鑑真和上の来日
「釈迦 伝説と生涯」オンライン版
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本日はこの「釈迦 伝説と生涯」に関連して、「鑑真和上の来日」についてお話します。
奈良時代、唐の鑑真和尚は日本からの招きに応じて、五度の失敗を経て日本にわたり、仏教の戒律を伝えました。その命がけの旅路を語ります。
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受戒制度の必要性
大陸から伝わった仏教は国家の保護のもと広まっていきましたが、それに連れて質の悪い僧侶も増えてきました。
酒を飲む、女とたわむれる、そればかりか、ロクにお経を読めないものもありました。なぜこんな事が起こったのでしょうか?
それは僧侶になると一般の戸籍から抜けて僧侶の戸籍に移され、課税を免除されることになっていたため、税をのがれたい一心で形ばかりの僧になる者が増えたのです。
もちろん律令によって僧侶になれる資格は定められていましたが厳密なものではなく、勝手に剃髪して僧を名乗る者もいました。
本来、僧になるための具足戒という儀式は、とても厳密な決まりがあります。「三師七証」といって最低十人の僧の立会のもと、男子なら250戒、女子なら348戒もの戒律(道徳的な規範と、僧が守るべききまり)を示されて、はじめて正式な僧になれるのです。
しかし日本ではこうした正式な具足戒を授けられる僧(戒師)がおらず、僧になるための基準は、なあなあになっていました。そこで奈良の政府は考えました。
「僧侶に、受戒をさせることのできる、
しっかりした資格のある僧が必要だ」
栄叡・普照 唐へ
中国へ向かう使者として栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)という二人の僧が選ばれます。栄叡は美濃の出身で興福寺の僧。普照は出身不明で興福寺か大安寺の僧というほか、経歴はわかっていません。
天平5(733)4月3日、多治比広成(たじひのひろなり)を大使とする(第10回?)遣唐使船団が難波津を出発し中国へ向かいます。四隻の遣唐使船に分かれて数百人が乗りこみます。その中に栄叡と普照の姿もありました。
船団は瀬戸内海を経て関門海峡を抜け、まず博多につきました。
当時、日本は新羅と争っていたので朝鮮半島西岸を北上する「北路」は取れず、東シナ海から揚子江河口を目指す「南路」が取られました。
栄叡・普照、洛陽へ
遣唐使船団は途中、暴風雨にあうも、733年8月に蘇州に到着。隋の煬帝の築いた運河を北上し、黄河を上り、翌734年の4月、洛陽に到着。玄宗皇帝に貢物をたてまつります。
この頃、玄宗皇帝は一時的に長安から洛陽に移っていました。それで長安でなく洛陽で拝謁することとなったようです。
すでに遣唐使として唐にわたっていた吉備(下道)真備・阿倍仲麻呂・僧玄昉らも、玄宗皇帝にしたがって洛陽に来ていたと思われます。特に阿倍仲麻呂は玄宗皇帝のもと高級官僚として働いていました。当然、吉備真備・阿倍仲麻呂・玄昉らは今回の遣唐使一行と、連絡を取り合ったことでしょう。
栄叡・普照は洛陽滞在中、大福先寺の僧・定賓(じょうひん)から具足戒を授けられます。具足戒とは僧になるために最低10人の僧の立会のもと、「戒律」守るべき規範を授けられることです。
遣唐使船の帰国
734年10月、遣唐大使、多治比広成らは任務を終えて帰国の途につきました。下道真備・僧玄昉も多治比広成の船団に同船しました。唐の僧である道璿(どうせん)も乗り込みました。一行は嵐で東南アジアまで流されるという苦難をなめながら、天平8年(736)、日本に着いています。
しかし栄叡・普照は唐にとどまりました。日本に来てくれる戒律僧を探す、という任務が残っていたためです。
