徳川吉宗(五)享保の改革(ニ)

甘藷先生(青木昆陽)の墓
甘藷先生(青木昆陽)の墓

相対済令(あいたいすましれい)

享保の改革のうち、挫折した政策の筆頭が相対済令(あいたいすましれい)です。享保4年(1719)に出されました。

当時幕府は財政難で大名旗本にまともな給料が出せず、そのため金貸しに走って借金まみれの大名旗本もありました。それで、金貸しが訴えて返せ返せぬの裁判が増えていました。幕府に持ち込まれる訴訟のうちの約90%が金銭の貸し借りについてのトラブルでした。幕府の処理能力をはるかに越えていました。

相対済し令は、もう幕府は金銭の貸し借りについての裁判は取り合わないというものです。幕府はもう手一杯だから、そういう民事の争いは、当事者同士の話し合いで何とかしてくれという話です。

ただし借金踏み倒しを正当化したものではない。これを悪用して借金を踏み倒す者は処罰すると繰り返し強調しました。

しかしこの相対済令はよほど不評だったようで、後に取り消しになっています。

上米制

吉宗と儒学者の室鳩巣のやり取りが残っています。

「幕府財政を立て直すために、何をするべきか」

「京大阪の裕福な商人から低利で金を借りてはどうですか」

「自分はそういう一時しのぎを考えているのではない。抜本的な解決策を考えているのだ」

吉宗は後の田沼意次と違い、商業には目を向けていませんでした。国を富ませる基本はあくまで農業、という考えでした。

農業を国家の中心にすえて、その上で幕府の収入を増やす。

つまり、年貢を目一杯取り立てるということです。

増税につぐ増税。

幕府が生き残るために、農民を虐め抜くことを、あえてやる。

しかし取り立てるだけでは行き詰まるので、新田開発をする。そしてさらに取り立てる。それが吉宗の覚悟でした。

しかし、その一方で急場しのぎの策も必要でした。

そこで行われたのが上米制(あげまいせい)です。

上米制とは諸大名に一万石ごとに百石を幕府に上納させるものです。つまり増税です。もう、幕府は財政難だから、もうどうにもならない。助けてくれと。

「御恥辱をも顧られず、仰せ出だされ候」(『御触書寛保集成』)とあります。そこまでに当時の幕府は財政が追い詰められていました。

そのかわり、吉宗は諸大名の参勤交代で江戸にいる期間を短くしました。

諸大名はそれまで一年江戸で過ごし、一年国元で過ごすことになっていました。それを半年江戸で過ごし、一年半、国元で過ごすという形にしました。

しかしこの上げ米制、ようは急場しのぎの増税ですから、ひずみが生まれます。大名たちは上げ米で収入が減ったぶんを農民から取り立てました。そのため、一揆や打ちこわしが多発します。

享保の改革がいちおうの成果を上げた享保15年(1730)上げ米制は廃止されています。

新田開発の奨励

収入を増やす方向としては、新田開発を奨励しました。享保7年(1722)江戸日本橋に「新田開発奨励」の高札を立てます。

大名と領民が協力して、新しく開墾できそうな土地があれば、どんどんやれと。この結果、越後の紫雲寺潟新田(新潟県)、下総の飯沼新田(茨城県)、武蔵の見沼新田(埼玉県)、武蔵野新田(東京都・埼玉県)などが開発されました。

武蔵野新田は大岡忠相が音頭を取って、特に大規模に開発が行われました。

足高の制

吉宗は財政改革と並行して、人事の仕組みも変えていきます。

享保8年(1723)から足高(あしだか)の制を実施します。これは役職ごとに基準の石高をもうけ、もし就任した者の家禄(家の石高)が役職の基準石高に足りない場合、その足りないぶんを任期中に限って幕府から支給するというものです。

たとえば家禄500石の旗本が基準石高3000石の町奉行に就任した場合、差額の2500石が幕府から任期中のみ支給されるわけです。

これにより、幕臣は家禄が低くても能力があれば高い役職につけるようになりました。また支出を気にせず職務に励むことができるようになりました。

幕府としては加増とちがって任期中のみ支給するだけなので、大きな負担にはならず、しかも人材登用がスムーズにいくという、双方トクする仕組みでした。

甘藷の栽培

吉宗は農産物の生産にも力を入れました。特に有名なのが甘藷の栽培です。

青木昆陽は江戸時代の蘭学者。元禄11年(1698)生まれ。京都の儒学者・伊藤東涯に学んだ後、八代将軍吉宗の命を受けて蘭学を学び、長崎に留学。

甘藷先生(青木昆陽)の墓
甘藷先生(青木昆陽)の墓

享保19年(1734)小石川養生所の一隅に甘藷を栽培。「これはいける」と確信すると、翌享保20年(1735)『蕃薯考(ばんしょこう)』をあらわし、サツマイモは備蓄食物としていいことを説きました。

また伊豆に流された罪人たちが飢えに苦しんでいるので、そこで甘藷を栽培し食料とすればよいとも考えました。

その後、青木昆陽は江戸町奉行・大岡忠相(おおおかただすけ)の後援のもと、目黒でサツマイモを栽培。そのため甘藷先生と呼ばれました。

吉宗の苦労

享保の改革で吉宗が目指したのは政府が社会のすみずみまで介入し、それによって社会を安定させることでした。いわば「上からの改革」です。大変な苦労が伴いました。こんな話が伝わっています。

ある時、大奥の年老いた女中が湯浴みを済ませて吉宗の前に出ました。そこで吉宗が尋ねました。

「どうだいい気分だろう」
「まことに天下を取ったような心持ちでございます」

「ははは。何のざれ言ぞ。天下を保つ身に、何の快いことがあるものか。これを快いと思い、心のままにふるまえば、その身も亡び、天下を失うに違いない。されば常に、天下はあずかり物と思い、京都の天皇はじめ下万民に到るまで、日夜心に忘れず、天道を尊び、神祇を敬い、小さな事まで心をめぐらし、しばしの間も心休まることがない。何の湯浴みをして、暑さを忘れるように快いものだろうか」

(『徳川実紀』)

解説:左大臣光永