徳川吉宗(六)享保の改革(三)

享保の改革の成果

享保の改革により、幕府の財政は一時、立ち直りました。享保13年(1728)には四代将軍家綱以来、65年間途絶えていた将軍の日光東照宮参詣が復活しました。財政に余裕が出てきたあかしです。

享保15年(1730)ころまでにはあらたに百万両が国庫に蓄えられ、同年、上米の制が廃止されました。

ところが、そうなると今度は別の問題が起こってきました。

米相場の下落

大坂における米相場の下落です。

大坂堂島の米相場は全国の米の値段に影響を及ぼす重要なものです。ことに米で給料をもらう旗本大名にとっては、米相場の下落は深刻な問題でした。

そこで幕府は米の買い占めを行い、米相場を意図的に釣り上げようとしました。

また、それまで禁止してきた米の空売りを許可して米の流通をさかんにしようとします。

米は現物取引が鉄則でした。現物のない米手形を受け渡しすることを「米の空売り」とか「空米(くうまい)」とかいって、幕府は厳しく罰してきました。

しかし、米のやり取りを活発にするために、空売りも黙認するようになりました。

また幕府は公設の取引所をつくって、米相場を故意に引き上げようとしました。

これはうまくいきませんでした。堂島の米の仲買人たちの反発を買い、立てるたびに潰されました。

吉宗は米相場の動きを逐一、こまかく監視させました。「米将軍」とは吉宗の異名です。死後、吉宗の遺品の中から米相場に関するメモが出てきました。米にトコトンこだわり抜いたことから米将軍とまで呼ばれたのです。

しかし幕府の努力にも関わらず、米相場は下落の一途をたどります。ついに最高時の四分の一の価格となりました。武士の暮らしは追い詰められていきました。

享保の大飢饉

幕府は途方に暮れます。

「もうお手上げだ。どうやったら米相場は上がるんだ」

しかし。事態が一変します。

享保17年(1732)夏、瀬戸内海沿岸でイナゴが大量発生。これに伴い西日本では不作となり、罹災者265万人、このうち餓死者1万2千人という、記録的な大飢饉となりました。

享保の大飢饉です。

すると、享保17年の暮から、あれほど余っていた米が不足し、米相場がガンガン上がっていきます。困ったのは庶民です。

「今に米が買えなくなる」「今のうちに買っとかなくちゃ」

その心理が、人々を米買いに走らせ、さらに米価が釣り上がるという結果となりました。

幕府は米商人によびかけて、蓄えている米を売りに出すよう求めましたが、効果はありませんでした。

庶民の間に不満が高まります。

「米の値段が上がってるのは悪徳米問屋が買い占めをやって、値段を釣り上げているせいだってよ」

「何ッ!?ただじゃおかねえ!」

激怒した庶民約1700人が、幕府の御用米商人・高間伝兵衛の屋敷に押し寄せ、家屋を家財道具を叩き壊し、米を奪い、帳簿を破りました。

「打ちこわし」です。

享保18年の麦の収穫、新米の収穫によって飢饉はおさまりましたが、翌享保19年にはふたたび米相場が下落するというありさまでした。

行き詰まる享保の改革

飢饉と米相場の激しい変動によって、幕府の財政改革は完全に行き詰まりました。享保の改革により享保15年(1730)までに江戸城の奥金蔵(おくかねぐら。国庫)に百万両の蓄えができました。しかし各国への災害救済金の出費がかさみ、享保末年(1736)には21万両しか残っていませんでした。

享保の改革の歴史的評価

享保の改革の歴史的評価としては一長一短あり、一言でこうとは言えません。

吉宗の将軍就任時は、幕府財政は完全な赤字からスタートしており、それからしたらずいぶん立ち直りました。

しかしそれは増税につぐ増税によって得られたことであり、反発も多く来ました。一揆や打ちこわしという形で。

米価の下落も食い止めることができず、次世代に持ち越されます。

元禄以来の華やかな気風を戒め、質素・倹約をすすめために人の心が沈み、消費は冷え込み、新しい文化を生むような溌剌とした空気は無くなりました。

徳川綱吉の元禄時代には、松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴、菱川師宣、市川團十郎といった綺羅星のような文化人があらわれました。

徳川吉宗の享保時代に、松尾芭蕉・近松門左衛門に匹敵する文化人の名を挙げることができるでしょうか?

あまりに締め付けすぎると文化は育たない。吉宗の時代はそのいい例だと思います。

隠居と死去

延享2年(1745)7月7日、老中松平乗邑(まつだいら のりさと)は吉宗の命を受けて諸大名に伝えます。

「上様も齢を重ねられ、右大将(家重)も成人されたので、近いうち本丸・西の丸を移り替わる」

すなわち、吉宗が隠居して家重が新将軍になるという内意を伝えたものです。

延享2年(1745)7月25日、吉宗は西の丸へ。家重は本丸に入り、事実上の将軍代替わりが行われました。時に吉宗62歳。家重35歳。ここに吉宗の30年にわたる治世は終わりました。この日から吉宗は「大御所」と呼ばれるようになります。

いよいよ隠居するという時、吉宗は家重と長年享保の改革を共に進めてきた大岡忠相を召して言いました。

「数十年政務を行ってきたが、ここ数年はとどこおりなくやることができた。譲位は本望である。本日は最後の日光社参と思っていたが、天気もよく満足である」

11月2日、家重に征夷大将軍宣下。家重は正式に九代将軍となりました。35歳でした。

しかし…新将軍家重はいかにも頼りない感じでした。

まず言葉が不明瞭でした。アウアウいって、聞き取れるのは側用人の大岡忠光だけでした。また文武の道を好まず、酒食にふけってばかりでした。

家重のていたらくを見て、吉宗は隠居後も自分が支えなければという考えから、初代家康・二代秀忠のように早くに隠居して大御所となったものでしょう。

寛延2年(1749)頃から吉宗は病気がちになり、治療により一時回復するも、6月19日、危篤状態に陥り、翌20日、亡くなりました。享年68。

葬儀は上野寛永寺で行われました。正一位の位と有徳院の諡号が朝廷より贈られます。墓は遺言により建てられず、上野寛永寺の綱吉廟に合祀されました。

御三卿

吉宗には四人男子がありました。長男家重、次男宗武、三男は早世しており、四男は宗尹(むねただ)です。

御三卿
御三卿

長男の家重は九代将軍となります。次男宗武は江戸城田安門内に屋敷を与えられ田安家の祖となります。四男宗尹は江戸城一橋門内に屋敷を与えられ、一橋家の祖となります。

吉宗の死後、九代将軍家重が、次男重好(しげよし)に江戸城清水門内に屋敷を与え、清水家を立てさせました。

これら田安家・一橋家・清水家をあわせて御三卿と呼びます。

御三卿は御三家に継ぐ格式とされ、10万石のまかない料を与えられました。将軍家に跡継ぎがいない時は御三卿から候補者を出すことにしました。11代将軍家斉、15代将軍慶喜は一橋家から出ています。

田安門・清水門は現在の北の丸公園にありますが、一橋門は北の丸公園東・首都高の下に石垣跡が残るのみです。

一橋門 石垣跡
一橋門 石垣跡

6回にわたって徳川吉宗についてお話しました。こういう話をふまえて東京を、和歌山を歩いてみると、いろいろと発見があると思います。

解説:左大臣光永