今回の遣唐使では唐僧道璿(どうせん)を招くことには成功しました。それは大きな成果でした。
しかし、まだまだ足りませんでした。
正式な具足戒には「三師七証」といって、最低でも十人の僧の立会が必要です。一人二人来てもらうだけでは、どうにもならないのです。さらに戒律の師を招く必要がありました。
滞在九年
栄叡・普照は洛陽や長安で勉強しつつ、日本に来てくれる戒律僧を探しました。そうこうしているうちに九年近い歳月が経ってしまいます。
この間、二人は唐王朝から禄を支給されていたと思われます。しかし九年がすぎると唐の戸籍に編入され外交特権を失います。自由に行動できなくなります。期限は迫っていました。
栄叡・普照は話し合いました。
「我々は戒律僧を招くために来たのだから、むなしく時を過ごすべきではない」
そこで、次の遣唐使を待つのではなく、自力で帰国しようということになりました。さいわい、九年間の滞在中、何人かの同志ができていました。唐僧の澄観、徳清、朝鮮僧の如海、日本の留学僧玄朗・玄法です。これらの面々が日本に来てくれれば、戒律を授けるための「三師七証」には足ります。目的は達せられるのです。
ただし唐王朝はわたくしの渡航を禁じているので、密出国ということになります。
さて、揚州に名高い高僧鑑真の噂を、ふたりは耳にしていました。
これを機会に音にきく鑑真和上を訪ねてみよう。もしお弟子さまの一人でも日本に来てくださるなら…栄叡・普照はそう考えました。
鑑真 その経歴
鑑真は688年揚州江陽県に漢の時代からつづく旧家に生まれました。先祖には『史記』「滑稽伝」に登場する淳于髠(じゅんうこん)がいます。淳于髠は弁舌が立ち、諸侯の間を取り持って回った人物です。
14歳の時父親と地元揚州の大雲寺(所在地不明)に行った際、仏像の美しさに心打たれ、その場で僧になることを決意したといいます。
ちょうど、仏教びいきの則天武后のもと、天下に僧になることが奨励されていました。僧を志す者には、いい時代が来ていました。
ちなみに大雲寺は揚州にだけあった寺ではなく、則天武后の命令で中国各地に官製の寺が建てられました。それらをすべて大雲寺といったのです。このシステムは、後に日本でも国分寺・国分尼寺という形で採り入れられます。
鑑真は父が師事していた智満禅師について修行し、沙弥となりました。沙弥とは剃髪しているものの、本格的な僧になる前の段階です。仏教者として守るべき10の戒律を守るだけでいいのです。
18歳で光州の僧道岸から菩薩戒を授けられます。菩薩戒とは仏教者として必要な戒律(いましめ・決まり)を受け、他者のために修行する「菩薩」になることを誓う儀式です。基本的な戒めである「五戒」をはじめ、五十二の戒律が授けられました。
21歳で長安に入り実際寺の戒壇に登って具足戒を受けます。
具足戒とは小乗仏教の戒律で、前の菩薩戒よりずっと細かく、やかましいものです。この具足戒を受けると、「沙弥」から「僧」になります。俗世を離れ、僧団に入って修行生活に入るのです。その修業生活における細々した決まりが、具足戒です。戒壇とは具足戒の儀式を行う、壇のことをいいます。
以後、鑑真は長安や洛陽で高僧たちから「経・律・論(注釈)」…仏教全般を学びました。
26歳の時、故郷揚州に帰ってはじめて僧侶たちを前に戒律の講義を行います。以後20年にわたって講義を行い、その見事な教えぶりと戒律を守っていることから「大和上、独り秀でて倫(ともがら)なし」といわれ、「江淮(ごうわい)の化主(けしゅ)」と仰がれます。
講義は430回に及び、鑑真が戒(菩薩戒や具足戒)をさずけた僧は、のべ4万人に及びました。またこれと並行して鑑真は仏像を作ったり、寺を建てたりしました。
鑑真を訪ねる
