田沼意次(一)老中への道

田沼意次は紀州藩の元足軽の家に生まれますが、大いに出世しついに老中にまで上り詰めた人物です。

貨幣鋳造、蝦夷地調査、新田開発事業、商人からの営業税の取り立てなど精力的に進めました。しかし天明6年(1786)将軍家治の死の直後、老中を罷免され、翌年領土没収の上謹慎。天明8年(1788)6月、江戸で失意のうちに亡くなりました。

田沼意次といえば昔は「賄賂政治家」と言われ、汚職まみれの、欲望まみれの、とんでもない人物として「日本三大悪人」の一人に数えられるほどでした。しかしそうした見方は近年変わりつつあります。

田沼の権勢盛んのエピソード

当時、田沼意次がいかに権勢さかんであったかを語る有名なエピソードがあります。ある藩士が、田沼意次の屋敷に伺いに上がった。そこは30余畳も敷ける部屋だった。、すでに多くの藩士が詰めていた。

普通、老中の屋敷などに藩士が上がる時には座敷の片方に並ぶものだが、片方では足らずに、両方に向かい合うように座っている。

それでもまだ足りずに、その間に何列か増やした。それでも足りずに、座敷の外側に座るものもいた。藩士たちは隣の部屋に刀を置いてあったが、見ると、部屋じゅうに並んだ刀がまるで海の波がたゆたっているように見えたと(『甲子夜話』)。

またこんな話があります。

田沼の下屋敷が稲荷堀に出来た時、田沼は一通り見て、なかなかいい。しかし池に鯉か鮒が泳いでいると、なおいいなと言って、江戸城に登城した。帰ってくると、誰がどこから持ち込んだかわからないが、鯉や鮒が池に放たれていた。

こんな話もあります。

田沼に贈り物が贈られてきたが、どんと大きな人間の背丈ほどある箱で、「京人形」と書いてある。開けてみると、生きた等身大の京人形…あでやかに飾り立てた美女が出てきたと。

こんな所から「賄賂政治家」というイメージも生まれたようです。

出生

田沼意次は享保4年(1719)、紀州藩士田沼意行(たぬま もとゆき)の子として江戸に生まれます。

父田沼意行は吉宗が八代将軍となったのに伴い紀州から上京し、江戸城に入って吉宗の小姓に任じられていました。

その子意次は享保17年(1732)将軍吉宗に拝謁し、翌享保18年(1733)、16歳で将軍跡取り家重の小姓に任じられ出世の糸口をつかみます。

享保20年(1735)父意行が亡くなり意次は田沼家の家督を継ぎます。

吉宗の隠居

延享2年(1745)7月25日将軍吉宗は将軍職を息子の家重に譲り、江戸城西の丸に移ります。以後、「大御所」として亡くなるまで影響力を持ち続けました。ならば現役のまま頑張ればいいのに、なぜ隠居したのか?それは長男家重に問題があったためと思われます。

長男家重は病弱で、酒と女色にふけりました。また言語が不明瞭で、側用人大岡忠光しか言葉を聞き取れなかったといいます。偉大な父・吉宗とは似ても似つかない、不肖の息子でした。

吉宗は、長男家重が至らないことを承知していたからこそ、自分が生きているうちに家重の政権をしっかり整えておきたい。そのためにさっさと隠居したものと思われます。

家重時代

宝暦元年(1751)隠居後も大御所として君臨してきた吉宗が亡くなります。

本格的な家重時代の幕開けです。この年、田沼意次は将軍家重の側用申次(そばようもうしつぎ)に任じられます。側用申次とは将軍と幕府閣僚が仕事をする御用部屋との間の取次役です。

評定所に出座

田沼意次は学問はありませんでしたが、打てば響くような応答の確かさが家重に気に入られたようです。宝暦5年(1755)加増されて五千石。宝暦8年(1758)さらに加増されて一万石。評定所に出座を命じられ、大名に列せられます。またこの年、遠州相良(静岡県相良町)に領地を賜りました。

仲間組合からの徴収

田沼意次が大名となった頃、天下は乱れに乱れていました。

前将軍吉宗は財政を立て直すために容赦なく年貢を取り立てました。増税につぐ増税。それが吉宗の考える「財政改革」でした。

跡を継いだ家重も、父吉宗の路線を継いで、増税路線でした。

当然、各地で反発が起こります。

四国でも、九州でも、何万人も動員した一揆や打ちこわしが起こっていました。多くは幕府側が折れ、農民の要求を飲むことになりました。

しかも一揆は天領でも起こっていました。

大名の領土で一揆が起こったならお前のやり方が悪いと処罰することもできますが、天領で一揆が起こったのはもう、幕府の政治そのものが悪いと突きつけられていることでした。というわけで当時の幕府は財政的にも権威においても、ガタガタでした。

宝暦8年(1758)大名に抜擢された田沼意次はそこで提案します。

「商人にも課税するのです」

それまで幕府は税といえば年貢と考えてきました。年貢を取り立てることこそ、財政を富ませることだと。

しかし元禄以来、商人がどんどん儲かっている。ここに課税して、流通税を取ろうという話です。

前将軍吉宗の時代、江戸町奉行・大岡越前守忠相の提案により、「仲間組合」なるものが作られていました。これは商人が取り扱う商品・流通過程ごとに細かく分けて作らせた組合です。もともとは物価の上昇を抑えることが目的でした。

田沼意次はこの仲間組合を利用して、商品ごとに、流通の段階ごとに流通税(冥加金)を取ることを提案しました。そして実行に移した。

家重から家治へ

宝暦10年(1760)5月、将軍家重が退き、息子の家治が十代将軍となります。

田沼の出世

その後の田沼意次の出世は目覚ましいものでした。

明和4年(1767)側用人に、明和6年(1769)老中に任じられます。安永元年(1772)には、側用人の役はそのままに老中を兼任することになります。これは異例のことでした。まず幕府譜代の臣を差し置いて、足軽出身の田沼意次が抜擢されたこと。そして幕府最高のポストである老中と側用人を兼任したこと。いままでに無いことでした。

「おのれ、なぜ田沼ばかり…」

同僚や、譜代大名たちは大いに嫉妬しました。

解説:左大臣光永