

源義家は先の合戦、前九年合戦で功績を立てて以来、白河天皇に重く用いられていました。天皇行幸に際して、身辺警護を命じられたり、またこの頃、延暦寺や興福寺、三井寺の悪僧(僧兵)たちが「強訴」といって無茶な要求をつきつけて都に押し寄せ暴れていました。

また寺同士でも争っていました。義家はこうした悪僧が騒ぎを起こした際に鎮圧を命じらていれました。先の前九年合戦の時は20代の若者でしたが、今や男盛りの44歳です。

敵に囲まれ、どうにも身動きが取れなくなっていた真衡は、

「そうじゃ。この際、義家殿の武略におすがりしよう」

真衡は多賀城に使いを出し、吉彦秀武・家衡・清衡の連合軍と戦ってくれるよう、頼みました。

「殿、いかがなされますか」

「捨て置くわけにはいくまい。すぐさま兵を率いて、真衡殿にご助力いたそう」

こうして、源義家は清原真衡を助けて、吉彦秀武・清原家衡・清衡の連合軍と戦うことになります。

「後三年の役」のはじまりです。

次回、「新羅三郎義光の着陣」です。お楽しみに。

■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
http://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html

第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

解説:左大臣光永


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