742年10月、栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)は揚州の大明寺(だいめいじ)へ行き、鑑真の足元に頭をつけて最敬礼し、言います。
「仏法が東に伝わり、日本にまで来ました。しかし法(おしえ)を説く人はいても、正しく戒律を伝える人がいません。日本には昔、聖徳太子という方がおられ、「二百年後に仏法が盛んになるだろう」と言われました。今がそのめぐり合わせの時です。どうか東国日本に渡り戒律を説いてくださる和上はおられませんか」
すると鑑真は言いました。
「南岳の彗思(えし)禅師が亡くなった後、日本の王子に生まれ変わり仏法を盛んにし衆生を救ったと聞いたことがある。長屋王という方は千領の袈裟を作って、中国の高僧たちのために送ってくださった。刺繍に「山川は域を異にすれども、風月は天を同じくす。諸(これ)を仏子(ぶっし)に寄せ、共に来縁(らいえん)を結ばん」とあった。してみると日本は仏法が盛んになるのに縁のある国である。誰か、この遠方から来られた方々のために日本国に向かい、仏法を伝えるものはいないか」
南岳の彗思禅師は中国南北朝時代の高僧で、中国天台宗の二代目とされる人物です。そして長屋王が送った袈裟にあったという言葉、
山川異域
風月同天
寄諸仏子
共結来縁
山川は域を異にすれども、
風月は天を同じくす。
諸(これ)を仏子(ぶっし)に寄せ、
共に来縁を結ばん。
日本と中国は山川は違えど
風や月は同じ天でつながっている。
これを仏の弟子に与え、
ともに來世での縁を結ぼう
「誰か、この遠方から来られた方々のために日本国に向かい、仏法を伝えるものはいないか」
ざわざわ…
皆は黙ってしまい、一人も返事をしません。その中に祥彦(しょうげん)という僧が、
「日本は果てしなく遠く、無事にたどり着くことは難しいです。日本と中国の間には大海が広がり、行き着く者は百人に一人もおりません。その上我々は修行も不十分で、満足な働きができないでしょう。それで皆、黙ってしまうのです」
鑑真が答えて言うことに、
「これは仏法のためにすることである。どうして命を惜しむことがあろうか。誰も行かないのであれば、私が行く」
祥彦が答えて、
「鑑真さまが行かれるのなら、お供いたします」
こうして鑑真と祥彦以下21名の僧が日本へ渡ることになりました。鑑真このとき55歳。
和上曰く、是(こ)は法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。諸人去(ゆ)かずんば、われ即ち去かんのみ。祥彦曰く、和上若(も)し去かば、彦(げん)も亦、随ひて去かん。
『唐大和上東征伝』
五度の渡航計画
742年、日本からの留学僧・栄叡(ようえい)と普照(ふしょう)の要請に応じて、日本へ渡ることに決めた鑑真一行。
しかし。
その航海は困難をきわめました。
そもそも唐の法律では国境を超えることを禁じていますので、密出国ということになります。
それでも第一回の渡航計画は、時の宰相李林甫(りりんぽ)の兄・李林宗(りりんそう)の口添えがあったのでうまく進んでいました。一行の中に加わっている道航という僧が李林宗の家に出入りしている縁で、つまりコネがあったのです。
天台宗国清寺に供養の品を届けるという名目で、船を準備して乾飯(乾燥食物)も積み込んだところ、仲間割れが起きます。
道航が、一行の中の新羅人の僧、如海に対して、お前のような修行の足りないものは来るなと非難したのです。如海はこれを深く恨みます。それで頭を頭巾で包んで僧であることを隠し、役所にウソの密告をします。道航という者が海賊と結託して悪さをしようとしていますと。
如海のウソにより道航・栄叡・普照は逮捕されました。しかし李林甫の口利きで密告はウソであることがわかると釈放されます。かえって密告した如海のほうが処罰されました。
