藤原基経 関白太政大臣に就任

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藤原良房から藤原基経へ

872年9月。

太政大臣・藤原良房が亡くなります。享年69。藤原氏による摂関政治のいしずえを築いた業績はまことに大きなものでした。良房のなきがらは京都白河に葬られます。

その死を悼んで、素性法師が詠んだ歌…

血の涙 落ちてぞたぎつ 白河は
君が世までの 名にこそありけれ
素性法師

「義父上…やすらかに御休みください。
あとはこの基経が引き継ぎます」

良房のあとを継いだのは、良房の甥であり養子である基経(もとつね)でした。良房には文徳天皇にとついだ明子(あきらけいこ)のほかに実子がいなかったので、分家の男子の中から後継者を選んだのでした。

良房から基経へ
良房から基経へ

応天門の変(866年)では伴善男(とものよしお)に攻撃されて境地に立たされた源信(みなもとのまこと)を弁護して辣腕をふるい、政治家としての有能ぶりを証明しました。良房の亡くなる直前に右大臣になっていました。

基経は良房にひきつづき、幼い清和天皇の摂政となり、政治をおしすすめます。清和天皇はわすがに15歳。15歳で何をできるわけでもなく、実際には政治向きのことはほとんど基経が決めていました。

清和天皇の憂鬱

その清和天皇ですが、深いユウウツに心を捉えられていました。

応天門の炎上をはじめとして、大内裏では多くの建物が原因不明の火事によって焼けていました。また地震が続き、咳風(がいふう)が流行し、世は不穏な空気で満ちていました。

「世の徳の至らぬせいである。世は帝位にふさわしくないのかもしれぬ…」

その上、皇位継承にやぶれた義理の兄・惟喬(これたか)親王が、出家して洛北の小野に隠棲したことも、清和天皇のお心を強く痛めました。

惟喬親王は父文徳天皇の寵愛ことに深い第一皇子で、当初だれもが惟喬親王こそが次の天皇になると思っていたのです。そこへ、藤原氏を外戚に持つ第四皇子の惟仁親王が、藤原氏の強い後押しによって清和天皇として即位したのでした。

惟喬親王
惟喬親王

失望した惟喬(これたか)親王は出家して洛北の小野に隠棲。素覚(そかく)と名乗っていました。惟喬親王の歌が伝わっています。

白雲の 絶えず棚引く 峰にだに
住めば 住みぬる 世にこそありけれ

聡明な惟喬親王に同情する声は世に多くありました。親王さまもお可哀想に。藤原のやつらの横槍さえなければと。歌人の在原業平も、惟喬親王が在俗の頃から惟喬親王に仕え、出家後も交流を持った一人でした。

また清和天皇ご自身も、惟喬親王の出家について深くお心を痛めます。

「私などより兄上のほうがずっと帝位にふさわしかったのだ。
それなのに私ごときが、藤原氏の後押しで、帝位についてしまった。
ああ…兄上に申し訳がない」

若い清和天皇は日に日にご自分を責め、追い詰めていかれます。

清和天皇から陽成天皇へ

876年(貞観18年)11月。

ついに清和天皇は27歳にして位を降り、皇太子の貞明(さだあきら)親王に譲位。貞明親王が陽成天皇として即位します。9歳の天皇です。

藤原基経が幼い天皇の摂政に任じられます。

「基経、わが子…いや、新しい天子のこと、よろしく補佐してくれよ」
「ははっ、上皇さま、お任せください」

基経の義父良房も清和天皇の摂政をつとめましたが、それは文徳天皇が若死にしたため、やむなく幼い清和天皇を即位させたためでした。

今回は、それとはまったく状況が違っています。清和天皇ははじめから、藤原基経を摂政に任ずることをあてにして幼い陽成天皇に譲位したのでした。

つまり、幼帝の即位と藤原氏の摂政就任。この二つがセットになって、早くもシステム化されつつあったことを示しています。

藤原良房と藤原基経、摂政
藤原良房と藤原基経、摂政

清和上皇の晩年

譲位した清和上皇は早くから真言宗に帰依していましたが、ついに鴨川の東粟田院にて髪をおろし、仏門に入りました。

「兄上…私のことを許してはくれないでしょうね…。
せめて兄上のために、念仏を上げさせてください…」

清和上皇は、自分との皇位継承にやぶれ出家した義理の兄・惟喬親王のことをずっと気にかけていたのでした。清和上皇を仏の道に導いた要因として、義兄惟喬親王への罪悪感が大きかったようです。

以後、清和上皇は仏道修行のうちに過し、880(元慶4年)鴨川東の円覚寺(粟田院を後に改名したもの)にて31歳で亡くなります。

(円覚寺は応永27年(1420)年に焼失し、洛西嵯峨水尾(さがみずお)の水尾山寺(みずのおさんじ)にうつされました。その後水尾山寺と円覚寺の名を並行にして名乗り続けますが、円覚寺の名だけが残り、今に到ります。清和天皇陵もすぐ近くです)