第二回の渡航計画は鑑真の出した銅銭八十貫を元手に船と食料・物資を買い集め、出発しました。長江河口まで出たところで波に襲われ、なかなか船はすすまない。
なんとか外海に出たものの、船は破損してしまいます。船を修理し、下嶼山(かしょざん)という島(所在地不明)にとどまること一ヶ月。ついで桑石山(そうせきざん?)という島に向かったところ、船は座礁しました。一行は飢えと渇きにあえぎながら救出を待つほかありませんでした。
ようやく救出された一行は明州の阿育王寺(あいくおうじ)に保護されました。阿育王寺は日本ともゆかりの深い寺です。臨済宗の栄西が訪れていますし、鎌倉幕府の三代将軍実朝は渡来僧の陳和卿が「あなたは前世に明州阿育王寺の僧でした」といったので、中国に渡ると言い出して由比ヶ浜に船を造らせました。室町時代には雪舟が訪れて阿育王寺の絵を描いています。
第三回の渡航計画は、事前につぶされます。栄叡が鑑真和上を連れ去ろうとしているという訴えが役所にとどき、けしからんということで、栄叡は身柄を拘束されました。杭州で病死したということにして官憲の目をあざむき、ようやく逃げ出すことができました。
栄叡は間もなく阿育王寺にもどってきて、鑑真・普照とともに渡航の計画を練りました。
第四回は福州(福建省)からの渡航を目指します。あらかじめ弟子を福州に派遣して船や物資を調達させ、天台山に巡礼するのだと偽って、出発しました。
しかし険しい山々と吹雪にはばまれ、その道は容易ではありませんでした。しかも、やっと福州についたと思ったら、すぐに捕まってしまいます。鑑真が日本にわたることを惜しんだ弟子が、密告していたのです。
この間、鑑真一行は各地で律の講義をしたり、授戒式を精力的に行っています。おそらくこうした働きで得られたお布施を、渡航費用に当てていたのでしょう。
第五回の渡航計画は前回から五年後の749年に実行されました。揚州を出発し長江を下り、ようやく外洋に出ましたが、海蛇や飛魚、海鳥にはばまれ、流れ流れて海南島にまで至りました。
5回にわたる渡航はいずれも失敗しました。この間の苦労話は『大唐和上東征伝』や、それに基づく井上靖氏の小説『天平の甍』に詳しく書かれています。
栄叡の死と鑑真の失明
その間、栄叡は病にかかってしまいます。
栄叡「普照。俺はこれまでのようだ。鑑真さまを必ず日本へ」
普照「栄叡…栄叡ッ…!!」
749年、栄叡は端州(今の広東省西部)龍興寺で没しました。鑑真和上は「慟哭した」と書かれています。。
その間、鑑真はあまりに炎熱の地を通ったために目が見えにくくなっていました。西域出身の医者がいて目の治療をよくするというのでみせたところ、失明してしまいました。
程なく、一番弟子の祥彦も死にました。祥彦は一声念仏を唱え、姿勢をただして座ったまま、動かなくなりました。鑑真は「彦、彦」といって慟哭しました。
長旅の間、多くの弟子が亡くなったり、諦めて鑑真のもとを去っていきます。そんな中にも鑑真は各地で仏教の教えを説いてまわりました。
第十次遣唐使
天平勝宝4年(752)、遣唐使がふたたび派遣され長安に入ります。大使は藤原清河。副使は吉備真備・大伴古麻呂(おおとものこまろ)です。
遣唐使一行は玄宗皇帝に拝謁すると、鑑真和上と五人の僧の名を挙げて日本に招きたいと願います。
しかし玄宗皇帝は言いました。
「日本の君主は道教を崇めていない。道教の道士も連れて行け」
道教の道士も連れていくならば鑑真の渡航をゆるすという条件でした。しかし日本からすれば仏教の戒律は必要でも、道教などいらないのです。迷惑なおまけです。
結局、皇帝に許可をもらうことはあきらめました。
翌753年10月、遣唐使一行は揚州に入り、唐にいた阿倍仲麻呂をさそって、鑑真の滞在中の延光寺を訪ねます。
遣唐大使藤原清河・副使大伴古麻呂・吉備真備・阿倍仲麻呂らは鑑真に言います。
「私どもは大和尚が五度も日本に渡り仏教を伝えようとされたことを存じ上げております。このたび、和上が日本に戒律を伝えていただけるよう、中国皇帝に奏上しましたが、認められませんでした。願わくは和上、自ら手立てを講じていただきたいのです。私どもには物資を積み込む舟が四艘ございます。装備もじゅうぶんにございます」
「わかった」
753年10月19日、鑑真は夜ひそかに竜興寺を出て、船に乗り、蘇州の黄泗浦(こうしほ)という港に向かいました。そこで藤原清河らが船団を整えて、待っていました。
753年10月23日、藤原清河は鑑真らを遣唐副使船以下の三艘の船に分乗させました。
ところが全員乗せた後で藤原清河はこんなことを言い出します。
「当局が嗅ぎ回っている。もし密航者が発見されれば外交使節としてまずいことになる。また風に吹き戻されて唐国の領海に帰り着くようなことがあれば刑事問題になる」
そこでいったん乗った僧たちを全員おろし、留まらせることにしました。ここまで乗り気だったものの、よくよく考えたら自分の立場が悪くなるので保身に走ったのでしょう。
清河はそれでよかったのですが、遣唐副使・大伴古麻呂は違う考えでした。
(和上にお願いに上ったのはこちらではないか。それを直前になって断るとは、失礼にも程がある。大使がそれなら私にも考えがある)
11月10日の夜、
とととん…
窓を叩く者がありました。
「鑑真さま、鑑真さま」
「ん?そなたは…」
「遣唐副使をつとめる大伴古麻呂さまの使いの者です。
鑑真さま、すぐに抜け出してください。舟にお連れします」
「おお!それでは!」
鑑真一行は夜のうちに貨物にまぎれ、藤原清河には知らせないまま、遣唐使船に乗り込みます。鑑真一行は僧が14人、尼が3人いました。2日遅れの11月13日、明州から駆けつけた普照が、吉備真備の遣唐副使船に乗ります。
時に十五夜。空には満月がこうこうと輝いていました。阿倍仲麻呂は36年過ごした中国を去る感慨に包まれ、また故郷奈良の春日の里を思って、歌を詠みました。
天の原 ふりさけみれば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
11月16日、四艘の遣唐使船は同時に蘇州から出航しました。第一船に遣唐大使藤原清河が、第二船、遣唐副使吉備真備の船には普照が、第三船、遣唐副使大伴古麻呂の船には鑑真が、第四船には阿倍仲麻呂が乗っていました。
しかし。途中暴風雨が襲います。藤原清河の第一船は唐に吹き替えされ、阿倍仲麻呂の乗った第四船はベトナムまで流されました。
鑑真の乗った第三船は、12月20日、薩摩の秋麦屋浦(あきめやのうら。鹿児島県坊津(ぼうのつ)町秋目浦(あきめうら))にたどり着きました。普照の第ニ船は年を越えてから紀伊国の牟漏の崎(いまの潮岬)にたどり着きました。
742年に第一回の渡航計画を立ててから、延べ12年間、6回にわたる鑑真の航海は終わりました。参加者のうち36人が亡くなり、200人余りが心変わりして去っていました。はじめからのメンバーで初志貫徹して日本にたどり着いたのは、鑑真と、弟子の思託と、日本僧の普照の三人だけでした。
歓迎される鑑真一行
上陸後、鑑真以下24人は大宰府に入り、そのまま大宰府で年を越し、年明けて北九州から船出して、瀬戸内海を通って、天平勝宝6年(754)2月1日、難波津につきました。唐僧崇道と故大僧正行基の弟子・法義が鑑真らを迎え、接待しました。鑑真と同じ中国人に歓迎させたのは聖武上皇の気遣いだったでしょうか。
2月3日、河内国府に入ります。大納言藤原仲麻呂が使いをよこして歓迎しました。また多くの高僧たちが迎えにやってきて鑑真に拝謁しました。
2月4日、河内を後にした一行は竜田越を越えて大和をめざします。山道を下るにしたがって視界が開け、広々した盆地が広がって見えます。大和盆地です。平群(へぐり)の駅で一休みした後、左に法隆寺、法起寺、中宮寺などの堂塔の屋根を見ながら進んでいくと、やがて南北に走る広い街道に出ます。