陽成天皇と藤原基経の不仲

一方、即位した陽成天皇と摂政藤原基経の関係は、始めは良好でした。

「叔父上、政治のことは、私はよくわかりません。
よろしくお願いしますね」

「この基経にお任せください。何も心配はいりませんよ」

陽成天皇の母高子(たかいこ)は藤原基経の妹であり、したがって陽成天皇にとって藤原基経は叔父にあたることもあり、二人の関係ははじめ良好だったのです。

陽成天皇と藤原基経
陽成天皇と藤原基経

しかし、二人の仲はすぐに決裂します。

清和天皇の亡くなる直前の880年、基経は太政大臣に任じられていましたが、882年、突如太政大臣をやめたいと言い始めます。

「基経、なにを言い出すのが。そちがいなければ政治は立ち行かない。
考え直してくれぬか」

「何を考え直すのです。もう決めたことです」

「そんなわがままが許されるか!」

「わがまま。そうおっしゃるなら、陛下こそわがままでは
ないですか」

「なにっ、余のどこに不満があると申すのか!」

太政大臣藤原基経と陽成天皇の不仲の原因は何なのか?

たしかな資料は伝わっていません。

ただ一説によると陽成天皇は脳に異常があり、奇行が多かったと言います。

ある時、陽成天皇の乳母の子である源益(みなもとのみつ)が殿上で殺害されますが、犯人は天皇であろうと噂されました。また天皇は馬を愛好し宮中で飼わせたといいます。それを知った藤原基経は、天皇に相談もせず馬を追い出したということです。

殺人事件以来、宮中に陽成天皇の味方もいなくなり、みなが藤原基経になびきました。

「そうかそうか。私は必要ないってことだな。
ふん。ふんっ!」

陽成天皇はふてくされて、引きもこもってしまい、公務にも顔を出さなくなってしまいました。さすがに困って藤原基経が呼びに来ると期待したかもしれません。しかし基経は無視し続けました。基経から陽成天皇への、無言の圧力といえました。

「よくわかった。私は天皇にふさわしくないということだな…」

根負けした陽成天皇はついに譲位します。

884年(元慶8年)2月のことでした。

光孝天皇の擁立

「さて、御譲位ということになれば、
早急に次の天皇を決めなければなりません。
誰に決めたものでしょうか」

藤原基経は太政官の官人たちを集めていちおう、意見を求めますが、誰を次の天皇にするか、基経の中ではすでに決まっていました。

3代前の仁明天皇とその夫人沢子との間に生まれた、第三皇子の時康(ときやす)親王です。また藤原基経の母乙春と時康親王の母沢子は姉妹の関係でもありました。

時康親王、この時点で55歳の高齢であり、性格はいたっておだやか。自己主張の激しい人物ではありませんでした。藤原基経は自由に操れそうでした。基経にとって、おいしすぎる人事といえます。

時康親王(光孝天皇)
時康親王(光孝天皇)

「ご異存はあるまいな!」

ぐるり、官人たちを見渡す藤原基経、誰も反論する者はいないと思われたその時、

「待たれよ」

声を上げたのは、左大臣源融でした。源融は嵯峨天皇の皇子ですが臣籍に降下して源姓を名乗っていました。鴨川のほとりに広大な邸宅を築き風流の限りをつくしたので「河原左大臣」の異名で知られます。その、河原左大臣・源融が発言します。

源融
源融

「近き天皇の皇子ということであれば、
この融も条件にあうはず」

ざわざわっ…沸き立つ周囲。しかし、藤原基経は言いました。

「一度臣籍に降下したものが、即位したという先例があるのか」

「ぐぬぬ…」

これには反論のしようもなく、源融は意見をひっこめた…という話が『大鏡』に記されています。

こうして、

元慶8年(884)2月、光孝天皇が即位しました。光孝天皇は即位直後に、伊勢斎宮と賀茂斎院となっていた皇女をのぞき、すべての皇子・皇女に源の姓を与えて臣籍に下しました。

これは自分が亡くなっても、自分の血統から天皇は出さない、という意思表示でした。

即位時点で55歳の光孝天皇は、ご自分の命が長くないことを感じ、自分の死後起こりうる争いの種をあらかじめ省こうとされたのでしょう。

「わしはもう年じゃ。政治のことは基経にまかせる」
「ははっ」

光孝天皇は直接政治にかかわることは殆どなく、太政大臣藤原基経に政治を一任しました。さらに基経は史上初の関白に就任し、藤原氏の権力を拡大していきます。

次回「阿衡事件」に続きます。

解説:左大臣光永

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