下つ道
推古天皇の昔、聖徳太子が開いた下つ道です。南に進むと藤原京右京と畝傍山の合間に至り、北に進むと、平城京の南の入り口、羅生門に至ります。一行は北へ向かいました。
しだいに大きく見えてくる羅生門。門の外では、聖武上皇の勅命により安宿王(やすかべおう)が使いとして鑑真らを迎え、拝みました。安宿王は長屋王の息子で、母が藤原氏であったため長屋王の息子たちの中で唯一処罰されなかった人物です。この頃は長屋王の疑いもすっかり晴れ、安宿王は正四位下にまで至っていました。
鑑真らは東大寺に案内されます。東大寺南門では平城京の僧侶や役人たちがこぞって鑑真一行を迎えました。
東大寺南大門
東大寺別当良弁(ろうべん)が鑑真一行を大仏殿に案内します。そこには、つい昨年開眼供養を終えたばかりの金銅の盧舎那仏像が鎮座していました。
奈良の大仏
「これは聖武太上天皇が天下の人々を勧誘して造られた金銅の像で、高さが50尺もあります。唐にはこれほど大きな像はありますか?」
聞かれて鑑真は、通訳を通して、
「ありません」
と答えたと。
以後、鑑真一行は東大寺を当面の滞在場所とします。
翌2月5日、唐の僧、道璿(どうせん)律師、インドの僧、菩提僊那(ぼだいせんな)が慰問に訪れ、宰相・右大臣・大納言以下の役人たち100人あまりがご機嫌伺いをしました。
月が変わって三月になると、聖武上皇の勅使として吉備真備が来て、上皇のお言葉を伝えました。
「大徳和上は遠く海をわたり、この国に来られた。誠に朕の意にかなうものである。とても喜ばしい。朕が東大寺を建立して10年あまりが建つ。大仏殿の西に戒壇を建てて戒律を伝授したいと思っていた。そういう心を抱いてから、日夜忘れたことがない。。今、大徳らが遠方から来られ戒を伝えようとしている。誠に朕の意にかなっている。今後、戒を授けるることと律を伝えることは大和上に一任する」
その年の4月はじめ、東大寺の大仏殿前に戒を授けるための壇(戒壇)を設けました。まず聖武上皇が、ついで光明皇太后が、ついで孝謙天皇が菩薩戒を受けました。ついで430人あまりの沙弥(僧)が具足戒を受けました。これが日本発の登壇授戒です。
東大寺 戒壇院
5月1日、天皇らが授戒した壇の土を運んで、大仏殿の西側にあらたな戒壇院を築きました。治承4年(1180)平重衡の焼き討ち、永禄10年(1567)三好・松永の兵火で焼失し、現在の戒壇院は享保18年(1733)再建されたものです。
唐招提寺
その後、鑑真は数年を東大寺で過ごし、朝廷から天武天皇第五皇子・新田部親王(にいたべしんのう)の館跡(現奈良市五条町)を下されると、戒律を学ぶ僧が修行するための道場を築きました。後の唐招大寺です。
唐招提寺 金堂
はじめ鑑真和上は役人に招かれてこの地を訪れた時、土を舐めから、弟子の僧に「この地には福がある。寺を建てるのによい」そう言ったと伝わっています。
鑑真は唐招大寺で静かに余生を過ごしました。天平宝字7年(763)の春ごろから、体調がすぐれなくなります。
天平宝字7年(763)5月6日、鑑真は唐招提寺の宿坊にて、西に向かい端座したまま、息を引き取りました。享年76。死んで3日経ってもまだ体温が感じられたので葬らず、後に火葬に付した時には山に香気が満ちたといいます。
鑑真和上の墓 唐招提寺内
唐招提寺には平城京の宮殿から移築した講堂、金堂や宝蔵…歴史的建造物の数々が、天平文化の息吹を今日に伝えています。金堂は鑑真の没後に建てられましたが、唯一現存する奈良時代の金堂です。
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人はどうせ死ぬのになぜ生きるのか?
釈迦の伝説と生涯を全30話にわたって解説するものです。